3月23日深更 46

「ちょっと、待たない?」

 私は頬に髪がふれて痛いほど首をふった。結論を迫られても不思議ではないところに来ていたことに面食らった。

「そういう曖昧な表現ではぐらかすのはよくないよ」

「仕事なら、ちゃんと期限決めて返答するよ」

「じゃあ、仕事だと思って考えてよ。契約事項が必要なら今ここで列挙する」

「シゴト、なの?」

「僕の人生でいちばんの重要事だとは、自覚してる」

「ミズキさんて、お仕事が何より大事って思ってないんだ……」

 彼がわざとらしく嘆息した。

「恋愛以上に大切なこと、人生にないでしょう」

「ええええ?」

 思い切り失礼な反論の声をあげたせいで睨まれた。私は慌てて真顔をつくり、返答した。

「でもそれってミズキさんの最後の砦っていうか、才能あってお仕事できてたくさんお友達いて、これでソコさえ押さえればOKっていうのかしら」

「君、何気なくさらっと酷いこと言うよね」

「ありがと。ミズキさんにそう言われるのは快感かも」

 笑顔をつくって応対し、どうにかしてこの話題を切り上げようと考えていたところに。

「僕と結婚して」

 小首をかしげた上目遣いでおねだりされた。可愛すぎて呆れた。硬軟取り混ぜ、よくよく願望を通そうとするものだ。こちらが息を吸ってこたえようとする前に、言い切られた。

「姫香ちゃんとずっと一緒にいたい。もう姫香ちゃんが隣にいない世界なんて考えられない」

「ミズキさんなら他にたくさん素敵なひといるんじゃないの?」

「いないよ」

 低い声で返されて、マズイと感じた。私が息をつめたのに気がついて、彼はこちらの呼吸をはかりながら言い継いだ。

「僕は、気がおかしくなるくらい君に夢中だ。夜中に押しかけるなんてしたら強引すぎてひかれるとわかってて、来ないではいられなかった」

 それは、浅倉くんと私が今日、一緒にいたせいだ。それをこちらから明らかにすればこの状況は変わるだろうけれど、どちらに転ぶかわからない。リスクが大きい。

「君と会ってから僕は毎日、君のことばかり考えてる」

「じゃあなんでゲイだってこと、こないだまで否定しなかったの」

 彼は頤に手をやって、笑いをかみ殺した。

「そのほうが君が無防備に近づいてきてくれたからね。僕に触られまくってるのに君、あれっていう顔してあと、そんなものかなっていうふうに納得しちゃうんだもの」

 た、たしかに。なんだか腕とか肩とか背中とかやたら触られるって思ってたんだよね。でもすごく自然で、手を握られたり髪でも弄られれば用心したけど、人込みだったり道案内のためだったり、やってることはまったく逆だけど女の子でたまにそういう頼りないカワイイ感じの子がいて、ああいう感じに近くて。

「もうほんと可愛くて、騙してて悪いなって思ったけど、額と額がくっつく距離で雑誌みたりするの楽しくて」

「ミズキさん」

 遮るように名前をよんだ瞬間、何故だかそれがチガウ、と感じた。今の感触を思い返しながら、正座したまま尋ねた。

「ミズキさん、ほんとの名前、瑞樹じゃないよね?」

 ぴくり、と身体が震えて緊張した。彼は両手を膝の上において、こちらを、目を眇めるようにして見た。

「芸名?」

「うん」

「そうだよね。桂瑞樹だとしたら、あんまりにも、意味かぶりすぎだって思ってたの」

 姓も名も「水の樹木」という意味だ。彼は首をかしげるようにして私を見ていた。直感だけど、それは誰かのために用意されていた名前のように聞こえた。

「僕の本名、知りたい?」

「ミズキって、誰かの名前じゃないの?」

 彼は気を悪くしたふうもなく、若くして死んだ叔父、とこたえた。私が唇を引き結ぶと、かるく頭を揺すってから続けた。

「母の弟でね、作曲家志望の院生だったけど頓死した。僕は彼の命日に生まれて、母親は弟の名前をつけたがって、でも、桂の祖母が強硬に反対して、それはとりやめになったんだよ。まあそういう事情や色々あって、僕と母はあまりうまくいってない」

 彼のお姉さんはドイツで結婚してヴァイオリニストとして暮らしていると聞いていた。ごくたまに、お父さんの話は出るときもある。でもお母さんのことは昔ピアニストだったというだけで、それ以上、今まで一度も聞いたことがない。目黒の実家に住んでいるのかどうかも知らなかった。ネット等で調べればわかるのだろうと考えて後、なにか屈託があるのは気づいていたのでそれはしてはいけないとさし控えた。知らなくても不都合はないのだ。当人が明かす気のない話題を勝手に詮索するのは非礼だと感じていた。

「子供のころ僕の真上にいるのはいつも母親で、その機嫌を損ねないことだけに汲々とするのは僕にとって嫌な仕事じゃなかった。でも僕が少しは人間らしくなってきたころからはそうもいかないよね。姉は母にそれなりに愛されてたし、そこそこ才能もあったから母に傅くことに決めたけど僕はそれができなくて、今に至ってる。箏曲は、不純な動機で始めたわりには母親に干渉されなかったせいか居心地がよかったよ。正当な逃げ場になったからね。姉はかわいそうにコンクールのストレスで思春期には少し、おかしくなってたみたいだ。今は持ち直したけど、子供ができないのはあの頃に飲んだクスリのせいじゃないかって気にしてる。父は家庭のことは一切かえりみない研究者で海外研修に行けるようだと喜んで旅立つようなひとで、僕は自分だけで手一杯で、姉を守ることもできなくて……」

 そこでいったん言葉をとめて私を見た。

「こんなこと聞かされるの、困るかな?」

「え」

「僕としては家庭の事情も話しておかないと君に不利益をもたらすだろうから、できるかぎり正直に話しておきたいんだけど」

 私は彼の本気度に、つまりは話の内容ではなくて、それをいま言われることにおののいていた。

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