3月23日深更 44

 え、発音、綺麗すぎて聞き取れないんだけど、でも、ああ、それって不能……えっと。

「アタワズさん、のこと?」

「あた……、ああ」

 ミズキさんが本気で受けて、弾けたように身体全体を震わせて笑っていた。

「君、どうしてそう、いっつも面白いこと、言うの?」

「ただたんに読み下しただけだよ」

 それってきっと、男のひとにとってはすごい重大事なんだろうということは想像できた。オトコというのは一般に、立てておいてあげないとちっとも役に立たない生き物なのだ。へこましてイイことはひとつもない。常に貶められ挫かれつづけてそれでも役に立つ、またはツカエル女の身としては馬鹿らしいが、奴等はこちらが気をつかってあげることでどうにかこうにか使い物になる、豚もおだてりゃ木に登る式で生きているらしい。

 私はゆっくりと、なるべく息をつめないようにして、座っているミズキさんのそばに足をすすめた。あまり意識せず、こわがらせないように。でも、あと一メートルもないところでミズキさんは顔をあげ、こちらを見た。

「近寄らないで」

「でも」 

「……頼むから。君の嫌がることができないわけじゃない」

 脅されて、私はおとなしくそこに膝をついた。しばらく自分の息遣いをたしかめるようにじっとしていると、ミズキさんが頭のうえで手を組み合わせてうなだれたまま、抑えた、彼らしくない、聞き取りづらいくらいの声で語り始めた。

「浅倉と寝たくないって思ってたわけじゃない。でも、正直なところ、調子がおかしくなってからは彼に欲情したことはないしこの二年、僕は誰とも寝てない。君の言うところのアタワズさんだったからね。でも、君のことを想うと、すごく興奮する」

 それ、それって、あの……。

「本当に。君には嘘をつかないよ。二回目に会ったときに泣かされたし、もう全部見せてしまった気がした」

「だからって、私にも全部みせろっていうのは短絡すぎる」

 反駁に、彼はゆっくりと手をおろしこちらを見て微笑んだ。

「見せろとは言ってない。それはこれからの僕の楽しみだ」

「た……」

「一年ちかく、他人にさわれなかった。こないだ昔好きだった女の子に会ったのに、ぜんぜんその気になれなかったし。正直にいうと少し期待して行ったんだけどね」

 彼はそこでちらと視線をくれた。

「姫香ちゃんて、自分からひとを好きになったことのないタイプだよね」

「まあね」

 渋々ながらも認めないわけにはいかない。このひとの千里眼には恐れ入っているのだ。否定しても、こちらが認めるまで耳を覆いたくなるばかりのイタイ言葉を投げつけられるに決まってる。

 もちろん、自分からアプローチしたことも二度ほど、ある。いや、正確には三度。

 初回は忘れたい。それを横から酒井晃に見透かされて捕まったようなものだから。

 相手は体育会施設管理局長でヨット部の部長。笑顔の爽やかな好青年で、中一から付き合ってる純愛の彼女がいて――やたら征服欲をかきたてられた。

 部長コンパに勇んでかけつけ要領よく隣の席をせしめたというのに、けっきょくは、惚気を聞かされる羽目になっただけ。船頭多しで二次会の場所決めでもたもたしてる間に、あいつは無理だよと酒井くんにシタリ顔で諭された。しまいには、門限があるからと席を立った私をまだ付き合ってもいないのに駅まで送るとみんなの前で堂々と宣言した。外面ヨシの私はすでに一度迫られたことがあり警戒していた相手にも人前でつよく断れなくて、ましてや狙っているひとの前でキツイ女だなどと思われるのは論外で、つくり笑顔で申し出を固辞した。ところが、隣にいたその意中のひと本人に、酔っ払いがいるから送ってもらいなよと口にされて折れるしかなくなった。あなたに送ってもらいたいと、さりげなく、しかも強固に意思表示ができるほど、まだ合コン慣れしていなかったのだ。

 そんなわけで、酒井くんと二人だけになってすぐに手をつかまれた。ぎゃあと叫びたいのを堪えて振りほどこうとすると、いいかげんちゃんとこたえろよ、と問いつめられた。べつに気をもたせたつもりもないのだが、前に訊かれたときに彼氏がいるともなんともこたえずにはぐらかした。しばらく男はもういいと思っていたし、何もなかったかのようにスルーしたかったのは事実だ。あれで断ったことにはならないんだとガックリした。

 無意識に顔をそむけると、遊びで付き合えって言ってるんじゃないんだよ、と怖い顔をして見おろしてきた。そりゃあそうだろうと私も思った。衆目監視のうえで二度目の告白だ。絶対に断られないっていう自信あるんだろうなと呆れながら、かっこつけるだけの理由があると言わんばかりに整った顔を見あげ、思いっきり恥をかかせてやりたいような気分になった自分の意地の悪さに辟易し、これだけ気に障るっていうのはつまり、ソウイウコトだろうと諦めをつけた。

 それに、無理だと決めつけられてほっとしたところもある。私は、片想いというのをしたことがなかった。龍村くんに、三年生の私が局長をやったほうがいいと薦められて、彼と接点ができたと単純によろこぶ自分がいじましい気がした。本当に夢中になっているなら可哀そうな片思いのワタシに浸っていられたけれど、もしも、万が一にでも靡いたりしたら、その瞬間に彼が嫌いになるとわかっていた。自分でも、略奪愛ができるほど魅力的な女じゃないと知ってたし、絶対にそんなことにはならないとも理解していた。実のところ、本気で言い寄る気もなかった。

 ただ、八年もずっと同じひとが好きで卒業したら結婚するだなんていう男の子は希少価値で、乙女な気分全開で、そんなふうに想われてみたいと切に願っていただけだ。私は彼が大事にしているその女の子になりたいのであって、彼と恋愛したいわけじゃないと、ちゃんと、気づいていた。

 でもまあ当時は私だけじゃなくて、女子はみんなして夢をもって彼を眺めていたのだ。

 今は、違う。龍村くんの、そういう男って四、五十で若い女とやばいことになったりしそうだなんて失礼な想像を、尤もらしいと苦笑で聞けるようになってしまった。

 あとの二回は散々だ。親友の留美ちゃんには、後生大事に一線を守るからよ、と叱られた。だって! むこうから来ないときはどうしたらいいの? そう訊いたら、鼻であしらわれた。

 あんたね、何年オンナやってるの。一度目はまあしょうがない、でも二度目で出来ないようなら一生ダメよ。仕事だってそうでしょう。失敗して学べないってことは本気でやる気がないってことだから、とにかくもう、その男のことはあきらめなさい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る