3月23日深更 41
そこは遠慮なく、笑うことにした。その「も」が、他に誰をさすのか考えをふりむけようとしてほんとにバカらしくなった。けれど、そうやって笑っていたはずが、喉の奥になにか熱いものがこみあげそうになって身震いした。
ミズキさんはそんな私を黙って見おろして、何も言わないでくれた。とても優しくされたような気持ちがして嗚咽をこらえるのが難しくなったけれど、お客さんがいるのだという意識で自分を立て直そうとした。
「お風呂入る? それとも寝る? 明日、何時に出る? お腹すいてたらお茶漬けでもつくろうか?」
彼は私の問いにすこし考えるような顔つきをして、そのどれでもないことを聞いてきた。
「ねえ姫香ちゃん、今さらだけど、浅倉に絵をかいて渡したことあるよね?」
「う~んとね、文芸部の本の挿絵に使ってくれたのを適当にみんなで分けたみたいだから、私があげたわけじゃないよ」
不完全燃焼という顔でうなずかれた。
「姫香ちゃん、こないだ借りた絵で」
そう言って彼は部屋を横切り、スーツケースからファイルを取り出してきた。B5サイズのお絵描き帳から外された数葉の絵。
「これ、姫香ちゃんのセルフイメージじゃないの?」
自画像は学校の授業以外でかいたことないよと言うつもりで紙を見て、息をつめた。とっさにそれを隠そうとした私の手をかいくぐり、ミズキさんが一枚、掲げるようにして持ちあげる。
「だめ、それはダメっ、見ちゃダメ」
「そんな、裸でも見られたような悲鳴をあげないでよ」
わざとらしく片耳を押さえ、意地悪な声で笑う。
「僕、この子、天使みたいな美少年ですごくタイプなんだけど」
「きゃああ、もう、やめてっ」
取り返そうとすると、背の高いところで腕をあげられてしまった。ひどいっ。睨みつけると、もっともらしい顔で諭された。
「あのなかに入ってたんだから、今さら見るなっていうのは遅いよ。あんな色っぽい緊縛のアンドロメダや半裸のサロメを描いてるくせに、なんでそれが恥ずかしいの?」
緊縛って……緊縛じゃないアンドロメダなんていないだろう。アトリビュートなしじゃ誰かわかんないじゃん。それに、そういう妖しい感じの絵は恥ずかしくない。澁澤龍彦ファンだし、十代のころは不健康な世紀末芸術にはまっていた。今でもギュスターヴ・モローやルドンやビアズリーは大好きだ。
だいたい私はボッティチェルリを愛してるくらいだから残酷だったり痛ましかったりには慣れっこだ。あのひとの絵には苦痛と快楽のせめぎあいというか、はっきりと被虐と嗜虐というか、崇高なものと不浄なものとの相克というのか、とにかく美と醜のぎりぎりの葛藤があって、危ういところで立ち止まる、その息苦しさがたまらない。
そう、『ヴィーナスを開く』というディディ=ユベルマンの刺激的で艶麗典雅な著作を待つこともなく、サンドロ・ボッティチェルリのSM趣味には気づいていた。
私が初めてサンドロの絵の本物を見たのは《パラス(ミネルヴァ)とケンタウロス》だ。
蜂蜜色の長い髪を靡かせた美女が、弓をもって箙をさげた半人半獣の生き物の癖毛を右手でつかみ、海を背景にした岸壁に押し付けるようにして立っている絵だ。
制作年代は画家の絶頂期といわれる一四八〇年代前半にあたる。描かれている女性がパラスではなく、オヴィディウスの詩のカミラであるという説も有力だと思うけど、自分がさいしょに見たときに女神パラスとして覚えてしまったので覆らない。
女神は身の丈より大きい槍つきの斧を左脇に携えて、背には盾を負い、肩から腰に深緑の衣をまとった姿で描かれている。彼女の半透明の衣服にはダイヤモンドの指輪を組み合わせた文様が散らされ、はじめは金銀細工師に弟子入りしたといわれる画家の生い立ちをしのばせる。
ダイヤの指輪を三つ組み合わせたものは老コジモの用いたメディチ家の紋のひとつであるということだけれど、実際のところ、四つ重ねたものも目立つので、画家は造形的な美しさをいつでも優先させたにちがいないと思う。
従来の解釈のひとつでは、この絵は注文主であるメディチ家傍系のお坊ちゃん、ロレンツォ・ピエルフランチェスコ(通称・小ロレンツォ)のために描かれた、人間性をより高めなさいというネオ・プラトニズム的教訓画なのだ。つまり、ケンタウロスは肉欲や蛮行をあらわし、それを抑えて勝利する知恵と学問と平和の女神パラスという図式だ。
ところが、どうやっても見ても、私にはあれが官能性を否定する絵とは思えない。
おそらく、画家はその「教訓的主題」をまじめに受け取ったけれど、寝室の次の間におくに相応しい色付けは必要と感じていたことだろう。なんとなれば、デビュー作の《剛毅》で披露したように、女神の肉体を甲冑で隠すこともできたはずだ。同じ部屋におかれていたのが《春》だと知れば、彼は自分の得手を意識して狙ったにちがいない。
または、ネオ・プラトニズムの思想自体が抱え持つ官能性を、彼くらい正しく表現できる画家はいないという証左かもしれない。
勝利と平和の象徴であるオリーヴの若枝が女神の頭部を王冠のように取り巻き、腕を這い、腰へとまとわりつき、ことに乳房を強調するように絡まるさまもなまめかしい。胸部の頂きを飾る金に縁取られた宝石細工も艶麗だ。さらには女神の肢体を覆う――彼のもっとも得意とする――透ける薄物は風に揺れ、それが肌を撫ぜるさまを存分に意識させる。今まさに、女神はひと足ふた足、おごそかな歩みで半人半獣に近づき、取り押さえたところだと言いたいのだろう。
冷然と見おろす彼女の表情と、眉を寄せて哀れっぽく振り仰ぐ姿勢のケンタウロスの顔の差異も含み合わせて、申し開きようがなく、SM の女王様と奴隷みたいな怪しさ全開だ。
あれにイカレテしまった自分の性癖というのも、ちょっと、いや、かなり妖しい。でも、絵画に色気がなかったらそれは魅力がないってことだ。だから、あんまり上手じゃないけど、下品に陥らないかぎり、そういう絵をかくのは好きなのだ。
うかがい見ると、ミズキさんは私の無言にご満悦な猫のような顔をしている。なんと性格の悪い!
「この子をかいた他の絵はないの?」
「たぶん、ない。みんな、もらわれていったから」
「浅倉に?」
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