3月23日深更 40

 私は聞いているとちゅうで冷凍庫をあけ、茶漉しを取り出した。指先に痛いほど冷えた銀色の茶筒の蓋をあけて中身をたしかめる。深い緑色は右手につかんで傾けると漉したばかりのやわらかさで手応えなくさらさらと、中央の山が崩れた。

 干菓子なら、ある。

 ポットのお湯を鉄瓶に戻して沸かす。戸棚から、それでも少しはまともな黒楽茶碗を手にとった。ちらりとミズキさんの手を盗み見て、こういう手には大井戸茶碗みたいなものが合うのだと、妙に悔しい気持ちがした。

 お茶は、男がするといい。男女の別ではなく勝負事にこだわる質のほうが張りがある。和というのは馴れ合いとは違う。異質なものをどうやって纏め上げていくか。取り合わせの妙、機微。「客を敵と思え」というのが、こういうオトコには向いていると感じた。世の中なんでもそうだろうけど、お茶も、身体能力の高いひとがすればするほど、面白いのだ。五感を研ぎ澄ますことのできるひとなら、いくらでもはまれる。

「小倉山だから、お薄のほうが飲みやすいと思うけど」

 念のため、予防線を張った。お濃茶でもいける銘柄だけど、お干菓子では甘みが足りないかもしれない。お茶はお菓子が肝なのだ。

「お薄はどこででも飲めるよ」

「じゃあ、そっちで座ってて。いま、お菓子を運ぶから」

「あ、ご相伴で」

 私は顔をあげた。

「ひとり分のお濃茶たてるの大変でしょ」

 その言葉を背中に聞きながら、出し袱紗を取ってくるために自室に戻る。あれは入門しただけという物腰じゃない。とはいえきっと、前に話していた通り、お免状は入門だけに違いない。ミズキさんはそういうとこ、ウソがない。

 干菓子ではなく白湯を出したところで、お客様は瞳を大きくした。

「本格的だね」

 茶事のさいしょに口を清めるために白湯が出ることを言っているのだ。

「ううん。運転してきて喉が渇いたでしょ? 鉄瓶のお湯だから美味しいよ」

 桜湯にしようかと思ったけれどやめた。この、白湯所望というお点前もなかなか好き。冬の、よく釜の湯の沸いた茶室は意外とのどが渇くもので、茶事の最後、お薄のときに白湯を所望されると、そこに集うひとたちみなが楽しんで、温かいひと時だったことを思う。

 懐紙に虎屋の推古をふたつ、紅白揃えてのせてから考え直す。茶事というわけじゃないのだから、美味しく飲めたほうがいいだろう。好きなだけ取ってもらえるよう真塗りの菓子盆に形よく並べ、懐紙を束のまま渡す。

「これ、僕が先にいただいていいのかな」

「変則だから、それでいいと思うよ」

 私は茶杓をとってお茶を六杯、山ほどすくう。たっぷり飲みそうなひとだから薄めにしたりしない。松風の音というわけにはいかないものの、十分に沸いたお湯を温めた茶碗にそそぐ。ペースト状になるよう気を配って茶筅で練る。はじめて点てたとき、これはココアに似てるものだと思った。ダマがないか気をつけながら、またお湯を注ぐ。お茶の表面が漣立ち、口のなかに暖かいものがぽってりと滴り落ちるようなのが甘くて美味しい。

 きちんと正座したミズキさんの前に斜めに座り、まずは自分の膝の前に茶碗を置いて出し袱紗を揃える。茶碗をとりあげて正面を向けて相手の右膝の前へと回し、続いて袱紗もその左横にまわしおいて一礼し、そのほうが飲みやすいだろうと判断して、膝をくって彼の隣に座ることにした。

 黒楽茶碗にはぷるぷるのお抹茶。横に並ぶ袱紗は橙色の七宝繋。

 かるく居住まいを正したミズキさんが茶碗と袱紗をふたりの間においてお辞儀をした。

 私はそれを受けて、次客の位置で座っているくせに亭主のふりをすることにした。一口、彼が含んだところで手をついて、いかがでございますか、と問う。

「姫香ちゃん、これ、すごく甘い」

 思わずあげたという声に、頬がゆるむ。ふふふ。そうだろう、そうだろう。

「私はいいから、たくさん飲んで」

「ありがとう」

 ほんとに美味しそうな顔するね。気分がいい。ミズキさんの上品な睫がそっと伏せられているのを見ると、嬉しくなる。

 ごめん、ほんとにたくさん飲んだ、とまわされたお茶碗をのぞくと、本当にあまり残っていなくて吹き出しそうになった。

「お薄も飲む?」

「ううん。しばらく口の中のこの甘みを大事にしとく」

「それはよかった」

 私は自分で吸いきると、茶碗と袱紗をとりあげて持って聞いた。

「大したお茶碗じゃないけど、拝見する?」

 この、飲んだあとのお茶碗を見ると、そのお茶の残り具合で美味しかったかどうかわかる。彼は遠慮したのか首をふった。あんまり改まってもと思っているようで、そのくせ。

「十何年ぶりくらいにいただいたよ」

 お茶を飲んで一息つくという、まさにそういう顔だった。

「それにしては堂に入ってたよ?」

 彼は首をかしげて照れたように笑った。このひとが照れるのを、初めて見た気がした。 

「姫香ちゃんて、僕の祖母に似てる」

 腰をあげた私の踵あたりにつぶやきが落ちた。これはきっと、立派な褒め言葉なのだろうと見当をつける。このひとのおばあさまなら素敵なひとだと思う。

 茶碗を洗い、茶筅と茶巾を熱湯でゆすいで乾かしながら、まだ六畳間に正座してうつむいているミズキさんの顔を遠くに見た。

「落ち着いた?」

 私の声に顔をあげ、かるく笑って問い返す。

「泣いてたのは君じゃないの?」

「まあね。でも、今のでシャッキリした」

 ミズキさんが菓子盆をもって立ち上がる。所作の美しさというのは、どんなときでも私の目を奪うらしい。

「浅倉にひどいこと言われたんじゃない?」

 隠し立てしても始まらないが、どうこたえていいかわからなかった。だいたい、あんなことで声を荒げるなんて大人の男のすることじゃないし、泣いてしまう私も駄目ダメだ。

「彼も馬鹿だよね」

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