3月23日深更 39
一亭一客。
一対一の点前くらい難しいものはなく、お互いの気持ちがぴたりと添うことで、無上の歓びが訪れるものという話だが、はて。
その夜の客は小ぶりのゴヤールのスーツケースを持ってあらわれ、開口一番、あれ、パジャマじゃないんだ、と笑った。思わず眉をひそめたが、とりあえずクルマを拭いて部屋にあげないことには始まらない。
予想と違いミズキさんは弱っている様子は微塵もない。深夜だというのにまったく着崩れ感のないスーツ姿だ。正直、尾羽打ち枯らした姿であらわれるに違いないと、実はかすかに期待していたのかもしれない。
部屋に通すと物珍しそうに周囲を見回して遠慮のない声で述べた。
「従兄の家だっていうわりに、居心地よさそうに暮らしてるね」
「けっこう長く借りてるし、奥さんと仲がいいから勝手にさせてもらってる」
私は自分が飲みたいものをいれるつもりでキッチンへと向かった。彼がパジャマ発言の次に、中学生みたいだね、という禁句を吐いたせいで、おもてなしモードはすっかり切り替わっていた。たしかに髪はいいかげんなポニーテールで当然すっぴんだし、白のニットワンピースに弟がくれた紺のパーカーを羽織った部屋着姿だけど、夜中に押しかけてくるほうが悪いのだ。
「なんでスーツケースなの? 明日から出張かなにか」
「しばらくここにお世話になるから」
本気で聞き返した。ミズキさんはすっかり寛いでいて、和室に置いてあった本を開いて見ながらそのままの姿勢で。
「浅倉の頭が醒めるまで、一緒にいようよ」
「ちょっと、なんでそうなるわけ?」
こちらへとまっすぐに歩いてこられて、そこではじめて、なんだかとんでもないモノを家に上げてしまったことに気がついた。
Elle a vu un roup. 彼女は狼を見た。
突然、大昔に読んだフレーズが閃光のように眼裏に浮かびあがる。うそ。やだ、今のは見たくない言葉だ。見ない、みない。
「僕が一緒にいたほうが防波堤になるんじゃない? 全力で、姫香ちゃんをお守りします」
待て待て。
「あれ、受けてないみたいだねえ」
にこりと首を傾げられたが、私はまだ構えていた。彼はそれに気がついたのか、後ろを振り返るようにして訊いた。
「ネオ・プラトニズムについて調べてるの?」
うなずいた。それについて知りたいといった大事なひとにちゃんと話すことができなくて、百科事典にのっているようなことを言ってすませようとした私は後悔していた。そんなの、せっかく向き合って会話をしてる意味がない。
「ルーイスの『愛とアレゴリー』は読んだ?」
「『薔薇物語』のでしょ? ゼミで『薔薇物語』自体は取り上げたけど、自分の発表じゃなかったからちゃんとは読んでない」
「あれ面白いよ。今度、もってこようか」
お礼を述べてあと、なんとなく間があいた。
私はとりあえずお茶をいれることに集中しようとして、問題を据え置きにしている居心地の悪さに身震いした。どのタイミングで切り出せばいいのかわからなくて、ただこの気まずい感じから逃れたくて、急須から手をはなして言い切った。
「私、ミズキさんに謝らないといけなくて」
「僕が浅倉のこと好きだって、君に言わせたこと?」
その視線に鎖骨のあたりが苦しくなって、うなずくこともできずに目をそらす。
「姫香ちゃん、浅倉はそれを知ってるよ」
「でもそれって、ずっと前に言っただけのことでしょ?」
彼は顔を伏せて笑った。嫌な、癇のたつ笑い方だった。
「こないだ、浅倉がいきなり君に告白して玉砕したあと、僕が君に結婚やめなよって言ったあとすぐ、彼に言ったよ」
「ウソ」
「嘘じゃない。浅倉が君になんて言ったか知らないけど、僕は、あの家から出て行って欲しくないってお願いした」
そんな。このミズキさんが、お願いするなんて信じられない。
「浅倉はあれで、珍しく考えてたみたいだけどね。僕は独りにしとくと少しおかしくなるし、ほっておけないとは思ってたみたいだな」
おかしくなるって……。
「ああ、べつに手首切ったりしないよ。寝なかったり食べなかったりするだけ。もともと睡眠時間少なくても平気なほうだし、ひとりでご飯食べるの嫌いだから誰もいないと抜かしちゃうんだよね。ほんとはぐうたらなのに空白恐怖症で仕事入れて、誰かといたくて予定つめまくるんだよ」
「……今もけっこう忙しくしてない?」
「前はもっと酷かった。このままだと心筋梗塞で倒れるって師匠に叱られたよ」
自嘲気味に、彼が続けた。
「浅倉は優しいから僕に付き添ってくれてただけだ。でも君がほんとに結婚ダメになってあとは出て行きたそうな顔してたよ」
混乱していた。でも、ミズキさんがウソをついているとも思えなかった。じゃあ、浅倉くんはミズキさんが自分を好きだと知っててずっと一緒に暮らしてたの? なんかそれ、残酷じゃないかな。いや、そうじゃないのか。独りでいるとおかしくなるならほっておけない。浅倉くんはたしかに、ほっておけないって言った。じゃあ、でも……。
「手許がお留守だね」
出すぎだよ、それ、とミズキさんが隣に立ち、急須のなかみを茶葉ごと捨てた。
「ねえ、お濃茶たててくれる?」
彼は振り返り、おねだり口調でそう言った。
いったん、そこで考えるのをやめにした。というか、スイッチが切り替わった。眠れなくなるよ、と言うつもりが別の言葉が口をついて出た。
「お菓子がない」
「なくていいよ。お点前を見せてって言ってるんじゃないし、僕は苦いもの好きだから」
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