3月23日深更 38

 彼の言葉を聞き終える前に、ケータイを閉じていた。

 胸で呼吸をしてるのがわかった。過呼吸の発作のように、指先が冷たくなって痺れていた。電話をはなし、指をあたためて感覚をとりもどそうとして手を組み合わせる。

 なんで。なんでこんな嫌な気持ちにならないとならないの? あの浅倉くんに、あんな声を出させてしまった私がいけないの? ひどい。どうして、どうして私がこんなめにあわないといけないの。考えがまとまらなくて、蹲って泣いてしまいたかったけれど、ミズキさんに電話をかけないとならないことを思い出した。

 とにかく、これで私まで泣き声じゃどうにもならない。ケータイをつかんで寝室を出て、自分をしゃっきりさせようとした。廊下を歩きながら着信履歴を呼び出して押す。

 ところが、何回コールしても応答がない。留守電になる様子もなくて、私はしつこいほど鳴らしていた電話を切った。かるく、眩暈がした。世界がくるりと半回転し、あわてて平衡を保とうとせず、揺れにまかせて目を閉じた。ダイニングテーブルに手をついて、落ち着け、と声を出した。

 浅倉くんと話してるっていうこともあり? そしたら話中? でも、じゃあ家の電話。アドレスを呼び出して家のマークのほうを見てかける。そちらは伝言、またはファックスに切り替わるという音声が聞こえてきた。

 最悪のことを考えそうになっていた。夜中、三十すぎた男に電話口で泣かれたら心配になっても当然だろうか。男のひとが泣いちゃいけないなんて偏見はないつもりだけど、でも、ふだんどこにいても颯爽とかっこよく見えるひとだからこそ、途方にくれる。

 電話を。とにかく、電話をかけよう。

 震える指で、押した。

 出ない。やだ、どうして?

 私はキッチンの椅子に座り、ケータイを閉じてテーブルにおいた。

 浅倉くんに……それは、それはダメなの? 着替えてタクシーを呼んで、ここから築地までどれくらいだろう? だったら都内にいるはずの浅倉くんのほうが早い。または、浅倉くんから電話すれば出てくれるかもしれない。甘えているようだけど、頼れるのは彼しかいないんだもの。

 またあんな声で非難されることを想像すると目の前が暗くなるような気がした。でも、怒られても罵られても、ミズキさんの無事を確認しないことには気持ちが落ち着かない。

 私のことはいい。

 今は、ミズキさんの安全確認が大事。

 深呼吸をしてもう一度、電話しようかと思ったその時、着信音。表示を見ることもなく飛びついた。

「ミズキさん、いま」

「今、ずっと電話くれてたよね」

 落ち着いた、しっかりした声だった。さっきみたいな震え声じゃない。私はどうしてか、泣きそうになりながらうなずいた。

「ごめんね、出られなくて。もう高速乗ってて」

「はい?」

「あと二十分ちょっとで着くから、待っててくれる?」

「え、ミズキさん?」

 それ、どういうことなの! 

 切れたよ。切れたじゃないか……。

 私はケータイを片手に、呆然としていた。ウソでしょ? 折り返しかけなおそうとして、運転中かと考える。

 今、ちゃんとクルマ、停めてたの?

 あああ、もううう。

 電話を閉じてひざの上に握ったまま、息をついた。それから左手で髪をかきあげて、もう一度、こんどは目を閉じてため息をついた。

 よかった。

 とりあえず、よかった。

 こんなに振り回されて、おめでたいと思うものの、でも、安心した。怒らないといけないところかもしれないのにと考えたところで、はっとした。

 勝手に、ミズキさんの気持ち、浅倉くんにばらしちゃったんだ。成り行きとはいえ、ひとの秘密を。

 落ち込む。失敗した。ミズキさんに悪い。

 ああ、どうしよう。どうって、謝罪するしかないじゃん。うわ、こわい。

 でも、私が悪い。自分が悪いことをしたと思うなら、その責めは受けなきゃダメだ。そのくらいの分別はもつこと。

 私には、彼の我慢のきかなさというのが、不安なのだろう。それに、あのミズキさんに非難されることを思うと肝が冷えた。

 ああ、バカ、バカ。こんなことがしたくなくて、きたのに、神様。

 神様。

 そう、つぶやいたところで気がついた。ダメだめ。泣いてたら、二十分なんてすぐたつから。愚痴ばかり、繰言ばかりぼやきそうになるのを堪えなきゃ。

 まずは部屋を温め、鉄瓶にお湯を沸かして、客用布団に布団乾燥機をかけないと。自分は着替えて――さすがにパジャマというわけにはいかない。お風呂入ると気持ちが楽かな。お湯を捨てて洗うだけ洗っておくか。ご飯、ちゃんと食べただろうか――思い浮かぶことに優先順位をつけて時系列と動線を組み立てて、お客様おもてなしモードに切り替える。

 さあ、気を引き締めていくぞ。こないだのお返しに、自分がどのくらいのことができるか試すつもりで。

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