3月22日 26
それは。
顔をあげると、目があった。
目を逸らさないでいられてよかったと、感じた。浅倉くんは怯えた様子も、居丈高な様子もなくて、ほんとにただ、自分では解決できない大きな疑問を抱えているように見えた。私のことを、私が何を言い出すのか、何を考えているのか、感じているのか、とにもかくにも知りたいという顔をしていた。
待てと言ったあとの犬みたいな、というとこれはひどく失礼にあたるんだろうけど、でも、こちらから一瞬たりとも気を抜かないっていう姿勢は、あれに似ている。それ以外、あんなに凄いものを他には知らない。
そういえば来須ちゃんがよく、浅倉くんを下僕、呼ばわりしていた。へいへい、と頭を揺らしてうなずいて、お次は何をしますか女王サマ、とおどけて笑ってこき使われていた姿を思い出す。
それでもさいしょは、ゲボクって何だよ、と口を尖らした。その横で、龍村くんが作ったばかりの銀縁眼鏡が気になるのか人差し指でもちあげて、使いべりしない奴隷のことじゃないの、と鼻をならしていた。オレだって意味くらい知ってますよっていうか奴隷はひどくないっすか、という反駁には、私が冷静に返答した。学園祭が終わるまで私たち全員、祭りのしもべだから。
浅倉くんはこちらを振り返って、じゃあ、終わったら何になるんすか、と真顔で尋ねてきた。ちょっと虚を衝かれて、ここはなにかカッコイイ、または凄く面白いことを言わないとイカンと思った。その瞬間、彼とそう身長の変わらない来須ちゃんが赤いコンバースの靴底をキュキュッと鳴らして、その後ろ頭を小突くようにしてこたえた。
アサクラはただの学生だろ、あたし達は文化会本部役員だから違うけど。
来須ちゃんは彼に対してときどき、そういう疎外感のある言葉を口にした。言葉遣いが悪くて感情的にモノを言うくせがあるものの、ひとの痛むところをわざと取りあげて言うようなことは決してしないはずなのに。
あとで彼女とふたりだけになって、ああいう風に言わなくてもいいじゃない、と見あげると、でも本当のことじゃないですかと反論し、素直に受け入れなかった。いつもなら、気をつけます、すみません、つい腹が立っちゃって、とかこたえてくれるのだけど、そのときはそうならなくて、彼女の黄味の強い、触れたくなるようなつるりとなめらかな頬のあたりを見つめていると、ごめんなさいと神妙な様子で頭をさげられた。
自分としてはそんなに深く謝罪されるようなことじゃなくて、気になったから軽い感じで言ったことだったので少々うろたえていると、それを察して、アサクラってでも、すごくいじめたくなりませんか、と笑って話を流した。それはそうね、とそこは遠慮なくうなずくと、かるく肩をすくめていた。
それで話はお終いになって、あとで私は思い知るのだ。彼女がため息のような声で頬杖をついて笑うのを聞きながら。
だってアサクラって、ずっと永遠に自分がここにいられるって思ってるみたいで、それでバカみたいに先輩のことじっと見てて、そのくせ全然なんにも気がつかなくて、ほんっとにバカじゃないの、早く気づけよって後ろからどつきたくて堪らなかったんですよね。
そのときのいたたまれない気持ち、身の置き所のなさを。
「センパイ?」
昔のことを思い出してぼうっとしていた私を見おろす顔は、記憶にあるよりずっと、しっかりしていた。頼りないと思っていたわけではないものの、ある種の軽薄さを感じていたような覚えはきっと、自分自身にもあてはまる、学生時代の気楽さや、純粋な若さ、または時代の雰囲気というものか。
いちど目を伏せてから頤をあげ、ちゃんと言わなきゃとこぶしを握る。
「自分が、コワイの。浅倉くんがこわいんじゃなくて、変わってしまう自分が嫌なの。相手が誰であろうと、そのひとのせいで自分を曲げてしまいそうなことがイヤなの」
浅倉くんは太い眉を寄せ、ふくらみのある唇を歪めたままそれを聞いた。聞き終えてしばらくしてから、濃い睫が音をたてそうな勢いで目をしばたいた。
「それって」
「とにかく、そういうことだから」
背を向けたところで、さすがに我に返ったみたいだった。待てよ、と強い声が響いた。
待たないよ!
やっ。
肩をつかまれて抱き込まれた。こういうとき、背の低い自分がイヤになる。視界を遮られるように迫られると、言いようのない圧迫感に苦しくなる。
「はなしてっ」
「なんでいっつも逃げるんだよ」
「逃げたいからに決まってるでしょ」
怒った声で、上から言わないでよ。強く来られれば、その勢いで反撥する。声はひたすら高くなり、非難めいて尖る。
「だからっ、なんで」
なんでって追いかけられるから逃げたいんじゃないか。理由はないよ。たぶん、浅倉くんは逆に、逃げるから追いかけたくなるんだと言いたいんだろうとはわかるけど。
息を乱して見おろされると、こわい。浅倉くん、顔、コワイんだもん。眉をぎゅっと寄せて、苦しそうな切羽詰った顔されると、ひく。なんだ私、やっぱりコワイんじゃん。
そう思ったところで、キス、された。
いきなり何するのよっ。両手で顔をはさむな。コラ、コラ! 舐めるな、噛むな! 犬じゃないんだから。うっとり目を閉じるな。舌を入れるなあっ!
「やめっ」
よけた拍子に、甘い、と震えたような声が言った。グロス、イチゴ味だからね。だからどうした、とにかく。
「離さない」
耳をうつ掠れ声。
顔をのぞきこまれ、目じりに唇が落ちた。
調子にのっている。右手が左耳をくるむように撫でて、髪を指ですく。その間にまた、額にキスされた。いくつも、いくつも、唇が顔のうえをすべる。おい、好き放題じゃないか。こら、いつ触っていいって言った。
「かわいい……」
可愛くないよ! 自分よりちっちゃいからって、なめてるな。って文字通り、舐めるな。こら、こらこら、生え際だってファンデーション塗ってるから、やめ……。
そのとき、廊下の向こうから細いヒールの足音が聞こえた。彼はいったん顔をあげ、そちらを見た。私は恥ずかしくて見れなかった。でもほっとして、これでこの暴挙がおさまるものと身体の力を抜いた。ところが、
「んっ」
ひとが来てるのに! どう考えても、おかしい。オカシイヨ! 浅倉くんはやめるどころか、背中に腕をまわしてさっきより深く、本格的にくちづけてきた。
ウソでしょ。ちょっと、やだ、誰か助けて!
一瞬、足音が止まったものの、それはすぐさま再開された。戻ったんじゃない。そりゃ戻らないよね。私だっていちゃついてるカップルがいたくらいでおトイレを我慢しないと思う。でも、デモ!
手首をつかまれて、その胸を押しのけようとするのに全然ダメで、頭のなかはグルグルするし、恥ずかしくて死にそう……
規則正しいヒールの音はそのまま、おトイレのドアを開ける音の向こうに消えた。そのまま、もうひとつの扉を閉める音が聞こえたところで、浅倉くんがようやく戒めをといた。
「ひ、ひとに、見られたじゃないっ」
「じゃあ、誰にも見られないとこに行きましょうか」
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