3月22日 25

 昔から鏡を見るのが好きじゃない。美しく生まれればそんなふうに思わなかっただろうかと考えることもある。

 中学生ぐらいから、学校の女子トイレは嫌いな場所のひとつだった。いわゆる連れションというのが苦手で、順番に鏡の前に占拠する女の子たちの輪にすっと入れない自分がいた。髪を梳かし、リップを塗る、同じ制服をきた女の子たちに混ざれない。鏡のなかの彼女自身を見つめる視線の熱が、ふだん私が知っているはずの友人たちを別のものに見せていた。

 鏡だけでなく、嫌なものは他にもあった。とくに密閉された場所で行われる噂話の類を聞くのが堪らなかった。

 高校生のときは、違う棟のおトイレにまで走っていた。地学準備室の前のそこには誰もいない。自意識過剰だと自分自身を嘲笑いながら、トイレくらいひとりでゆっくり入らせてくれよ、と思っていた。

 時計を見ると、十時すぎ。浅倉くん、このあと仕事かな。

 これが龍村くんだと飲み足りないとばかりにショットバーに流れたりするのだが、あのころのアサクラ君は何故か、ファミレスだった。山盛りのデザートが食べたくなるらしい。ここはオレがおごります、と胸を張られた。ひとりで甘味処に入れないオトコの典型かと思ったが、駅裏のクレープ屋情報をさいしょに運んできたこともある。

 飲んでラーメン屋さんにハシゴするという成人病まっしぐらの悪習が存在すると知ったのは、社会人になってからだ。おなか壊すから、私はできない。脂物、苦手。とはいえこの後、パフェやプリンということはもうさすがにないだろう。

 化粧ポーチを取り出したものの、鏡の中の自分は何をしてももう、救いようがない。酔うとよけいブスになる気がする。瞳が濁っているし、顔だけじゃなくて開いた喉から鎖骨のしたまで、紅潮していた。淡水真珠のチョーカーが白く浮いて見える。ということは傍目にはかなり酔っているようにうつるだろう。

 読みかけの文庫本の続きも気になるし、カフェかどこかで酔いをさましてから帰るかな。

 リップブラシで輪郭をとって口紅を塗る手間をはぶいて、グロスだけのせることにした。これで充分、化粧顔になる。お化粧は自分でする分には社会的儀礼に背いていなければOKとする。誰も、私の顔なんて見てないから。だらけていると言えばだらけている。でも、家に帰るだけだし、もういいや。そういう気分で取り出したポーチをしまった。

 それにしても、ナノテクというSF用語のような言葉をお化粧品の宣伝文句で目にするようになったのは何年前くらいからだろう。アンチエイジング、美白、なんでもいい、とにかく美と若さへの飽くなき追求は有史以来ずっと続いていて、近頃ますます過激になっているようだ。かたや食べ物がなくて死ぬひとがいるというのに、なんだか不自然な気がする。自然というのも定義からして曖昧だけど。

 後の銀河系史(アシモフ先生の銀河帝国興亡史のハリ・セルダン様が予測してるみたいなやつかしら)のなかで、地球全史がかかれたら、私たちの時代が一番に罪深いって書かれていたらどうしようと想像することがある。この時代のひとが様々な愚かな振る舞いをしたせいで、地球のたくさんの種が銀河から永遠に失われたのです、なんて教科書に記されたりして。がっかりだわ。

 地上よりずいぶん離れたところから、地球を見る視線くらい自分のなかで養っておきたい。せっかく、あんなに美しいものを見ることのできる時代に生まれたのだから。


 細長い灰色の廊下の向こうに、浅倉くんが壁に背をついて腕を組み横顔をみせていた。

 おトイレのドアから一段おりた、ヒールのたてる硬質な音で、顔をあげる。

 いつも思うけど、この出待ちの男のひとってなんだか間抜けだ。一緒に入ってもたいていあちらが早く出てきてしまうわけで、まあしょうがない。きっと所要時間の差ではなく、鏡の前に立つ時間が多いのだ。ちがうかな。ドアを開け閉めするのにも時間がかかるし、衣服の着脱に手間取るからか。

 ん、なんでこっち来るの? おトイレ?

 浅倉くんが目の前に来ていた。動けない自分に驚いている間に抱きこまれて、壁に背を押しつけられる。身体が揺れて、なで肩のせいで引っ掛けていたバッグが腕へずり落ちた。あわてて掛けなおそうとすると、彼はそれをぐいとつかんでそのまま私の背中へと回した。A4の書類も余裕で入る長方形のバッグを壁と背の間に押しこめられて、私の身体は不安定に傾いだ。

「ちょっと、なに?」

 何をされるのかはわかっていたけれど、他に言いようがない。頬に手がかかって、上を向かされた。思わず首をすくめて目をつぶると、好きだとかなんとか言いながら、浅倉くんは私の額の生え際にキスした。

「センパイ、こういうとき目、閉じちゃダメですよ」

 掠れた笑い声が、髪を揺らした。右手が耳をくるむようにして、頬にかかる髪をゆっくりとかきあげる。あらわになった耳の上に熱のこもった声が触れた。それだけで震えた背中を撫でるように両腕をまわして身体を密着させてこられて、甘い匂いが鼻をくすぐった。

「キスしたい」

 いい加減にしろ! と叫ぶつもりが、相手の顔をまともに見れずにうつむいた。自分の心臓が鳴っているのが聞こえるなんて、変だ。顎をつかまれたところで、声にさえならない拒絶が、迸る。

 浅倉くんはびっくりしたように両手をはなし、それでもそんなに離れないで、息遣いが聞こえるくらい近くでじっと、立っていた。

「……泣くほど、オレのこと、嫌い?」

 嫌いじゃない、と思う。

 でもここで首を横に振ると、なんだかもっと怖いことになりそうで動けずにいると、盛大なため息をつかれた。三十もとうに過ぎてキスされそうになったくらいで泣いていてどうする。そう思うのに涙が止まらない。きっと、酔っ払ってるせいだ。

「オレどうしても、センパイがオレのこと嫌いだって思えないんだよね」

 嫌いの反対は即好きってことになってしまうのはどうかと思いながら、友情とかその他いろいろあるだろうと言いたいのに言えなくて黙っていると、浅倉くんは自分の髪をかきあげてのぞきこんできた。目が合うのを避けて私が横を向くと、右手をあげてそちらを向かせようとしたみたいだったけど、その気配にひゅっと息をつめると、そろそろとしずかに手をおろした。

「それってオレの、自分勝手な思い違いですか?」

 それでも私が動けないでいると、ひどく情けない声が落ちてきた。

「……やっぱ、オレのこと、嫌い? 返事もしたくないくらい、うざい?」

 さすがに、それはあんまりかわいそうな気がしてようやく首をふる。頬に落ちた涙がくすぐったくて丸めた手の甲でそれを拭っていると、それで安堵した様子もなくて、今度は、真面目な顔をしてきいてきた。

「もしかして、オレが怖いの?」

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