3月17日 10
「なにそれ」
むっとして声を尖らせると、さらりと言い返される。
「姫香ちゃんはどうせ泣かない」
さっき二度も目の前で泣いたのに、そう言われた。嘘泣きじゃないのは知っているはずなのに。
「それより君、ほんとに帰る? なら送っていくから」
声の調子を変えて、首をかしげられた。
「うん。ありがとう」
「じゃあ、居間で待ってて」
横をすりぬけて、ミズキさんが台所を出て行った。二階へあがる足音を聞きながらどこかでほっとしていた。
ところが、コートを抱えておりてくるはずの彼の足音がそのまま玄関へむかう。あわててコタツから立ちあがり、玄関へむかう背中を呼び止める。
「車、回してくる」
「私、電車で帰るからいいよ」
「うんって言ったよね」
「だって、駅までだと思ったから」
「あの大荷物かかえて流山の駅から十分以上、この夜中にひとりで歩くつもり?」
な、なぜ、知ってるの? 話したっけか。それともグーグルマップ?
彼は靴を脱いであがり私の横をすりぬけて居間に入って荷物をもった。たしかに、けっこうな量だった。その視線に気づいて、彼は首をかたむける。
「ひったくりが出たりするんじゃない? 心配するよ」
「タクシー使うから」
「いいからもう」
眉をひそめて言われた。
なんだかなあ。
彼は電気を消して、私にバッグを渡した。受け取ってため息をつくと、頭の後ろに声がぶつかった。
「もしかして車、苦手?」
「あんまり好きじゃない」
そこだけは、すなおにこたえた。一瞬、間があいた。
「ごめんね。でも、眠っていけるから」
私は返す言葉を用意できなかった。眠れない、と文句を言うべきなのかもしれないけれど、さっきとはうってかわって気遣わしげな声だったせいで、なにも言えなかった。
ブーツを履くために屈もうとすると、電話の鳴る音がした。びくっとして身体をおこして振り返ると、ミズキさんのケータイだ。昔の黒電話みたいな、背筋にじかに響きわたるような音だった。DJのくせにその着信音ですか。
難しい顔をして左手につかんだそれを見おろし、寒いから中で待ってて、と私の肩をたたいた。靴箱のしたからつっかけサンダルを引き出して、え、と思う間もなくそれを履いて片手で引き戸を閉めて外に出ていった。
うそ、でしょ? 似合わないよ、もう。
手をのばしてそこを探ると、同じような木のサンダルが出てきた。それを履こうとして、なんだか申し訳ない気持ちがしてやめた。元の場所にしまい、聞かれたくない相手なのだな、と考える。ぺたりと板の間に正座して、声が聞こえないかと耳をすましたけれど、なにも聞こえなかった。時計を見ると、あと七分で十時になるところだった。
なんだか、なにもかも面倒くさくなっていた。立ち上がりたくもない。靴も、履きたくない。廊下にかけてある絵も、見る気がしない。どうしたんだろう。
私はまだ、一緒にいるひとが電話に出る間のこの、ひとりで疎外されたような時間に慣れていない。ふいと相手が遠くにいってしまう、その感覚が嫌い。なにか無遠慮な、無粋な、引き裂かれるようなフェードアウトには戸惑ってしまう。
相手が誰なのかと想像するのもはしたないと思い、考えるのをやめようとして、できなかった。さっきの運命の女かもしれない。浅倉くんじゃないだろう。すごく、綺麗なひとを思い浮かべていた。ミズキさんみたいな美形と隣り合う、美しいひと。
「姫香、ちゃん?」
ガラリと音がして、先ほどよりもさらに目を大きくさせたミズキさんが立っていた。
「どうしたの。大丈夫?」
からころという下駄履きの底の音を聞き、私はなんとなくほっとして笑う。そうして立ち上がろうとして眩暈がした。立ち眩み。
あ、貧血。目の前にさーと、暗いカーテンが落ちてくる。うあ、ひさしぶりにキタよ。
「姫香ちゃん?」
そんなに切羽詰った声で名前を呼ばれると、自分が大病人のような気がして恥ずかしい。
「ただの立ち眩みだから……心配しないで」
気持ちが悪くてしばらく蹲っていると、
「心配するよ。立ち上がれないんでしょ」
怒ったような声でいわれても顔をあげられなかった。反論したいことは山とあるのに、目をあけたくなかった。
「……春日部のお家の電話番号、教えて」
「は?」
そうこうする間に、左の鎖骨のしたから胸を、寝かした刃物で撫でられるみたいに嫌な、冷たい震えがひろがりはじめた。自分が喘いでいるのがわかった。呼吸を制御しづらくなっていた。左手の小指から腕の内側の筋肉をすうっと獣の舌が舐めるような緊張がはしり、腋の下のいちばん背中よりからずっと、言いようのない不安が募ってくる。
胸が痛い。うわ。どうしよう。きゅうううって、締め付けられるような痛みとともに、首の付け根から左肩、腕の付け根から左胸、そのあたりがどうしようもない痺れと鈍痛に襲われて、息が苦しくて仕方がない。
浅い呼吸をくりかえし、肩が上下するそのちいちゃな動きそのものが、痛みのもとになってるのがわかる。波が押し寄せるようにひたひたと、吸っては吐くその乱れたリズムとともに、痛みの量が重くのしかかってきて、それに翻弄されそうになる。
私の名前を、ミズキさんが何度も呼んだ。
「救急車、呼ぶ?」
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