3月17日 9

 彼は難詰するような調子で眉根をよせた。

「相談に乗ってくれるんじゃなかったの? 離婚しそうな女のひとなんだよ」

 いつ、そういう話しになったんだ。

「でも、私そのひとのことよく知らないし」

「だからこれから話すよ」

 そうきたか。どうしてもひとりになりたくないんだな。参った。我が儘をごねるお姫様のようじゃないか。

 この今も、思いつめたような顔で見おろしてくる。それはついうっかり、わかった、何でもするよ、と言いたくなるほどの強制力をもつ。このひと絶対、私が断れないってわかってるんだろうな。そう思うとさすがに腹立たしい。けれど、視線を先に外されて、憂いのある、うつむきかげんの横顔を見た瞬間、うなずいていた。  

 すると、たちまち彼がうれしそうに目じりをさげた。可愛い顔じゃないか。騙されたような気がするけど、いいや、騙されとけ。

 それに、私はこのひとに恩がある。ほんとうに、感謝していた。だから、これでいい。

「前に借りたスエット、また貸してもらってもいい?」

「八畳の押入れにあるからどうぞ。洗面所のしたの物入れにお店の女の子が泊まるとき用の箱があるから。化粧品や下着も入ってるし、てきとうに使いたいものがあったら使って」

 相変わらず、不気味なほど勘のいい。まるで十年来の女友達のような応対で続けた。

「それとも、コンビニ行く?」

 僕はどっちでもいいけど、と付け足された。ついてくる気だと察して鼻白むと、いや? と、首を傾げられた。見つめあうこと数秒、根負けした。

「ミズキさん、鳥のヒナじゃないんだから」

「後ろをついてまわりたいって言ってるんじゃないよ。姫香ちゃんて捕まえとかないとアタランテみたいに逃げ足が速そうだからさ」

「早くないよ」

 いや、長距離走には実はそこそこ自信がある。体育は苦手だけど、泳いだり走ったりは好きだ。ってそういう話じゃないよ。

「そう? あの猪突猛進の浅倉から逃げ回ってるんだから大したものだよ」

「持久力はあるの。彼が、黄金の林檎を転がす知恵がないんじゃないの?」

 あの絵がミズキさんにもアタランテだとわかるのは、林檎を拾った瞬間をかいた絵もあったせいだ。それをみてすぐさま一言、これはグィド・レーニの写しだねと断じられた。そのとおり。走りながら物を持ち上げようとする姿ってすごく難しい。真似してしまった。

「僕には、あるよ」

 ひどくまっすぐに見下ろされていた。ああ、綺麗な顔だなあと頭の端っこでぼんやり思う。けれど、まったく別のことを口走る。

「それ、口説いてるの?」

「だったらどうする?」

「じゃあ、帰る」

「そんなに警戒されるとかえって脈がありそうだね。うれしいよ」

 なんだその、色事師のような言い種は。

 苛ついた声で言い返すつもりが、こちらをからかうような笑顔に違和感を覚えた。ほんとに口説くつもりなら、彼ならもっと低い声になるはずだ。ふざけてるにしては言うことが悪辣だし、本気というにはキレがない。とすれば、ただひたすら甘えたいのだろうと見当をつけた。

 もしかすると、本人は否定したけど結婚というプレッシャーがあるのかもしれない。据え膳をいただいてきた様子もないし、とりもなおさず本人、だいぶ弱ってるっていう自覚がないんだろうな。

「姫香ちゃん?」

 その証拠に、うかがうような調子で名前を呼ばれた。反応を待つ気弱さは、常に先回りすることに慣れた彼らしくなかった。

「ミズキさん、いいかげん」

 叱りつけるつもりで口を開くと、素早い反論を返された。

「僕はふざけてない」

 今度はちゃんとしたこたえだった。どうも気持ちが揺れてふらふらするようだ。様子見をするのがこちらの番になって、私は彼の顔を仰いだ。

「子供みたいな顔でひとのこと見るよね」

 意味がわからなくて首をかしげると、やんわりと微笑まれた。

「弱ってるのは君のほうでしょ」

「だからそれは」

「だから今はそっとしておいてくれってお願いしてるの?」

 ずいぶんと気に障る言い方をするものだ。言い返そうと口を開くと、喉から食道にかけて、引き攣るような感覚に襲われた。息を吐いてそれをやりすごそうとすると、一歩、近寄られた。後ろに下がるのが癪で、膝を立たせておこうと身構える。

 ミズキさんは斜めをむいて、それから腰をかがめるようにしてこちらをのぞきこむ。

「腹が立ったなら怒ればいいのに。僕に対してもその相手に対しても、もちろん浅倉に対しても、ね」

「私を怒らせて楽しいの?」

「そのほうが、すっきりするんじゃない?」

 ソレを促したかったというのなら納得。ミズキさんは私にすっきりしてもらいたいわけだ。でも。

「声をあげて罵っても、それで問題が解決するわけじゃないから」

「まあそうだね」

 すなおに引き下がる様子でうなずかれた。

 そうなると、彼が何をしたいのかよくわからなかった。その気持ちが通じたのか、少し困ったような調子で続けた。

「我慢する女のひとは、ほんとにギリギリまで我慢するんだね。彼女もそう。もうそこまでいってしまったらどうしようもない」

 私のことを言っているわけではないと知って、少し、気が晴れた。

「黙って、誰にも言わないで、自分だけで抱えているから」

「そうかもね。わりと愚痴を言うひとのほうが離婚しないね」

「離婚だけじゃなくて」

 そこで、視線をむけられた。おや、しまった。こちらに風向きが変わってしまった。

 私はなにも言う気がしない。

「姫香ちゃんて強情だよね」

「泣いてる私を慰めたいわけじゃないでしょ?」

 なにがおかしいのか、彼はそこで口の端をあげた。それからこちらを見おろして、楽しそうに言い切った。

「女性を泣かせるのは嫌いじゃないよ」

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