3月17日 8

おそるおそる膝をおこすと同時に足の間の違和感に身震いした。濡れてるような、乾いてざらっとしたような。うそ。だって、うそ? こないだきたばっかりなのに。やだ。

 生成りの座布団を汚してないか確かめて、あわてておトイレに走ろうとして足をとめ、カバンを手にした。なかを探ってストライプ柄の青いポーチを取り出した。厚みがある。だいじょうぶ。とりあえず急場はしのげる。

 ああああああ。やんなっちゃうなああ。

 おトイレで薄赤い染みを見て、そのとたん、気分が鬱々としてきた。がっくりとうなだれて、イナックスの淡いブルーの洒落た便器を見つめてから肩で息をした。

 排卵期出血かとも思ったけど、血を見たらきゅうにお腹が痛くなってきた。やばい、本格的だ。薄手のナチュラルストッキングなんて履いてくるんじゃなかった。まだ救われたのは下が黒地のスカートだったこと。でも、膝下丈だしけっこう冷える。普段ならなんてことないのに出血してると思うときゅうに血の巡りが悪くなったような気がする。

 とりあえず、お家に帰ろう。流山の、マンションに帰って寝よう。

 私は廊下を通って台所に入った。魚の焼ける匂いが鼻をかすめて自分の空腹を教えられた。テーブルにおかれた銘々盆には菜の花のおひたし、釘煮、卵豆腐が綺麗な、可愛らしい桜の小皿や黄色や萌黄の小鉢に盛られていた。

「あるものを適当によそっただけだよ」

 帰る、と言うつもりで来たのだけど、それはあとでいいという気分になった。塗りのお椀のなかにはやっぱり菜の花があって、その横には粉末の御吸い物の袋がおいてあった。お吸い物くらいちゃちゃっと作るかと思ったけれど、せっかくの心尽くしだから余計な手出しはしないことにした。

「僕、魚焼くのは天才だよ」

「それは楽しみだ」

 お世辞ではなく、そう思った。炊飯器は空なようなので頭をまわすと、冷凍庫、と背中に声がかかる。

「電子レンジであっためて。二個なら四分くらいかな」

 昔ながらのお台所で、白銀に輝く最新式の冷蔵庫の引き出しをあけてご飯のつまったパックを取り出した。蓋の角が爪のように開き、そこの小さな空気穴をあけてチンすれば出来立てご飯が食べられるという仕組みだ。ひとさまの家の冷蔵庫なので熱心に見るのも失礼かと思いながら、実に綺麗に整理整頓されているさまに感激した。感激、だ。冷凍食品の長方形のパックが縦にきちんと立っている。さらにジップロックには日付シールが貼られていた。でも、この字は習字のお手本みたいなミズキさんのものでも変体少女文字かっていう丸文字の浅倉くんのものでもない。お手伝いさんのものだろうと見当をつけた。

 振り返ると、彼は魚焼き器を真剣な表情で見つめていた。左手で蓋を開けて菜箸を握りなおし、片方だけほんのすこし身をほぐしてからひっくり返していた。なるほど。さっきの言葉はどうやら本気っぽい。疑っていたわけではないけれど、ミズキさんの本気度というのは私のような凡人にはいつも計りがたいのだった。

 そうして焼きあがった若狭グジことアカアマダイは、確かに、今まで私の食べた焼き魚のなかでも最高級に美味しかった。おなかがすいていたとはいえ、きっちり一膳まるまる食べた。それから茶葉を入れ替えておかわりをして蜜柑を食べるころにはなぜか順当に眠くなった。生理中って、眠くなるんだよね。

 この家のなにが好きって、畳があることだ。けどそれ以上に、TVをつけないひとたちだということもある。私はこの七年、春日部の家を出てからこっち、ろくにテレビを見ていない。かわりに思う存分、ラジオをつけて絵をかいていた。

 今この部屋にはなんの音楽もなくて、それが不思議な気がする。

「僕はひとりでいるのが苦手なんだ。まともに独り暮らしをしたことがない」

 ほとんどつぶやくような調子で唐突に、ミズキさんが告白した。会話の糸口を見つけられず、私はおとなしくお茶を飲むことにした。

「旅先なら別だけど、ひとりでいるのが堪えられない。一晩二晩、せいぜい一週間か十日は我慢できるけど、一月もひとりでいたらおかしくなるかもしれない」

 こくり、と自分で思った以上に喉が鳴った。浅倉くんの出張は三日だ。今日が初日ならまあ、我慢できる範囲ってことだ。でも、

「浅倉くんがここを出てくのが心配?」

 いつまでも問題を据え置きするつもりもなくて、直截きいた。

「君が彼と結婚するつもりならそうなるだろうね」

 抑揚のない声に、私は笑った。ひどい話だけど、現実感がなくておかしかったのだ。

「彼を引き止めたくて、私にここに住めって言ってるの?」

「そういうわけじゃないよ」

 やけにはっきりとこたえられた。

「じゃあどういうわけ」

「姫香ちゃんが好きだからだよ」

「どうもありがとう」

 ウソはないと思ったから用意していた言葉を返したけど、奇妙な後味の悪さが舌に残った。ミズキさんはこちらを見ようともせず、なにか落ち着きのない様子で腿のうえに置いた指を動かしていた。

 そのまましばらく、ふたりとも無言だった。ここにいない人間のことで、さきに沈黙を破るのは癪だと思っていた。けれどけっきょく、折れたのは私のほうだった。 

「浅倉くんと結婚したりしないわよ」

「どうして」

「こわいもん」

 言ってしまえば、それ以上のこたえはなかった。彼は一瞬目を見開いて、それから笑うように息を継いだ。

「それ、すごい愛の告白に聞こえるけど?」

「聞こえないよ」

「怖いもの知らずの姫香ちゃんが唯一、こわいものじゃないの?」

「こわいものは山ほどあるよ。ミズキさんだってコワイときあるし」

「それはよかった。怖くないなんて言われたら僕は再起不能になるところだったよ」

 彼はいつもの調子を取り戻して笑ってみせた。私はその隙をついて言い切ろうとした。

「さっきの仕事の話だけど」

「断るのはナシだからね。とりあえず、面接受けて。他にも何人か声をかけてるから。君が必ずしも受かるとは限らない」

 そこまで言われては、なんだか引き下がるのも妙だった。気が抜けて、本音が出た。

「ミズキさんはけっきょく、どうしたいわけ?」

「何もかも欲しいっていうのじゃ答えになっていないかな」

 聞き返されて、こちらが考え込むはめになる。

「何もかもって、なに」

「たぶん、君が想像している以上のこと」

「不穏な」

 嫣然と笑われた。アルカイックスマイルというやつだ。それにしても、こういう顔はほんとうに悪魔的だ。

 もうそろそろ帰る手立てを考えよう。お盆を片づけようとすると、いいから、とまたくりかえされた。

「洗い物は手が荒れるから座ってて」

「手伝うよ」

「じゃあ、お風呂のお水捨ててきて」

 有無を言わさぬ顔だった。

「私、帰るけど?」

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