3月17日 4

 今さらご機嫌をとられたような気がして振り返り、疑わしいと目をむけると、彼はまっすぐに絵だけに集中していた。

「ゴヤは好きじゃないんだよ。でも、ビアズリーと抱き合わせで売られてきて」

 大好きな画家の名前に声をあげると、やっぱり姫香ちゃんも好きだと思った、と返された。十代のころは恥ずかしながら不健康で妖艶な絵が大変好みだったのだ。

「それと並べたかったんだけど、そっちは姉にとられた」

 こんなにショックを受けたくせに、並べて欲しいとすぐに思った。あの大胆な画面構成の横にあったらさぞかし見劣りするだろう。でも、見てみたい。

「……ありがと」

「どういたしまして」

 彼は目じりをさげてうなずくと、さ、見るもの見たからご飯にしよう、と口にした。

「で、姫香ちゃん、食べたいものは決まった?」

 首をかしげると、自分のことなのにわからないの、という顔をされた。よほど情けない顔をしたのか、ミズキさんはすこしだけ困ったようだ。

「柔らかいものなら食べられる?」

「ふつうになんでも食べれるよ」

「窮鳥懐に入ればって気分になるね」

「それって、その前は撃つつもりだったっていうこと?」

ひどいなあ、僕のことなんだと思ってるの、とミズキさんはおどけてから。

「安心して。面倒見はいいんだよ」

「はあ」

「信じてないね?」

「だって、スパルタだから」

 素人の絵を、歴史上の画家の絵と並べてかけますか? それを本人に見せますか? ふられて落ちこんでるっていうのに。

「そうかな。姫香ちゃんにはスペシャルで優しくしてる」

「どうして」

「どうしてだろうねえ」

 彼は歌うようにはぐらかし、私がむくれそうになるとすかさず口にした。

「君の絵が好きだから」

 現金なもので、私はそれだけで幸せな気分になる。ミズキさんは一筋縄ではいかないひとだと肝に銘じてる。でも、その言葉にはウソがない。初めて会ったときにも同じことを言われて、私はもう、たったそれだけでこのひとのことを全面的に信用してしまった。というより、なんだか抗えない気分でヒヨコのようにのこのことついてまわり、絵ができるたびに見せに来てしまう。

「浅倉くんには厳しいの?」

「彼はそうそうめげないよ」

 君がいちばん知ってるでしょ、と言いながら背中をむけた。すこし、寂しそうに見えた。ミズキさんはきっとまだ、浅倉くんに好きだと告げていないのだろう。なんてこたえたらいいのか迷っているうちに、次を問われた。

「浅倉にはなんて言うつもり?」

「そのうち、それとなく、まあ適当に」

「姫香ちゃんらしくてそれもいいけど」

「けどってなに」

「詰めが甘いなあ、と」

「だって」

「ほんとのところ、浅倉のことどう思ってるの」

「だって、カレシがいたし」

「でも今いないでしょ」

「昨日の夜、ふられたんだよ?」

「それで?」

 それで、というのが何をさすのか気がついた。彼も私が気づいたことで、小さく肩をすくめてみせる。

「……話せって言ってるの?」

 反撥心で返したはずが、声が細くてうんざりした。

「イヤならいいよ。無理強いしない。でも、他のお友達に話すより僕のほうが差し障りないでしょ。まして浅倉よりいいんじゃない? 僕は相手を知らない。そういうほうが気楽じゃないかな」

 私がかっくり首が落ちるような吐息をつくと、ミズキさんはすこし視線をずらすようにして、こちらの手からコートをとりあげた。

「とりあえず、お茶でも淹れるよ」

 それは、二度目に会ったときに私がいった言葉だと笑う。

「私、するけど?」

「そうだね。僕は着替えてくるから」

 彼はそのまま、階段をあがっていってしまった。なんだかしてやられた気がする。

 でも、まあいいや。

 台所に入り、お湯を沸かすことにした。柳宗利の薬缶にはお水が入っていた。蓋を持ち上げてにおいをかぐと、べつにただのお水のようだった。祖母が必ず、薬缶を空にしなかったのと同じか。この家の主であるミズキさんの習慣だとしたら、朝汲んだものだろう。もったいないからこのままかけちゃえ。

 ガスの元栓を押し回しして開ける。この家はどうやら毎日ちゃんと栓を閉めているのだ。お湯はたいてい電気ポットで沸かすと聞いていたけれど、私は火傷しそうにシュンシュンいうお湯が好き。

 コンロの強火のほうを確かめて薬缶を移動して火にかけた。底からはみだした火を弱め、続いて食器棚を開ける。お客様用の揃いの萩茶碗を二客とって、乾拭きする。茶托を探していると、背中から声がかかった。

「上の真ん中の引き出し」

 取っ手をひくと綺麗に並んでいるのが目に入った。ふたつとりあげて、重ねたまま鎌倉彫のお盆においた。

「緑茶以外もいろいろあるよ」

「ミズキさん、なにか別のが飲みたい?」

 首をふる。彼は襟の開いたオフホワイトのカシミアセーターとブラックジーンズという格好だ。流行のスキニーなタイプじゃなくて、ほどよいストレートというのが似合っている。それにしてもその白、よく着こなすね。顔うつり、すごくいい。

「見惚れてる?」

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