3月17日 5
ここまで無邪気を装って微笑まれると、今さら否定するのもバカらしくなった。男のひとの鎖骨、けっこう好きだったりする。ふだんスーツで隠れてる部分だから反射的に目がいってしまう。
「それ、どこの?」
うなずくかわりに、それでもさすがに癪に障ったのだという呆れ顔で尋ねると、さあ、と首をかしげられた。それから脱ごうとするので、あわてた。
「覚えてないならそこまでしなくていいから」
「そう? そういうの無頓着なんだよね。全部、友達任せだよ。これ買えっていわれたものを買って、あれと合わせろといわれたとおりに着る」
記憶力はいいんだよ、と彼は嫌味なふうもなく自慢した。
「自分でお洋服の管理してるかと思ってた」
「管理はしてるよ。クリーニングも自分で出すしブラシもちゃんとかけるし」
「そういうんじゃなくて」
こちらの言葉をくみとって、なにがおかしいのか彼は笑ってみせた。
「身の回りの何にでも拘るほうだと思ってた? 癇のきつい、自分でなんでもやらないと気がすまないタイプ。それじゃ社長業なんて出来ないでしょ」
それはそうだ。社長なんてのはひとさまに頼って、お願いして働いていただいてるんだから。
「僕は寛容だよ」
「そうかなあ」
腕を組むと、彼は器用に左肩をすくめてみせてから、真顔で告げた。
「姫香ちゃん、君のほうが僕よりずっと、アーティスティックに生きてるよ」
「波乱万丈だから?」
「ふられたくらいでなに言ってるの」
声がやや低い。本気で喋っているときの声だ。ばかなことを言った自分が真面目に、心底、恥ずかしくなった。どうしようもない。面目のなさにうつむくと、聞こえよがしな吐息をつかれた。
「ごめん」
すなおな謝罪がうえから落ちてきて、彼が、私を傷つけたと感じたことに驚いた。
「恋愛は大事だよね。まして結婚となれば一大事だ」
否定しようとしたところで、その手が私の頭にあがった。ゆっくりと、頭頂部から脇を、掌がやわらかく、髪に触れるだけの慎重さをともなって一度、続いて指の先のほうだけでもう一度、耳のいちばん高いところを掠めてするりとおりていった。彼の指に逆らうように、内巻きにしている髪がほつれて跳ね、頬をすべった。
子供にするように頭を撫でられたのだと気がついて、目をしばたいた。彼も、自分でどうしてそんなことをしたのかわかっていないようだった。せめて抱き寄せればよかったと思っているのかもしれない。私も対応に困った。さまにならないじゃないか。
気まずい沈黙を消したがるように、彼が不用意に言葉をついだ。
「姫香ちゃんみたいな女性をふるなんて、その男は見る目がないよ」
似非インテリ男のありきたりの慰めに、遠慮なく笑うことにした。よりにもよって、そんな使い古された、女の子同士の会話に出てくるような台詞を、このミズキさんが口にするとはどうかしている。
「それってさ、『枕草子』にも出てくるの、知ってる? 男のひとはいったいどうして誰から見てもいい女より、大したことのない女と結婚するのかって。まあ私の場合は大した女じゃないから例にならないけど」
彼は先ほどよりさらに困った顔をしていた。それはなかなか見応えがある。つまり、意趣返しと受け止められていたかもしれない。今はやや寄り気味の、神経質そうな柳眉を見あげ、ここで敵をとるつもりじゃないという意思表示の回答を出した。
「そっちの女のほうが、ほっとけないからよ。究極、好きだからでしょ」
愛されていなかっただけだということくらい、知っている。
恐ろしいことに、真実だ。
別れた奥さんのご実家である病院が借金で大変だそうだ。ふたりは彼女が神戸女子大にいたころ合コンで出会って、卒業する前に結婚した。彼もまだ大学院生だった。なんでも、そのとき既に妊娠していたという話しであわてて結婚にこぎつけたそうなのだけど、けっきょくは彼女の狂言だとわかった。病院の娘だというのにすごいことだ。
そんなふうに始まったせいなのか、彼女は彼のご家族と折り合いが悪かったらしい。二年ともたなかったそうだ。これは、彼の友達に聞いた。勝手に酔った勢いで口をすべらしたのだ。ミスコン準優勝者だとまで教えてくれた。誰もそんなの聞いてないよ、と思ったが出来合いの笑顔を貼りつけたまま耳はそばだてておいた。
彼氏の古くからの友達と飲む機会などというものは、こちらが俎上にのせられ値踏みされているようなものだ。もちろん、同じことを自分の友人でやることもできる。でも、家庭やら仕事やらまたはその両方でかっこたる居場所を得た女友達と会う時間は貴重なものだから邪魔されたくない。
そんなことを思いながら飲んでいる横で、こいつもようやく落ち着いてしっかりしたパートナーを見つけたよ、などとお追従を言われたあと、私はトイレに立って鏡を見た。
ひどく、不機嫌な顔をしていた。化粧を直すべきかと思いながら、今さらなのでやめておいた。いちおう、会社を出る前に入念チェックをしたつもりだった。いまブスに見えるのはもう、手の施しようがない。それでも気分を変えるため、膝裏に香水をしのばせた。
シャネルの『アリュール』。
Allure――とても、美しい言葉だと思う。字面も音も好き。元の語の動詞allerも好きだし。歩きっぷりと訳すと笑えるけど、転じて、立ち居振る舞い、気品までつながる。願掛けとはいわないまでも、ご利益に与りたいという気持ちはあった。いつも天然香料だけを使った古めかしい香水ばかり用いるけれど、これは名前買いしていた。
自分が、とくに取り柄のない女なことは知っている。美人でもなく賢くもなく気立てのいいわけでもない。仕事ができるわけでも、家事が得意なわけでもない。だからこそせめて、自分自身とそばにいるひとを不機嫌にさせないだけの自尊心がほしい――……
帰りがけに彼は、ごめんね、と口にした。頬をかくのが、何か言いづらいことを言うときのくせだと知っていた。今日は泊まってけるかな、と初めて問われたときも顔を指先でひっかいていた。奥さんと別れた理由を訊いたときも、重い口で、おれが頼りなかったからだよ、とこたえた。相手の悪口を言わなかったことでほっとした。
私の不機嫌を無視しないでくれたことで、このひとと一緒になってもいいと思った。実はそれまでそう思っていなかったのかもしれない。ありきたりのマリッジ・ブルー、その不安と不信の渦巻くなか、私はたった一言で覚悟を決めてしまっていた。
まあそれが、実は一月前のことだった。さらにいえば、元妻とは二ヶ月前から連絡をとっていたらしい。もっといえばその間に神戸まで四度も出かけたそうだ。
ははははは。
ここは甲高い哄笑をもって、その事実を認めるべきだろう。
だって昨日、彼が私にそう説明してくれたんだもん。言わなくていいことまで口にしたとは思わない。しかしでも、裏切られていたという気分にならなかったわけじゃない。裏切りでなく迷っていただけだし、そのくらいの分別は私にも、ある。でも。
早く言えよ!
とは正直なところ、思ったのだ。
三月末に借りてた家を追い出されるからこの先どうしようと相談していたのを、生返事だったのはそういう意味かい!
とは、やっぱり思ったのですよ。ええ。
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