3月17日 3

「酷くないよ」

 三枚並んだ白黒の絵を見て素っ頓狂な声をあげた私を見下ろして、彼は素知らぬ顔で微笑み、ピクチャーレールにかかっている額のしたの部分を指先で押して、ほんの一ミリ程度のズレをなおした。

「だって、これ、本物のゴヤ、だよね?」

「もちろん。鑑定書あるよ」

 ひどい、と言いたくなるのは自分の絵がいかに粗雑なのか、どうしようもないのかわかったからだった。

 先週、ミズキさんのお店のHPやポップ、フリーペーパーのために絵を渡していた。もっていったのは十五枚で、女性ファッション誌風のイラストだ。それらは最初からR&Bの女性アーティストやオシャレ系カリプソシンガーとか、ある程度イメージを指示されていた。五枚選んでもらってしめて一万円にもなって、こんなことでお金を頂戴していいのだろうかと煩悶した。

 その他に十五枚、自分の好きにかいていったもののなかから自宅用で取ってもらったのが二枚、その分は三千円。他に一枚、選ぶのに迷っていた絵をプレゼントした。

 その自宅用の二枚が廊下に飾られている。

 その真ん中が、ゴヤだった。まごうかたなく、ゴヤだとわかった。タイトルは忘れたけど、《気まぐれ》のなかの一枚だ。

 まさか、自分の絵が、本物のゴヤの版画の隣に並ぶなんてことがあるなんて。

「……これ、意地悪じゃないよね?」

「愛の鞭」

 ちょっと頤をそらして、彼が笑った。続いてスペイン語を知らない私にも十分に美しく聞こえる発音で、《Las rinde el sueno》と呟いた。意味は、わからない。絵の下にそう書いてあったから読めただけだ。

 私はコートを肘にひっかけて、三枚並べられた白黒の絵を見つめた。さっきは頭を抱えたくなったけれど、今はもう違う。

 視線が、中央にあるゴヤの版画だけに注がれた。

 そこに、女たちの肢体にこびりついた、深く厭わしい眠りがあった。縦長の画面上半分を覆う漆黒、左手には円形の格子窓が白抜きされている。堆くつまれたのは麦藁だろうか。その上に座り膝に肘をついて眠る女の足は大きく左右に開かれ、頭部を頂点に安定した三角形をなしていた。彼女のあしもとでは、やはり女たちが三人、めいめい違う様子で眠りについている。その三人の衣服は光があたっているために白く、画面中央の女性は薄墨にまみれるように影に沈んでいる。私はスペインにいったことがないけれど、この「白と黒」の強烈な対比は、太陽の強さとその影の濃さを思わせる。

 そして、そこに漂うなんとも言えない疲弊に吐息がもれた。彼女たちは、途方もなく疲れている。日常に。おそらくは、内戦に。息をすることさえが大儀で、なのに眠りという休息ですら彼女たちを本当に安らがせはしないという「現実」が描かれていた。

 正直にいうと、ゴヤは、ベラスケスに較べればだいぶ劣ると思っていた。いやもちろん、上手だ。凄みもある。とはいえ、余分なものが配置されていてまとまりがないだれた構図が多いという気もした。それよりなにより気味が悪い。あの一連の版画など一度見れば十分だ。横浜で見たあと、私は食べたばかりのお昼をトイレで下した。夕飯もろくに食べられなかった。黒い絵シリーズなど見なくともいいという気になった。瞼の裏に貼りつくどころか、胸の奥底に落ちて回収できない。

 そう思っていたはずなのに、今、こうして目の前にしてみると、じっと穴が開くほど凝視していた。比較対照が自分の拙い絵だからじゃなくて、ゴヤには、枠に納めるにはありあまる表現力、規範を外れていく気概があるように感じた。

 いっぽう、私の《眠るアタランテ》と《競争前のアタランテ》はというと、とにかく酷い。なってない、どころの話じゃないレベルであった。

 アタランテはギリシャ神話に出てくる王女だ。女に生まれたせいで父王に捨てられ熊に育てられた。女性でただひとりアルゴー船に乗り込んだ狩の得意な英雄でもある。

 彼女をかいた絵画ではグィド・レーニの、いかにも計算されつくしたダイナミックな構図の《アタランテとヒッポメネース》が著名だろうか。布一枚をたなびかせて駆け抜ける裸の美男と、彼が転がした黄金の林檎を拾う裸の美女。画面に疾走感はないものの、それがかえって美しい。

 私はアタランテを闇のなかに蹲って眠らせ、もう一方では白い画面の中央に横顔を見せて立たせた。どちらも着衣で、静止している。彼女をアタランテと示すアトリビュート(持物)は強調しなかった。伏せた肢体の横に弓矢をおいたけれど、森の草木に潜ますように影をつけた。走り出す前のアタランテの飾りは、王女の身分を申し訳のように明かす細い円冠のみだ。

 ひとりのギリシャ女性の弛緩と緊張、安寧と果敢を描ければいいと思っていた。

 つまりは、私はその程度の意識でしか描いてこなかったのだ。

「自分の未熟さを思い知った?」

「……はい」

 呼吸が、速くなる。

「それじゃあ、がんばりましょう」

 ただただ、自分がイヤになった。イヤだけど、イヤだけど……どうしようもない。

「……なんにも、ないのに。仕事もカレシもなくて……」

「そんなのなくって全然いいよ」

「よく、ないよ。私なんてただのOLで、ふられてばかりで、みんな、ちゃんとしてるのに。結婚して、お勤めして、子供もいて……」

「ちゃんとって、何? じゃあ僕みたいなひとはどうすればいいの?」

「ミズキさんはいいじゃない。お仕事ばりばりしてCD出して五ヶ国語も話せて」

「あのね、ひとのこと羨ましがるなら自分もそれだけのことすればいいだけだよ」

「だって、才能、ないもの」

「才能なんて誰もないよ。そういうのはもう、ほんとに神様に選ばれたひとだけで」

「選ばれてない」

「自分で選ばれてないと思うんなら余計、やるしかないんだよ」

「でも、だって、できない」

「姫香ちゃん、あのね、やれると思うからここまで連れてきたの。わざわざ並べてかけたの。それくらい、わかるよね?」

 それは、わかる。こないだはここに、違う絵がかかっていた。

「泣いてるひまがあれば、絵を見たらどう?」

「見てる」

 目が離せなかった。ほんとうに凄まじいことだけど、がっかりしながらも見ることをやめられなかった。 

 私はゴヤの生涯をよく知らない。でも、絵を見ればそれで充分だ。

「……私、今までちゃんと絵を見てこなかった」

 それには意外そうな顔をされた。美術史のゼミをとったくらいだから、絵を見るのは世の中のたいていのひとより慣れているつもりだった。でも。

「だめだ。やりなおさなきゃ。真剣に、見なきゃ」

 隣で、ミズキさんが小刻みに肩を震わせていた。ここ、笑うところですか? 

「なんで笑うの」

 そのまま睨みつけると、彼は表情をとりつくろうとしてやめて、今度はこちらをまじまじと見おろしてきた。

「立ち直るの早いよね」

 心の底から感嘆しているようだった。呆れているとも言えそうで、でも、感心しているみたいで。私はわだかまりを飲み込んで肩をおとし、自分の絵を見た。

「ゴヤより、僕は好きだけどね」

「ほんとに?」

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