3月17日 2
「なんでそうなるわけ?」
「銀座まですぐだもん」
「だもん、ってそんな」
男のくせにやたら可愛い口調に、反論しようとして挫ける。彼のごく整った容貌はこういうとき、私に対して全面的に有利に働くのだ。
「真面目な話し、福利厚生だと思ってどう? 前も言ったけど、水道光熱費込み三万円でいいから」
「そんな、だって、福利厚生って」
「築地だから歩いて職場に通える。お風呂は優先的に姫香ちゃんが使うようにするよ。どうせ僕と浅倉はちかくのジムですましてきちゃうしね。社宅か学生寮みたいなものだと思って」
「ミズキさん?」
絶句すると、たたみかけるように言われた。
「料理は浅倉が適当にこなしてるし僕も作るし、掃除は家政婦さんいれてるから」
「そういうことじゃなくって」
ミズキさんがゲイだってことは知っている。でも、浅倉くんは違う。口にするのがためらわれていた内容をそれとなく示すと、
「あそこには艶ごとめいたことは一切持ち込みなしって決めてあるから、浅倉にもそれはきつく言い渡しておくよ。約束は守るほうだから大丈夫。君が一人暮らしするよりかえって安全だと思うけどね」
「どうして」
「独りになったなんて知れたら押しかけられるよ? 賭けてもいいけど、玄関横に毎日立たれる」
「そんな、ストーカーじゃないんだから」
と言いつつ、まさか、という想いが過ぎった。けれどすぐ冷静に、それはないよ、と首をふる。いや、あるかな。あるか。いや、でも。考え出すときりがないようだった。
「浅倉にしたら絶好のチャンスだ。君、すごく弱ってるじゃない?」
「失礼な。そんなことないわよ。今、お買い物してエネルギー充填してきたし」
「チャージしきれてないから僕のところに来たんじゃないの?」
いや、まさかまさか、と頭のなかで繰り返して否定しながら、自分が泣いていることに気がついた。
ハンドタオルを出そうとしたところで、はい、と水色のハンカチをさしだされた。それを受け取るいわれはなくて、バッグから出した若草色の柔らかな布を両手でつかんで顔を覆う。
彼が立ち上がって、また外に出て行った。おもてのほうでミズキさんが電話をかける声がかすかに聞こえ、はっきりと気を遣われていることが心地よく、それと同時にいつでも遊びに来てとは言われていても、ひとさまが仕事をしているところにこんなくだらない感傷で押しかけた自分が恥ずかしくもなった。たぶん、私は荷物を言い訳にしてここに来たのだ。今ならわかる。優しくされたかったのだと。こういうのはみっともなさすぎて消えたくなる。優しくされたいなら、自分からそう言わないと。先回りされるのは好きじゃない。なのに、私は彼にも自分にも腹を立てていない。不思議だ。
「姫香ちゃん、ご飯食べに行こうか」
十五分もたった頃だろうか、すでにコートを着た彼が戻ってきた。泣き止む間合いを計られているようで申し訳なさに頬が火照り、あわてて膝を起こす。
「ごめんなさい。お仕事中にお邪魔して。もう御暇するから」
「僕も帰りたかったところだから」
コートを着るのにモタモタしてる間に荷物はまとめて彼が持った。通用口から出るはずが背中に手をまわされて、こっち、と表に押し出される。
「友枝さん、電話かかってきたらデートだって言っておいて」
デート? 聞きづてならないとミズキさんの顔を凝視したのに、さっきコーヒーを淹れてくれた彼女はさして気にするふうもなくハイと頷いた。これは、社内だけで通じる何かの符牒だろうか?
トモエダさんと呼ばれた彼女は頭をさげてから、愛想のいい笑顔で手をふってくれた。だからといって手を振り返せるわけもなく、私はお邪魔しましたと一揖してそこを後にした。
扉を出てすぐのエレベーターホール、古い雑居ビルらしく共有スペースは広くない。ついついOLの癖でエレベーターのボタンを操作しないとならないように思うのを、きちんと先に下ろされる。私がお客様のせいか、はたまた彼が海外暮らしの長いひとのせいか……ふと気がつくと、背中に手がまわったままで。斜めに見上げると手は去り、かわりに声がおりてきた。
「なに、食べる?」
「中華以外ならなんでも。あ、揚げ物もあんまり」
「消去法じゃなくて、食べたいもの、ないの?」
ガラスの扉を押しながら振り返るひとをまた見あげた。なんだか受け身な感じが続いていると反省し、足をとめてうつむく。
「姫香ちゃん?」
「なにを食べたいか、考えてるの」
日曜夕方の六本木の裏通りは、意外にうらさびしい。二週間ほど前、ミズキさんに依頼されていた絵をここに運んできたときには、いつも自分が働いている場所とまるで違うひとたちの姿に圧倒された。道が整理されていない感じがして、アップダウンのある場所だと思い知らされた。たまに友達と待ち合わせをして出掛けると、すごく驚かされる。
「もしかして、おなかすいてないんじゃないの?」
無言でいると、問いつめられた。
「今日、なに食べた?」
朝食べたのがトーストとポトフ。昼は……よく考えたら食べていない。そりゃあ疲れるわけだ。そう口にする前に、タクシーが横に止まった。
「乗って。見せたいものがあるから」
いかにも社長らしく、普段からひとに命令するのに慣れているミズキさんにはこういうとき、逆らわない。彼が見せたいというのなら、私はそれを見るべきだ。
けれど、築地の家でお邪魔しますの次に口をついてでたのが、つぎの言葉だった。
「なにこの、羞恥プレイ? ひどいよ、これ」
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