3月17日 1

「婚約、破棄された……」

 何かあったと尋ねられて、私は素直にそう返した。用意してきた言葉はいくつもある。けれど、ここはいちばん正確なものを吐き出すべきと覚悟を決めた。いつも超然としたひとがうろたえる様を見てみたいという欲求もあった。それなのに。

「姫香ちゃん、セレクトショップで働いてみない?」

 ミズキさんはほとんど間をあけることなく、ましてや寸毫も動じることなく訊いてきた。同情されるか励まされるかと期待していたところを見事に裏切られ、眉をひそめて相手を見た。

 桂瑞樹という、意味かぶってんじゃないの、と言いたくなる名前の持ち主はロイヤルネイビーの極上スーツのストイックさに合わせたのか、今日はチタンフレームの伊達眼鏡だ。その硝子のむこうの瞳をやわらかに細めながら、さも当たり前のように続けた。

「仕事の話で来たんでしょ?」

 言われてみればその通りだった。自分の勤めている会社の社長と付き合っていたのだ。極力気にしないように努めてきたことに早々に突っ込まれ、反射神経のいい持ち主にこちらから仕掛ける愚を冒すのはもうやめようと心に刻む。

 彼は、ちょっと待っててねと言いおいて、事務所のほうへと消えた。私はというと、そのすきにとばかりにソファに戦利品を並べ、紙袋を畳んでしまいなおしはじめた。この作業がしたくてここを訪れたつもりだったし、そう申し出た。なのにミズキさんはこちらの顔をみてすぐ、何かあったと訊いてきて、私はいま、少なからず戸惑っていた。

 ふられたときは買い物に限ると六本木に出てきて、大量の買い物袋をひとつにまとめるのに、ミズキさんの経営する中古レコード店のバックヤードにお邪魔してしまったのだ。カフェがどこも一杯で、もうこれ以上座る場所を探し歩くのがしんどくて、とにかく荷物をおろして息をつきたかった。でも、こうなると明らかに失敗したと思う。

 自分から、折を見て言うつもりだったのに、これじゃ何かを期待してるようだ。

 それにしても、なぜ気付かれたんだろう。まぶたを腫らしたりしていないはずだし、それこそいつもより念入りに化粧してきたのに……って、ああ、ソレか。そこで見破られたのかもしれないとようやくにして思い至る。まあ、しょうがないか。ミズキさん相手なのだから。

 そういう諸々を頭のすみに追いやりながら、ひたすら手を動かした。順次、適宜に品物を取り出し、たしかめ、テトリスの要領で押し込んだ。ほら、整理すればちゃんと綺麗に収まるのだ。

 入れ替わりでコーヒーを運んできてくれたアルバイトらしい若い女性にお礼を言うと、その視線は明らかに私を素通りし、レッドソールも艶やかなパンプスに狙いを定めていた。こんなときでなければ手が出ない高級ブランド靴だ。話しかけられるかな、と思った瞬間にミズキさんが戻ってきて、後ろ髪ひかれるようすで立ち去っていった。足音に緊張した分だけ、屈託のない気楽なガールズトークを欲していたと気付かされてウンザリした。たぶん、ミズキさんはそれも察したことだろう。その証拠に、腰掛ける前に間があいた。私はだから、頭を起こして彼を見た。

「姫香ちゃん、これ、今週末の就職雑誌に載せる予定なそうなんだけど、どう?」

 どう、といわれても。と言いながら、自らすすんで手を出してファイルを受け取った。場所は銀座一丁目で扱っているものもOL御用達の品々だ。今まさに買ってきたばかりのブランドがいくつか並んでいる。情報を見るかぎり条件は悪くない。というより、ショップ経験者で出来れば買い付けまでできるひと、とある。

「これ、経験者じゃないとダメって書いてあるけど?」

「ああ、その点は心配ない。正直にいうと今年中に二人で店を出すつもりで、彼にはそっちに専念してもらいたくて広報と管理部門でひとを募集したんだよね」

 二店舗目は女の子向けに作りたいといっていたのを思い出す。セレクトショップとカフェ併設。売れないだろうけど、と前置きをして、ギャラリーもつくりたいとのたまっていた。ヴォラールやカーンワイラーのようになれたら凄いよねと微笑まれて、それはスゴイけど、とその先に続くことばを失った。ピカソやセザンヌを育てるような奇跡を語られてもなあ。

 ピカソといえば、あのヴォラールの肖像画は素晴らしくてなどと話を続けようとしたのに、ミズキさんがいきなりありえない提案を投げつけてきた。

「姫香ちゃん、どうせだから一緒に暮らそうよ」

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