序言 あるいは、削除されるかもしれない書き出し


 浅倉くんの第一印象は、こわいから、なるべく近づかない、近づけないようにしよう、だった。

 出会ったのは学園祭実行委員の初顔合わせのときのこと。私は当時、大学の学生会の役員で、施設管理局長という役についていた。彼は新入生で学年では二つ、年齢ではいっこ違い。一年留学組のせいか物慣れていて、それなのに触れると肌が削れそうな粗さがあった。

 普段はへらへらしていたけれど、それは、紙やすりに無理やりコーティング材をかぶせて修正しときましたから安心ですと言われているようなもので、鋭利ではないぶん厄介で、何かの拍子でかかわると傷が痕に残りそうだと用心した。私の勘は、あたるのだ。

 実行委員の割りふりでくじ引きの順番を待つあいだ、たいていの新入生は見知った顔を見分けてひとと話し、または頭を巡らして様子をうかがうなか、彼が黒板を見たのは一度だけ。どこに配属されても話はそれからと割り切っていたようだ。両手をポケットにつっこみ右足にかるく体重をかけたまま瞼を伏せて周囲から自分を隔絶する立ち姿は、役員なんてかったるいと思っていることも察せられたけれど、物怖じしないふてぶてしさには期待がもてた。彼が黒板だけでなく、横に並んで立っている私たち、つまり局長やら委員長やらのほうも一瞥し、同じ新入生たちも眺め渡したことも気がついていた。見るべきものはすべて見つ、というふうだった。

 私は体育会の局長と打ち合わせでその日は挨拶しかしなかったけれど、ブリーフィングした同じ施設管理局員の龍村くんは、あれはアタリ、やたら飲み込み速い、と伝えてくれた。では容赦なくふたりで扱き使わせていただきましょう、と気取って微笑みかえすと、深町サンに手綱はお任せします、と彼はメガネのつるに指をかけた。首をかしげると、お手並み拝見といきますか、そう言って口の端をつりあげた。指示したこと以上をやらせてみろと唆されて、浅倉くんが非難されない程度に仕事してお茶を濁すつもりでいるのだと教えられた。

 あの興味のなさそうなそぶりを見れば想像もついた。ま、それならそれでもいい。茶道部の後輩で編集局の来須ちゃんが味方してくれることは計算に入っていたので、龍村くんが助けてくれるなら問題はなかった。ただし、浅倉くんを手懐けるのが私の責務だと彼が感じているのでなければ。

 とはいえ、何も画策せずとも浅倉くんは言われた以上のことをこなしてくれた。まさしく姉のいる弟らしく、あれやってこれやってと上からものを言っても素直に従い、来須ちゃんから下僕というアリガタイ呼称を拝命していた。

 だからといって、私が安心していたかというと、そんなことはない。

 いや、いつの間にかその用心に綻びがでたのかもしれない。おかげで、学園祭当日、彼に告白されたときには狼狽した。私は彼の部活の部長と付き合っていたからだ。まさか、知らなかったとは思わなかった。そんな鈍いオトコだったかと、後ほどかるく失望した。

 そんなふうだから、自分のきもちを正直にかくのは辛い。そのときその場で発せられた言葉や目に見えた景色をつらねていくことは、とどめおいた記憶に頼ればどうにかなる。幸い、私は記憶力がわるいほうではないらしい。けれど、自分がなにを思い感じたかを書き記すのははばかられる。美しいことばかり考えていないから。

 浅倉くんと再会したのは大学を卒業してから十四年もたったあとで……。


 う~ん、このやり方ではうまくいかないかもしれない。ミズキさんのことを、どうやって語ればいいのかわからない。

 彼は浅倉くんの友達でその雇い主でと、そんなふうに社会的事実を並べても意味はないように思う。初対面の印象はよくおぼえている。でもそれは、やはり途中で上書きされてしまった。審判の日の数日前というと、上書きされていたほうの記憶のほうが大事だということだ。時系列というのは如何ともしがたくて、難しい。

 その他にも、問題がある。ミズキさんのことを語るためには、どうしてもあいだに浅倉くんを置かないと始まらない。それは、動かしがたい。

 私とミズキさんの関係、また私と浅倉くんの関係は、私が語ってもいいように感じる。私の感情、私のみた「彼ら」の姿、私が聞いたと思うことばを、こちらから一方的に記すことはできるだろう。

 でも。

 私は、彼らふたりの想いを語りえることなどできはしない。むろん、自分自身のことだってそうだと反駁できてしまう。誰が自分を客観視できるだろう?

 同じように、今回ばかりは「何かについて語ることなんてそもそも無謀なのだ」と居直るわけにはいかないのだ。私は死にたくないんだから。

 それに、時任獏のことがある。古道具屋の店主にして、「夢売り」だったバク。すべての発端は彼女にあるのではないかとも思う。

 ねえ、獏。

 私、潔く志願したよ。どっかで見てる?

 まあ、それはいい。

 問題は、どこから書き起こせばいいかということだ。そういえば、私が婚約破棄されたことだけは、書いておかないと座りが悪い。どうも、あれがその後の運命を決した気がする。

 あああ、起承転結のある小説のように人生うまくまわってない。こんな、グチャグチャなもので、私は無事、ジブンというものに還れるのか不安になる。

 この部分、下書き保存しておこう。あとで要らなくなったら消去する(さっき、パスワードは決めさせられた)。

 いずれにせよ、私、深町姫香はこの日記を書き終えて後、《神々再生》プロジェクトに強制従事させられる(ちなみに、兵役志願もアンガージュマンといった気がする)。

 彼らは「強制」ではないと言い張るが、私に課せられた使命は聖杯探求にも匹敵する大事業だ。やりたくなんか、ない。しかも、生きて帰れる保障はないといわれて誰がする?

 とはいえ、私にはノーという権利さえない。

 行くしかないから行くのだが、その前にしなければならないことがある。労働場所から帰還する私個人の精神と肉体の保全のために必要な「日記」を書くことだ。

 私の担当官であるラファエルがいうことには、「審判の日」の前、少なくとも数日から一週間の記憶をうそ偽りなく正直に書き記しておけば、生きて帰れる確率があがるそうだ。

 ほんとかいな?

 私が不満顔で文句をいうと、ラファエルはにこりと微笑み、

「わたしは存じません。上からそう指示されているだけですので悪しからず」

 そう、天使の笑顔で言ってのけた。

 実際、かれらの姿は天使そっくりなのだ。そしてまた、絵に描いたように官僚的だ。地球人の生活をメタクタにしたくせに謝罪もない。

 前にそう罵ってやったら、わたしたちが来る前から滅茶苦茶でしたよ、とあっさりと言い返された。はい、すみません。

 それはともかく、私はこれを、なるべく正確に(そして長く)書きたいと思う。私が審判の日を前に、どんな日々を送っていたかを。

 ふう。

 余談だが、天使たちは彼らの主たる神々の《再生》を、「ルネサンス」と呼ぶ――

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