第8話 綺麗事で済むのなら

 翌日、一〇時。

 朱美は応接用テーブルに、五人分のお茶を用意した。

 真季と朱美――朱美は何故か二人分のボクシンググローブを肩にかけている――の目の前には、霧島夫婦が座っていた。霧島篤の膝の上には、ペットの猫(という名前らしい)が座り、真季の方を凝視していた。霧島夫婦も、ペットの猫も真季が呼び出したのだ。

 朱美は本来ならこの時間は学校なのだが、昨晩、があったため、安全のため、朱美の通う高校は臨時休校になったのだ。

 

「あの……これは一体何事ですか? それにキミは確か喫茶店で会った……飛鳥さん、だよね?」


 霧島篤は、困惑した表情を浮かべていた。まさか、自分の浮気のことで呼び出されたとは露ほどにも思っていないだろう。

 困惑していたのは、霧島聡子も同じであった。確かに自分は真季に浮気調査を依頼したが、まさかその報告を霧島篤とともに受けるとは思っていなかったのだ。しかも、ペットのシャロンも一緒に連れて来て欲しいと言われたのだ。真季が何を考えているのか、霧島聡子には全く分からなかった。


「はじめまして、霧島篤さん。私は黒瀬真季。この黒瀬特訪探偵事務所の所長をしております。そしてこちらは助手の飛鳥朱美。本日はお忙しい中、お時間を頂きありがとうございます。早速、本題に入りましょう。我々は四日前に貴方の奥さん……霧島聡子さんから依頼を受け、貴方のことを調べさせて頂きました」

「は? 調べる? 一体、何をですか?」

「貴方の浮気についてです」

「は? 僕が浮気!?」


 予想だにしない真季の発言に、霧島篤は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

 何かの悪い冗談かと思ったが、自分から目を背けるように俯く聡子の姿が、彼の言葉が嘘ではないことを裏付けていた。


「そん……な」霧島篤が次の言葉を繋げるためには数秒の時間を要した。「なにかの間違いだよ、聡子!」

「間違いってなによ! 私だって貴方のことを信じたいわよ! でも、探偵さんが貴方の浮気現場を見たって言うのよ!」

「浮気現場って……それは誤解だよ、聡子!」


 霧島篤は狼狽していた。どうしてこうなってしまったのだろうか。あの日、一生の苦難を共にすると誓いあったはずなのに、妻は自分のことを信じられないというのか。 しかも、探偵まで雇うだなんて。霧島篤は聡子に裏切られたような気がした。もう、何がなんだか分からない。誰でもいい、誰か自分の誤解を解いてくれ。

 

「ええ。誤解ですよ、聡子さん」


 霧島篤は顔を上げた。

 彼に助け船を出したのは他でも自分を貶めた張本人、真季であった。

 これには霧島篤だけでなく霧島聡子も混乱した。

 

「ご、誤解? どういうことですか? 探偵さんは、彼の浮気現場を見たんでしょう?」

「ええ、彼が聡子さん以外の女性と親しげに手を繋いでいる場面を目撃しました。これが、その写真です」


 真季がテーブルに写真を置くや否や、聡子は奪い取るように写真を手にし、一瞥したあと、肩を震わせながら写真をテーブルに叩き付けた。

「何が誤解よ! やっぱり、浮気をしていたじゃない! ひどい、ひどいわ、篤さん! ねぇ、答えてよ。私のなにが不満だったの!? しかも、相手はまだ子供じゃない! そんな、どうしてよ、ねぇ!」

「こ、この写真は……! ち、違うんだよ、聡子!」

「何が違うのよ!」


 めきめき……と肌を破るような不快な音が事務所の中に響く。音源は、霧島聡子の背中だ。そして、服を破き二本の触手が現れた。霧島聡子の感情と同調しているのか、二本の触手はふるふると震えながら、霧島篤に牙を向けていた。

 霧島篤は絶句し、ソファーから逃げるように転げ落ちる。頭が真っ白になり、舌も満足に回せずにいた。

 しかし、それは霧島聡子から生え出た触手が原因ではない。怒り狂う霧島聡子の感情の濁流をぶつけられるという今までにない経験に驚愕しているのだ。何故なら、二人は結婚してから今に至るまで、一度も夫婦喧嘩をしたことがなかったのだから。

 

「篤さん」自分の名を優しい声に思わず振り向く。朱美は唇に人差し指を当てウインクする。「大丈夫。黒瀬所長にお任せください」

「落ち着いてください、聡子さん。写真の女性は貴方も知っている人物ですよ」

「デタラメを言わないでよ! 私はこんな人、知りません!」

「いいえ、知っています。何故なら、その女性はこの場にいるのですから」


 真季は、今にも襲い掛かりそうな触手を牽制するように一瞥しながら、言い放った。


「え……?」

「どうだ。もしお前の言うとおり、俺たちがこの依頼から手を引いたらどうなっていたか、これで分かっただろう?」

「……そのようね」


 彼女は、霧島篤がソファーから転げ落ちる際、軽やかな動きで彼の膝の上からソファーに移っていた。


「今の声、誰の……?」


 聞き覚えのない声に、霧島聡子は混乱した。だって今この事務所にいるのは、自分と夫と探偵の二人と……愛猫のシャロン。

 霧島聡子と目が合ったシャロンは、観念したかのように鳴き声をあげる。

 シャロンは、小さな体でソファーの背もたれに登り、くるりと宙に身を投げた。

 そして、次の瞬間、シャロンは女の子に姿を変えた。

 

「この身、光浴びず、この命、忠義のために捨てる。夜風(よるかぜ)のコヨイ、今ここに」



 昨晩。自身の負けを悟り自害しようとしたコヨイを寸でのところで止めた真季は、彼女を尋問していた。そして、予想だにしなかった真実に辿り着いた。

 

「お前、霧島夫婦の飼い猫だったのか!?」


 コヨイは肯定するように、無言で猫に姿を変えた。真季は猫となったコヨイの姿に見覚えがあった。霧島聡子が資料として持参した家族写真の中で、霧島夫婦に抱かれていた猫だ。姿……真季はナギサの言葉を思い出した。

 

『今日、久しぶりに旧知の友人に会いやしてね。そりゃあもう、話に花が咲いたんです』


「お前、まさか、ナギサの知り合いか?」

「……ええ。ナギサは、私の唯一の友人よ。貴方のことを教えてくれたのも、ナギサ」

「くそ、これだから情報屋は」


 探偵と情報屋。同じ情報を扱う職業ではあるものの、情報の扱い方には根本的な違いがあった。


「待てよ……おい、コヨイと言ったな。いくつか質問をさせろ」


 真季は、コヨイの声を聞き逃さないよう膝を付き視線の高さを合わせた。答え合わせの時間だ。


「まず一つ目。お前は最近、霧島篤と映画を観に行ったか?」

「……ええ」

「二つ目の質問だ。ここ最近、霧島篤から贈り物をされたか?」

「……されたわ。中でも香水っていうのは、興味深かったわ」

「三つ目。霧島篤は、お前の正体を知っているか?」

「……明かすつもりはなかったけれど、私の不注意で知られてしまったわ。今ではそれで良かったと思っているけれど」

「最後の質問だ。霧島聡子はお前の正体について知っているか?」

「……いいえ、知らないわ。篤様に私の正体を知られてしまったあの日、私は聡子様にも自分のことを明かそうとしたのだけれど、篤様から聡子様には秘密にしようと提案されたから……」

「どうしてだ?」

「……もうすぐ結婚記念日だから。その日に聡子様を驚かせたかったから……」



「これが、今回の依頼の真相です」


 真季が喋り終えたときには、事務所の中から怒声は消えていた。


「そんな……では、全て私の誤解であったということですか?」


 霧島聡子は顔を青ざめ、震えていた。触手はいつの間にか消えていた。その様子を見たコヨイもまた悲痛な表情を浮かべ、霧島聡子に頭を下げた。


「……聡子様。この度は、申し訳ありませんでした。私は今まで正体を偽って、お二人にお仕えしておりました。それだけで私は幸せでした。ですが、篤様に私の正体を知られてしままったあの日、篤様は正体を偽っていた私を受け入れてくださいました。私はそれがとても嬉しかったんです。篤様はそれからも私に良くしてくださいました。ですが、それが聡子様を傷つけてしまっていたのですね……。私は臣下失格です」


深々と頭を下げるコヨイの姿に、霧島聡子は益々混乱した。


「ま、待って。私は貴方を臣下だと思ったことは一度もないし、そもそも貴方が女の子になれるなんて知らなくて……ごめんなさい、少し時間をちょうだい」

「驚かれるのも無理はありません」


 頭を抱える霧島聡子に、真季は言い聞かせるように静かに語りかける。


「ですが、先に一つだけ」霧島聡子の視線を自分に誘導するように人差し指を立てる。「篤さんは、浮気などしていませんよ」


 夫に抱いていた怒りと悲しみから解放されたことで、霧島聡子の瞳からまるで決壊したダムのように大量の涙が溢れ出た。

 どうやら、調査報告内容に納得してもらえたようだ。

 一時はどうなることかと思ったが、こうして誰の命も奪われずに済んだことを喜ぶべきだろう。


(……そもそも、浮気調査に命を懸けなければならないことがおかしいんだがな)


 真季は静かに笑った。

時間は一〇時二〇分。耳をすませば、街の音が窓の外から事務所の中に伝わってくるのが分かる。すっかり賑やかになった街並みを眺め、真季は今日は良い日になるだろうと予感していた。


「ふざけるなぁ!!」


 が、その予感は男の怒声によって外れることになる。

 その場にいた全員が、声の主を認識するのに数秒の時間を要した。

 その間にも、声の主――霧島篤は、肩を震わせ、顔を紅潮させながら、怒声を事務所の壁や天井に叩き付けていた。

 

「この僕の浮気を疑っていた!? 少しでも聡子との時間を過ごせるよう、仕事は極力定時で上がれるように努力してきたし、休日はいつもお前と過ごしてきた! ああ、ああ、そうかよ、それでもお前からしたら、僕は浮気をするほど軽薄な男に見えるのかよ!」


 霧島聡子は絶句していた。普段から滅多に怒ることがない夫が、これほどまでに怒り狂っているだなんて。結婚してから今に至るまで、一度も夫婦喧嘩をしたことがない霧島聡子にとって、彼の態度は衝撃的だった。

 だが、彼女はそれで引き下がる女性ではなかった。


「なによ! 元はといえば、貴方がシャロンの……いいえ、コヨイのことを隠していたのが原因じゃない!」

「そうやって人の所為にするか、キミは!? 大体、この探偵さんへの依頼金だって、僕が稼いだお金だろう!? つまりキミは、僕が浮気していると勝手に勘違いした挙句、僕が稼いだお金をドブに捨てたわけだ! 冗談じゃないよ!!」

「おい、いくらなんでも人の仕事をドブ呼ばわりするのは――」

「何よ! それじゃあ、全部私が悪くて、貴方には一切の非がないって言うの!?」

「ああ、そうさ! じゃあ聞くけど、一体僕のどこに非があったか教えてほしいね!」


 真季の言葉を掻き消し、完全に二人の世界に入った霧島夫婦は最早誰にも止められないのか。

 二人は立ち上がり、互いに距離を取るようにソファーから離れた。真季は察した。まずい、これは殴り合いの間合いだ。


「はい、スト~ップ!」


 いい加減にしろ――と真季が止めに入ろうとした腰を上げたときには、既に朱美が仲裁するように二人の間に入っていた。朱美も真季と同様に、二人の間合いの取り方から、口論が殴り合いに発展することを予測したのだろう。


(よくやった、朱美。そうだ、そのまま二人を止めろ!)


 ここで更に自分が加わることは、霧島夫婦にとって余計な刺激になりかねない。だから真季は、敢えて行動を起こさず、この場の仲裁を朱美に委ねることにした。

 真季は、霧島夫婦に刺激を与えないように、静かにソファーに腰を下ろし……そこで、ふと、あることを思い出した。

 

(そういえば昨晩、霧島篤が浮気していた事実をどうするか朱美に尋ねたとき、あいつはなんて答えた? それに何故あいつは――を用意している?)


 数秒の思考後、その答えに辿り着いた真季は血の気を失った。


「どいてくれ、朱美ちゃん!」

「そうよ、これは夫婦の問題よ! 邪魔しないで!」

「もちろん、お邪魔するつもりはありません」


 朱美は、左右からの怒声を聞き流し、満面の笑みで霧島夫婦に提案した。


「ここに二人分のボクシンググローブを用意しました」


 それは天使の施しか、悪魔の囁きか。


「百聞は一拳に如かず。百の言葉を並べるより、一の拳に想いを込めて語り合った方が遥かに建設的ですよ」


 頭に血が上っていた霧島夫婦も、朱美の突然の提案には流石に逡巡した。

 だが、そんな二人の反応などお構いなしに、朱美は言葉を紡いだ。


「大丈夫、正しい殴り合いはコミュニケーションですよ」


 この一言が、最後の一押しとなった。

 そこからの惨劇については、真季は思い出したくなかった。

 朱美にまんまと扇動された霧島夫婦は、朱美に手伝ってもらいボクシンググローブを装着した後、一度距離を置き……遂に殴り合いを始めた。

 ボクシンググローブを装着したことにより、平気で顔面を殴り合う霧島夫婦。それを阻止しようと結託する真季とコヨイ。二人を止める朱美。怒声と殴打音が事務所を荒らす。

 霧島夫婦は結婚してから三年間、一度も喧嘩をしたことがなかった。つまり、この殴り合いが霧島夫婦にとって初めての夫婦喧嘩。結婚生活三年分のフラストレーションを放出する初めての機会とも言えよう。それほどまでに壮絶な殴り合いであった。

 喧嘩慣れしていない二人はまともに防御も取れず、結果、ノーガードで殴り合いは進む。顔、腕、肩、顔、顔、腕、顔。壮絶さだけが増していく殴り合いは、三〇分も続いた。

 最早、視線すらも定まらない霧島夫婦は、それでも拳を振り上げ、そして互いを慰めるように拳を頬に当て合い、気絶した。

 二人に駆け寄るコヨイ。それと同時に事務所にサイレンの音が飛び込んだ。こうなることを予想していた朱美が、予め救急車を手配していたのだ。その手際の良さに真季は舌を巻いた。霧島夫婦の顔にはいくつもの痣が出来ていたが、その表情は、全ての鬱憤を吐き出したのかのように無垢なものであった。



「マッキー! マッキー! 手紙だよ、篤さんと聡子さんから!」


 後日、霧島夫婦から一通の手紙が届いた。それは、真季たちに迷惑をかけたことに対する謝罪から始まり、殴り合いで互いの本音を聞けたことでより一層絆が深まったこと、コヨイの正体を受け入れ改めて家族として一緒に過ごすことが、綺麗な字で書き綴られていた。


「正しい殴り合いはコミュニケーション、か」


 悔しいが、今回の依頼は朱美の提案がなければ、円満解決とはいかなかっただろう。相変わらず理解は出来ない脳筋な選択だが、今回だけは認めるしかない。


「ねぇ、マッキー。この前『謝って済むのなら警察はいらない。綺麗事で済むのなら探偵はいらない』って言ってたよね?」

「ああ」

「あたしもマッキーの言ってることは正しいと思うけど……それでも。綺麗事で済むのなら、それに越したことはないよね?」


 真季は朱美の笑顔に、笑顔で返した。


「問題を殴り合いで解決することが綺麗事なら、探偵は廃業だな」

「もー! マッキーの意地悪~!」


 真季は封筒の中から一枚の写真を取り出した。それは、霧島夫婦とコヨイの笑顔で溢れた家族写真であった。写真を見た朱美が「わぁ……」と感嘆の声をあげた。


「まあ、お前の言う通り、これが見られるのなら綺麗事も悪くはないな」 

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