第7話 探偵、夜空に投げる
「ハァ……ハァ……」
コヨイは息を荒くし、人目を避けつつ夜の街を駆けていた。
周囲から人の気配がなくなったことを確認したコヨイは、息を整えようとその場で片膝をついた。
(なんなの、あの娘。あれほどの力を持つ娘が、何故なんの使命も持たず、のうのうと暮らしているの……!?)
コヨイが生まれた世界は地獄であった。
人類が宇宙に進出し、他の惑星の住民と交流する時代になっても、
人類が異世界への道を開き、異世界の住民と心を通わせる時代になっても、
コヨイが生まれた里は、外の世界との一切の関わりを拒絶し、伝統に縛られた日々を送っていた。
コヨイが幼少期より『忍』として育てられたのも、その伝統によるものであった。
親であるはずの存在から、愛情ではなく修行と言う名の虐待を受け続け、周囲の大人たちも虐待に加担する。
このような境遇にありながら、今まで命を落とさずに済んだのは、偏に親友のお陰だろう。彼女はコヨイにとって、里の中で唯一の安らぎであった。同じ境遇にある彼女にとっても自分の存在が安らぎであると自負するほど、二人は信じ合い、支え合い生きていた。
ある日、コヨイは友人から脱走の話を持ちかけられた。
自分より賢い友人の言うことに間違いなどあるはずがなく、彼女と離れることなど考えられなかったコヨイは、彼女の提案にふたつ返事をした。
脱走は成功した。友人の知恵と自分の隠密術を駆使し、里の大人を出し抜いたのだ。コヨイは彼女とともに喜んだ。外の世界のあらゆるものが美しく感じた。これから自分がこの世界と共に未来を歩んでいくことに、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
それがいけなかったのだろう。
里の大人を出し抜けたことへの喜び、外の世界に対する興奮から舞い上りきってしまったコヨイは、里の追っ手に見つかってしまう。
それからは、逃走の日々だった。途中、友人とはぐれてしまったコヨイは、逃げることに精いっぱいで満足に彼女を探すこともできなかった。
自分の前に現れるのは、敵、敵、敵。逃走と闘争に明け暮れる中で、彼女の忍としての能力は逃走当時よりも遥かに上がっていた。里の大人を憎み逃げ出した結果、里の大人が望んだ姿になってしまったのは皮肉としか言いようがなかった。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。
今度こそ里の追っ手を完全に振り切ったと確信したコヨイだが、戦いによって傷ついた彼女には、最早一人で生きられるほどの力が残っていなかった。
(……いま、わたしはどこにいるのだろう。まわりにたくさんのひとのけはいをかんじるが、わたしには、もう、かくれるちからも――)
視界が闇に変わっていく。誰かが自分に声をかけている気がするが、それに応える力も残っていなかった――。
*
コツ、コツ、と夜風に乗った足音で、コヨイは我に返った。
久しぶりの命のやり取り、その緊張から解放されたことで気が緩んだのだろう。少し息を整えるつもりが、いつのまにか忌まわしき過去を回想していたようだ。
(……この迂闊さ、私は変わらないわね……)
コヨイは自嘲する。そして視線をあげる。
そこには、全身を黒色で包んだ男がいた。季節に即わぬ服装は、夜の闇と同化するためなのか。コヨイはヤツの名前を知っていた。今までヤツを尾行していたのだから。
「……黒瀬真季……!」
「鬼ごっこはおしまいだ」
朱美と違って、戦う意思はないことを示すように、両手をポケットに収めながら真季は言った。
「そもそも、こちらには画像データが残っているんだ。その写真だけ盗んでも意味はない」
「……だったら、どうして血眼になって私を追いかけるのかしら……?」
(ちっ、流石にそこまでは頭が回るか)
「……私の要求は一つ。霧島夫婦から手を引きなさい。さもなくば然るべき場所にこの写真を提出するわ……。そうすれば貴方の信用は地に落ちるわね……もしかしたら、捕まるかもしれないわね?」
「家庭崩壊の元凶のくせに、随分な物言いだな。分かっているのか? その写真が露見すれば、霧島篤の命はないんだぞ」
「訳の分からないことを……!」
コヨイは二振りの短剣を抜く。
「ようやく手に入れた私の幸せを壊そうとするなら、死になさい……!」
疾駆。コヨイは、常人ではとても目で追えぬ速さで真季の懐に飛び込み、二振りの短刀で喉元と心臓を同時に狙う。
「まったく、俺の周りには物騒な女しかいないのか」
「……え……」
突然、コヨイの頭上に光が満ちた。
まさかもう陽が昇る時間になったのか? ありえない。それにこの光は陽の光ではない。
いや、そもそも何故真季を切り裂いた感覚がないのか。ヤツの喉元と心臓を切り裂く直前、ヤツは回避動作を取れていなかった。先程の怪物少女のような異能の力も感じない。
それに、どうして自分の身体は動かないのか。この全身の脱力感は一体なんだというのだ。
いや、違う。
これは脱力感ではない。これは……浮遊感。
そのとき、コヨイはようやく自分の置かれている状況に気が付いた。
今宵、月は雲に隠れ、空は闇に染まっていた。しかし、それでも彼女が照らされるのは、地上に光が満ちていたからであった。
そう、彼女の頭上に広がる光は、陽の光ではなく街の光だったのだ。
「俺は朱美と違って特殊な力は使えないし、あいつほど桁外れの身体能力も有していない。だがな、体術ならあいつに引けは取らんし……こと投げ技に関しては誰にも負けない自信がある」
もっとも俺が使う投げ技は一般的な投げ技とは大きく異なるがな、と真木は小さく呟いた。
コヨイの斬撃を受ける寸前、真季はようやくポケットから出した手を、迫りくるコヨイの腕を流れるように搦め――コヨイの力をそのまま投げ技に転用したのだ。
真季の以前の職場は、対人戦闘の機会に満ちた場所であった。そこで生き残るために身に付けたのが、古武道だ。
合気道の理念と技を吸収し、最低限の力で相手の攻撃を受け流すことで、あらゆる相手から「生き残る」ことができるよう独自の発展を遂げた、特殊な古武道。昔取った杵柄ではあるが、その腕は衰えていないと自負している。
真季の投げ技は、自分に向けられた力が大きければ大きいほど、その威力を発揮する。故に高速で迫るコヨイは自身のスピードを利用され、結果、街の光を見下ろせるほどの高度まで身を投げられたのだ。
あまりに突然の出来事に、コヨイの身体は彼女の意思に反してまったく動かなかった。
そして、地上に叩き付けられた。
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