第3話 あゝ、浮気調査

「――夫の浮気を調べてほしいんです」


 依頼人の女性、霧島聡子きりしまさとこの声は震えていた。いや、声だけではない。真季を見つめる瞳、膝の上で強く握りしめた拳、そして恐らくは心も、聡子の全てが震えていた。

 一生、苦難を共にすると誓ったはずの夫が自分を裏切っているのではないか、今までの夫の言動はどこまでが本当でどこからが嘘なのだろうか。


「もうすぐ結婚記念日なのに……」


 霧島聡子は涙ぐんで言葉を絞り出していた。夫を十全に信頼することが出来なくなり、遂に探偵に頼らざるを得ないほど揺れる彼女の気持ちは、恋愛に対し関心の薄い真季であっても察するに余りあるものであった。

 しかし、だからといって過剰に同情するのでも、重たい家庭事情に尻込みするわけでもなく、真季はこともなげに霧島聡子から夫に関する情報を引き出していった。

 ドラマやアニメのイメージが先行しがちだが、実は探偵が引き受ける依頼は、浮気調査や身辺調査といったに満たないが主であり、殺人事件や未解明事件といったに関わることは滅多にない。

 事実、真季もこの探偵事務所を開いてから、一度も刑事事件に関わったことがない。むしろ、関わる機会ならば前の職場の方が圧倒的に多かった。


(あれ……なんだろう)


 真季の横で、話の邪魔にならないように静かにしていた朱美は、霧島聡子に違和感を覚えた。

 しかし朱美は、違和感の正体を正確に言い表せられるほどの語彙を持ち合わせていなかったので、それを口にすることなく真季と霧島聡子の話を聞き続けた。

 

「これが……夫の写真です」


 真季と話したことで感情が噴出したのだろう、すっかり涙が決壊した霧島聡子は、やはり震えた手で一枚の写真を机――応接用の机――に置いた。

 霧島聡子と例の夫が二人でペットの猫を抱きしめている写真だ。

 

(あ、この猫、可愛いなー)

 

 見たことのない品種だが、どこか世を悟ったような表情に朱美は愛嬌を感じた。

 

(って、違う違う。ちゃんと男の人を見なくちゃ)


 朱美は、思考が脱線してしまったことに反省し、改めて写真を凝視した。

 夫婦円満、という言葉が自然と頭に浮かぶ笑顔に溢れた写真だった。浮気調査の資料として提出する写真に、敢えてこれを選んだのは、夫を信じたい気持ちが心に残っているからか。


(ん?)


 朱美は頭をひねった。この男性の顔はどこかで見たことあるような気がする。

 優しそうで、とても不倫するとは思えないどころか、世界で一番奥さんを愛していそうなこの顔は……。

 

 

「あーっ! こ、この人!」


 朱美は思わず素っ頓狂な声をあげた。真季はたしなめるように視線を送るが、朱美はそれに気付かず言葉を繋げた。


「ま、マッキー! この人、このオジさん、さっき話した人だよ!」

「なんだと? 昨日、お前が会ったっていう、愛妻家の?」

「うん、間違いないよ! 聡子さん、あたし昨日この人と偶然カフェで相席したんですけど、聡子さんのことをすごく愛してましたよ!」

「ほ……本当ですか?」

「はい! あたしも結婚したいなぁって思っちゃうくらい熱々でした!」


 その言葉を聞いた霧島聡子は、目に見えて活気を取り戻し、身体の震えも止まっていた。

 この様子だと依頼は取り下げだろう。まだ契約も結んでおらず、結果的には無料相談という形になってしまったが、一つの家庭の未来が守られたというのなら、それに越したことはない。

 

「あのあと、霧島さんは旦那さんと一緒に映画に行ったんですよね?」

「え?」

「だって旦那さん、これから家族と映画を観に行くんだって言ってましたよ」

「……私、そんな話知りません!」


 怒りに震えた霧島聡子の叫びが、事務所内に轟いた。

 

 *


「……まったく、お前というヤツは、なんで余計なことを言うんだ」

「ふぇ~ん、だってぇ~」


 悲しみを通り越し、怒りが頂点に達した霧島聡子は、その勢いで真季と契約を交わし、肩を震わせながら帰宅していった。

 嵐が過ぎ去り静寂を取り戻した事務所の中で、真季と朱美は浮気調査の段取りを計画していった。作戦会議である。


「情報を整理するぞ。まず、依頼人は霧島聡子、二十八歳の専業主婦。そして、今回の調査対象者ターゲットは彼女の夫、霧島篤きりしまあつしだ。三十歳の会社員。『製薬会社タチムカイ』の研究員だ。二人は今年で結婚五年目。子供はいないが、円満な結婚生活を送っていたそうだ。しかし、霧島聡子は二週間前から夫の行動に違和感を覚え、独自に夫の動向を探っていると、知らない女性の影がちらつき――遂に意を決してウチにやってきた、ということだ」

「えっと、聡子さんはどうして女性の陰に気が付いたんだっけ?」

「いつも時間通りに帰宅していたのに最近急に帰りが遅くなる日が出てきたり、服から知らない香水の匂いがしたり、ネット通販の購入履歴に自分の知らない女性用のプレゼントがあったそうだ。……女っていうのは、ここまでするものなんだな」

「それもまた愛じゃないかな。でも、うーん。本当にオジさん……篤さんは浮気をしてるのかなぁ。だって、本当にいい人だったんだよ?」

「依頼関係者に必要以上に感情移入するなといつも言っているだろう」

「でも……あ!」


 朱美の脳裏に閃きが走った。


「もしかして、異星人に洗脳されてるのかも!?」

「……は?」


 余りにも突拍子のない朱美の発言に、真季は思わず先程まで読み上げていた資料を床に落としてしまった。だが、そんな真季の反応などお構いなしに、朱美の発言は熱を帯びていく。

「二年ほど前だったかな、あたし、洗脳能力を使う異星人と戦ったことあるんだよね。ほら、あたしの故郷ってが多いから。今回もそれと同じなんじゃないかな? 異星人も異世界人も亜人も妖怪も珍しくない今のご時世、ありえないなんてありえないもんね!」

「朱美」

「もしそうなら最悪、戦闘になるかもしれないね。今回もただの浮気調査で終わりそうにないけど、あたしとマッキーが力を合わせれば、きっと聡子さんの誤解も――」

「俺はお前の妄想にいつまで付き合えばいいんだ?」


 それは、朱美の沸騰する頭を冷やすには十分すぎる一言であった。


「謝って済むのなら警察はいらない。綺麗事で済むのなら探偵はいらない。浮気調査は今までも何度もしてきただろう。いい加減、依頼人との付き合い方を覚えろ」

「だってぇ……」


 しゅんと顔を落とす朱美を見て、真季はどうしたものかと頭を掻いた。

 朱美の発言は、彼女の優しさが由来しているものだということは分かるし、それは人間として褒められるべき長所であるのだが、その優しさはときに瞳を曇らせるのだ。

 真季は探偵であり、朱美はその助手だ。探偵とは常に結果が求められる職業であり、依頼人達成のために最善を尽くし、依頼人が望む情報を探し、自らの瞳に納めなければならない。

 なのに、その瞳が曇っていたら? そのせいで正しい情報を見逃してしまったら? それは依頼人への裏切りを意味することになるのだ。だから、探偵は流れ行く情報を掴み損なわないよう、情に流されてはいけないのだ。

 

「や~れやれ、真季の旦那も厳しいことを仰る」


 静まり返った二人きりの事務所。その沈黙を破ったのは、第三者であった。

 しかし不思議なことに、事務所の中には相変わらず真季と朱美の二人の姿しかない。だというのに、真季は驚くそぶりもなく、ため息を吐くように声の主に言葉を返した。


「話を聞いてほしかったら姿を見せたらどうだ、


 すると、開いていたガラス窓から一匹の猫が鳴き声とともに姿を現した。


「朱美姐さんの気持ちも察してあげてくださいな。探偵とは人の生業。そこに真心がなければ、人がする意味がない。そう、生とは人の真心。生がなければ、探偵は人の業。単なる犯罪に成り下がるでさあ」


 もしもまだここに霧島聡子が居たら人語を発する猫に目を丸くしただろう。もしかしたら、夫に対する疑惑を忘れてしまうほど驚いたのかもしれない。しかし、真季と朱美にとっては、むしろ霧島聡子よりも馴染のある存在であった。

 

「はい、ドロンと」


 だから、姿、驚くことではなかった。


「この世に潜む闇探り、あなたのもとへ届けやす。毎度お馴染み情報屋、薫風かおるかぜのナギサとはあっしのことでさあ」

「今は仕事中だ。部外者は出て行ってもらおうか」

「旦那は探偵、あっしは情報屋。なら、用事は一つしかないでしょう?」

「霧島篤の情報か?」

「さいでさあ。職場の人間関係、行きつけの店などなど、旦那の欲しい情報、揃ってますぜ」でも、とナギサは喋り続ける。「その前に霧島聡子の情報、欲しくはありませんかい?」

「何故、浮気調査の依頼主の裏を取る必要が……まさか、人間なのか?」

「あ、もしかして……」

「なにか思い当たる節でもあるのか?」

「あ……うん」


 根拠のないことを言って真季に怒られたらどうしよう、と不安が朱美の頭を過るが、すぐに(そのときは、また謝ればいいよね)と考え直す。このポジティブ思考は朱美の長所であった。


「あのね、聡子さんの話を聞いているとき、なんとなく違和感があったんだ」

「なんとなくじゃ分からん。もっと具体的に言え。霧島聡子の何に違和感を抱いたんだ?」

「言葉に出来ないんだけど、なんかこう……違和感が」


 朱美は霧島聡子への違和感を表現する言葉が見つからず、両手をわさわさとさせた。そんな朱美に助け船を出したのは、ナギサであった。


「いやはや、彼女の擬態に勘づくとは、流石は朱美の姐さんでさあ」

「擬態? まさか、霧島聡子は……」

「ええ、霧島聡子は異訪人いほうじんでさあ」


 この地球には、たくさんの来訪者がいる。

 それは、異星人であったり、異世界人であったり、異次元人であったりと、実に多種多様である。

 いつしか地球人は、一つの定義を作り、彼らをこう呼ぶようになった。

 現在の地球とは異なる場所から訪れた人々――異訪人と。


「霧島聡子は、惑星アグリから地球へ移住した異星人。アグリ星人です」

「アグリ星人だと!?」


 霧島聡子の正体を聞いた真季は驚きの声をあげた。ただし、それは霧島聡子が異星人であったことに対してではない。


「まさか、聡子さんが異星人だったなんて驚きだね、マッキー」

「いや、彼女が異星人であること自体は特に問題ではない。そもそも俺は、を狙って、この探偵事務所を経営しているからな」


 もっとも今回に限っては普通の地球人の依頼だと思っていたが、とは言わなかった。悔しいからだ。


「じゃあ、何が問題なの?」

「霧島聡子……アグリ星人が、浮気調査の依頼を持ってきたことが問題なんですよ、朱美の姐さん」

「ああ。もし彼女が他の惑星の住民なら、なんの問題もなかった。だがよりにもよって、アグリ星人の夫に浮気の疑惑があるとはな……」


 何故、霧島聡子がアグリ星人だといけないのか。朱美は、この場で自分だけ理由が分からない状況に疎外感を抱いた。そのため語気を強くして真季に尋ねた。


「だから、どういうことなの?」

「……アグリ星人は、何よりも契約を重んじる種族なんだ。一度交わした契約は完遂するまで、決して投げ出すことを許さない。もし彼らとの契約を破ったら……」

「や、破ったら?」

「その人間は、彼らに捕食される」

「ほ、捕食ぅ!?」


 朱美の裏返った声が事務所に響いた。


「彼らにとって、命と契約は同義なんだ。故に契約を破ることは、命を捨てることを意味する。そして『破られた契約いのちは、その身に収めることによって完遂される』という価値観の元、契約違反者を捕食するんだ」

「じゃ、じゃあ、浮気調査を完遂しなきゃ、あたしたち食べられちゃうの!?」

「もちろん、それも問題だが……今、最も懸念すべきは、霧島篤だ」

「結婚とはある意味、生涯履行され続ける契約でさあ。つまり、霧島聡子との契約を交わした身でありながら、他の女に目移りした霧島篤は……」


 さっと、朱美の顔から血の気が引いた。


「どどどど、どうしよう、マッキー!? このままだと篤さん、食べられちゃうよ!? ……あ、そうだ。この際、篤さんは浮気をしていないことにして……って、あああ! そうしたら今度はあたしたちが食べられちゃうんだぁぁ!」


 ようやく自分の置かれている状況を理解した朱美は、まさに混乱の極みにあった。


「ハァ……霧島篤が異星人に洗脳されていたら、どれだけ楽か……」


 もし仮に洗脳されていたら、霧島篤の浮気は彼自身の意思ではないため契約違反にはならないはずだ。

 しかし、自分が窘めたはずの朱美の話に、縋りたくなることになろうとは何という皮肉か。

 真季は、霧島聡子の擬態を見破った朱美の勘の鋭さに舌を巻いた。


「ナギサ。霧島篤は霧島聡子の正体は知っているのか?」

「ええ、それは間違いなく。ちなみに補足しておきやすと、霧島篤は地球人でさあ」

「星を跨いだ異星間結婚、愛だね! ……って言いたいけど……」

「妻がアグリ星人だと知っていて、何故浮気をするんだ。霧島篤は自殺願望があるのか?」


 真季は頭の痛みを抑えるように、額に指を当てた。

 

「どうしよう、マッキー」

「既に霧島聡子アグリ星人と契約を交わしてしまった以上、やるしかないだろう。だが当然、霧島篤の命も守らなければならない。今回の浮気が彼女の誤解であることを祈るしかないが、もし本当に霧島篤が浮気をしていた場合は……」

「浮気をしていた場合は……?」

「……最悪、お前の言う通り、戦闘になるかもしれない」


 真季が敢えて『誰と戦闘になるのか』を明言しなかったのは、そうならないであって欲しいという真季の切実な願いが込められているのだろうと、朱美は察した。

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