第2話 探偵の朝は静かであるべきである
「米が炊けていない……」
ペット捜しの依頼から二日後。柔らかい日差しと、胸に弾む小鳥の鳴き声。心地よい朝を迎えたはずの黒瀬真季は、がっくりと項垂れていた。炊飯器のコードが抜けていたのだ。水の中に沈む白米は、今の自分の心境を表しているようだと自嘲気味に鼻を鳴らした。
真季は朝食は米でなければならない、という食習慣を持っているわけではない。しかし昨晩、突然米が食べたくなった真季は、慣れないながらも冷水に耐えながら米を研いだのだ。なのに、この仕打ちである。
「確かに俺はあのとき、米を上手く研げたことに対し自惚れた。そこに油断が生じたのかもしれない。しかしそれは、これほどまでの報いを受けなければならないことなのか……!」
自分の不甲斐なさと、世の中の理不尽に肩を震わす真季であった。
結局、コンビニのおにぎりで妥協した真季は、回転式のリクライニングチェアに腰をかけ、新聞を読み込んでいた。探偵を職業としている以上、情報取集は欠かせない。趣味が高じて奮発した木製の机には新聞に挟まれていたチラシが広がっている。
『地球防衛軍、火星圏にて敵性宇宙人艦隊撃破』『あっと、驚き! 本当にあった鶴の恩返し!』『奥さん、それ物干し竿じゃなくて、古代文明の宝槍です』『急増する異世界転生問題。残された家族の涙』『丘ノ空町、今度は小学生が怪獣を倒す』『八建市に潜伏していたノープス真命会元幹部逮捕』『なぜ妖怪は人に化けるのか』
右から左へ。上から下へ。動かした視線の先にある文字列を次々と頭に叩き込む。速読術と瞬間記憶は真季の特技の一つであった。
「今日も世界は騒がしいな」
静かな朝に世界の騒乱を憂う。そんな自分は格好良いのではないかと自惚れながら、真季は今日の予定を頭の中で組み立てていた。
予定を組み立てるということは、未来を先読みするということでもある。
探偵という仕職業柄、一秒先にどんな理不尽が襲い掛かってくるかも分からない。理不尽から身を守るためには、予め対策を練らなければならない。
そのため、プランニングはとても大切なことなのだ。これは真季が、前の職場で徹底的に教え込まれたことだった。
「八時四〇分……そろそろか」
リクライニングチェアを四十五度回転させ、腰をあげる。数秒の思考の後、机の真後ろに位置する、壁を挟みながら均等な間隔で並ぶガラス窓の一つを開けた。
新鮮な冷気が室内に吹き込み空気が循環するのを確認した後、真季は再びリクライニングチェアに腰をかけた。
そして、この事務所の唯一の入り口である木製扉を注視する。
ドドドドと階段を駆け上がるけたたましい音が聞こえたら、そこからの流れは一瞬である。
勢いよく木製扉が開かれる。その扉が壁に叩き付けられるよりも早く、その存在はコンマ一秒の速度で真季の視界を侵攻した。
「まっっきぃぃぃ! おはよぉ~! 貴方の飛鳥朱美だよ――!」
その勢いはまるで弾丸。事務所に現れた
そして、今まさに朱美と真季が接触しようとしたそのとき、真季の腕が動き……次の瞬間、朱美の身体は真季の身体をすり抜け、開かれた窓に飛び込み、地上に落ちていった。飛びかかってくる朱美を、真季が
「さて、コーヒーでも淹れるか」
肩を数度回した後、何事もなかったように立ち上がり、ガラス窓を閉め、コーヒーカップを用意する。もちろん二人分である。
*
「あいたたた……いつものことだけど、二階から落ちると痛いね。受け身も取れなかったら痛みは倍増だよ」
あれからすぐに戻ってきた朱美は、わざとらしく自分の頭を撫でていた。その頭にはたんこぶ一つ出来ていない。
「相変わらず頑丈なヤツだな、お前は」
「えへへ、身体が丈夫なのもセールスポイントだから」
客観的に見て、飛鳥朱美は可愛い部類に入る少女だとは思う。
肩まで伸びた、ハーフアップにまとめてある髪は、丁寧に毛先まで整えられており、服も皺がほとんどない。
破天荒な性格とは裏腹に、アルバイトとはいえ探偵事務所のスタッフとして依頼人に不快感を与えないよう、清潔感を保つ努力を怠らない朱美の姿勢に真季は好感を抱いていた。
だが、真季がそのことを朱美に素直に伝えることはなかった。何故ならば、飛鳥朱美という少女の破天荒っぷりは、彼女の長所を台無しにするほどのものであるからだ。
「投げられてほしくなかったら、いい加減あの登場はやめろ。朝から心臓に悪い」
「その胸の高鳴りは恋だよ、マッキー! あたしと同じ恋!」
「黙れ」
「マッキー、好きです付き合って!」
「いい加減、懲りろ。大体、社会人の俺が女子高生と付き合えるか。お前は俺を社会的に抹消したいのか」
「マッキーのためなら、社会だって敵に回すよ。だから、いっそのこと結婚しようよ、マッキー!」
「黙れ」
朱美との会話には疲労感が付きまとう。真季は身体に蓄積されつつある疲労感を取り除こうと、自分で淹れた、世界中のバリスタが裸足で逃げ出すと自負しているコーヒーを飲み干した。
「それで、今日は何をするの?」
「次の依頼が入ってくるまでは、事務処理くらいしかすることがないな。せっかくの土曜日だ、今日はオフにしてやってもいいぞ」
「じゃあ、デートに行こうよ、マッキー!」
「だから事務処理があると言っているだろうが」
黒瀬真季は探偵である。そして飛鳥朱美はその助手である。
朱美は何事に対してもストレートに、そして全力であたる。それも彼女の長所なのであるが、真季にとっては脅威であった。何度断り、何度受け流そうと、決してその手を緩めることなく、ストレートに、そして全力で好意をぶつけてくるからだ。
朱美のテンションの高さと何度突き放しても好意をぶつけてくるド根性に、ほとほと手を焼いている真季であるが、それでも朱美を助手として雇い続けているのは、偏に彼女の能力の高さを見込んでのことであった。
「あ、そういえば、昨日いいことがあったんだ」
「ふん……?」
それから二人きりの時間が続き、部屋の掃除をしていた朱美は、ふと思いついたように真季に話を振った。真季は時間潰しの雑談だろうと、読書の片手間に話に乗った。
「あれは放課後、友達の部活が終わるまで行きつけのカフェで時間を潰そうと思っていたときのことなんだけど、その日のカフェはすごく混んでたんだよね。あちゃー、これは座れないぞぉって思ったんだけど、店員さんから相席なら出来るって言われて、どうせそんなに長い時間いるわけでもないからいいやって思って、案内してもらったんだ」
「それがいいことだったのか?」
「もー、いいことはこれからだよ。その相席を快諾してくれた人がね、マッキーより少し年上の、多分三〇代前半のオジさんだったの。物腰が柔らかくて紳士~って感じの人! で、その人とすごい話が盛り上がっちゃって!」
カフェで和気藹と会話する三十路男性と制服姿の女子高生。その光景を想像した真季は、どことなく犯罪の匂いを感じたが、その女子高生とこうして会話している二十六歳の自分も似たようなものだと気付き、敢えて口にしなかった。
「でね、なんの話で盛り上がったかというと、そのオジさんは、すごい愛妻家だったの! オジさんの結婚生活を聞くと、より具体的にあたしとマッキーの未来が想像できて……きゃー! マッキー、やっぱり結婚っていいよね! ね! 子供は何人ほしい?」
「結局、話の行きつく先はそれか」
真季は、これで話は終わりだと言わんばかりに、リクライニングチェアを回転させ、身体を窓側に向けた。
ふと、窓から下を覗くと、この事務所に入ってくる女性の姿が確認できた。真季はにやりと笑い、再び朱美の方へと身体を向けた。
「喜べ、朱美。ご新規一名様だ」
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