第4話 ラプラスの悪魔
「まずいことになった」
ユウキがもう一度つぶやいた。ユウキの指が天球モニター上のL-demonウインドウをなぞる。
カオリが不安そうにユウキを見つめている。
「このままでは、あと3分で機体ごと落下する」
カオリが息を飲んだ。
「重すぎるんだ。TX050のワイヤーだけでは支えきれない」
ユウキが後部座席横のパネルを操作し始めた。天球モニター上のGUIでは間に合わない。
外から、がこんという大きな音が響く。ロック解除音だ。直後に気体が圧力噴射する破裂音が聞こえてきた。
「脚を切り離す」
天球モニター上に新しく開いたウインドウ内で、一本の脚が機体を離れて落下していく様子が映し出された。
L-demonのウインドウ内で機体重量を表示する数字が数トン単位で減少した。しかしまだ、過重量を示す赤色表示のままだ。
ユウキは続けて操作パネルを叩く。立て続けにロック解除音が響き、気体の破裂音が続く。ウインドウ内で、さらに一本、そして二本と大きな脚が奈落のような暗闇に落下していった。
「これで時間は稼げるはずだ」
天球モニター上のL-demonウインドウを広げて、情報がすべて表示されるようにする。経過時間と、落下予測時間が点滅表示されている。落下予測時間が、赤色のマイナス表示で10分になっていた。
「まだ足りない」
ユウキが唇を咬んだ。
カオリが操作ハーネスをつけたままの左手で、口を覆いながらモニターを凝視している。その目には脅えがはっきりと表れていた。
「この状況はもう、本部はわかってるんですよね」
「デーモンを通して落下した瞬間に情報は伝わっているはずだ」
ユウキはL-demonウインドウの左下に小さく表示されている“center online”の表示を指さした。
「それならすぐに助けが来るはず・・・・・・」
カオリがおそるおそる、後部座席から身を乗り出しているユウキの横顔を覗いた。
ユウキはカオリの質問には答えずに、L-demonウインドウの一部を軽く叩く。L-demonの音声会話操作がオンラインになった。
音声操作は直接操作に比べると速度で劣る。ユウキは普段、L-demonの音声操作をすることはなかったし、カオリにもそう勧めるつもりだった。しかし今はカオリと状況を共有するためにも、L-demonの音声出力が必要だった。
「049、救助の要請は届けられているか」
ユウキの声に、柔らかな女性の声が返ってきた。
「救助要請中。到着時間推定、15分以内」
「15分じゃ、間に合わないかも」
カオリが小さな声でつぶやいた。
「推定があいまいだ。もっと詳しい情報が必要になるかもしれない」
ユウキは独り言のようにつぶやいた。
「049、レベルを3へ。状況再推定」
「L-demonレベル3。救助機到着まで推定14分30秒。推定救助機TF110。救助人員、救助方法推定はキャラクタ出力参照」
L-demonウインドウにそれぞれの情報が流れるように表示され、続けてデーモンの声が流れる
「機体落下までの推定時間、9分23秒。落下原因、TX050からのワイヤー断裂および岩盤面崩壊の複合。落下距離、730メートル。TX050と連携中」
「やっぱり間に合わない・・・・・・」
カオリがつぶやいたとき、機体ががくんと下がった。カオリが小さく叫ぶ。二人を乗せた機体全体が左右に揺れているのがわかる。しばらくして頭上からこぶし大の石や砂が降り注いできた。それらが機体にぶつかり雨のような音が操作室内に広がった。
「状況変化感知。機体落下までの推定時間、8分15秒。さらなる状況変化対応と詳細状況推定にはレベル4以上が必要です。L-demonレベル4を申請しますか」
レベル4という言葉に、ユウキはわずかにためらう。
天球モニターからOSを操作して、TX050が状況把握のために自動で射出したドローンからの映像ウインドウを開く。
上空から写されたTX050と、その先に大きく口を広げた地面の裂け目が見えた。TX050から延びた細い二本のワイヤーが避けた地面の中に吸い込まれてぴんと張っている。そのワイヤーからの重量に抗するために、TX050は四本の脚を大きく開いてそれぞれの先端に取りつけられているアンカーを地面に打ち込んでいた。しかし、落下ショックはそのアンカーでも支えきれなかったようで、ずるずると裂け目に引き寄せられた跡が地面に残されている。
「049、レベル4を申請」
覚悟を決めたように、ユウキがデーモンに伝えた。即座に返答があった。
「L-demon、レベル4許可。これより最密度スキャンおよび詳細状況推定を開始します。サーバ使用能力35パーセント。連携機TX050側からのレベル4申請、許可」
操作室下側から赤と緑の鋭い光が発せられた。二本の光の線は目の前の岩盤上を目まぐるしく動き回る。
TX049から発せられた二本の光線とは別に、頭上からもさらに二本の光線が現れた。ドローンが地割れの真上で滞空し、そこから岩盤をスキャンしているのだ。
これまでに、L-demonレベル4を申請したTXオペレーターはいなかった。最密度スキャンと詳細状況推定がどのようなものなのか、ユウキも実地で体験したことはなかった。
ふと、ユウキは上司にあたる管理官の顔を思い出す。あとで叱られるんじゃないか、と場違いな思いが一瞬よぎる。
ユウキ、知っているか? が口癖の管理官。ユウキ、知っているか? レベル4を申請した者がどうなるかを。そう管理官に叱られる気がする。このあとで。この状況のあとで。
管理官は今、自分たちのこの状況をどう思っているのだろう。叱られてもいい。ユウキは管理官の声が聞きたかった。
作業中の本部との会話は可能だが、L-demonが導入されてからは、基本的に対人会話は行われなくなっていた。人の判断よりも優れたL-demonの指示に従うことこそが最も適切だったからだ。本部もそれがわかっている。だからこそ、本部との直接連絡はありえない。人の言葉は時として、正しい判断を迷わせる。
しかし、ユウキはやはり誰かの声を聞きたいと思う。カオリもそう思っているはずだった。
誰かが、どこかで自分たちを心配して行動してくれているとはっきりとわかる人の声こそが、もしかしたら本当の安心を与えてくれるのかもしれない。
今この瞬間も、本部では自分たちを助けようと多くの人々が動き回っている。
レベル4の許可が瞬時に出されたことがその証拠だ。サーバ処理能力の35パーセント。おそらく活動中のTXシリーズのほとんどが、現在は停機している。全TXシリーズに与えられるサーバ処理能力のほぼすべてを、現在は二機だけで使用している。
これは、今までにはなかった異常な状況だった。声は聞こえなくとも、この環境構築作業に関わるすべての人が、自分とカオリを心配してくれている。
それがわかっていても、やはりユウキは自分たち以外の、誰かの声を聞きたいと思う。意味はなくとも、誰かに励まされたいと思う。
「とりあえず、できるだけ重量を減らさそう。時間を稼がなきゃ。腕を落とそう」
ユウキの言葉に、カオリが驚いて振り向いた。TXシリーズの基本操作では、腕は最重要なパーツだった。脚はなくても腕が稼働できるなら、ほとんどの状況に対応できると教わっていたからだ。腕を落とす。脚と、腕がなくなれば、TXはただの鋼鉄の箱になってしまう。
「まずは左腕だけを落とそう。左腕を落としたあと、右腕で後部のアタッチメントパーツを全部投棄してくれ」
「わかりました」
カオリが正面を向いて、唇を噛みしめた。切断されていたマスタスレーブ機能をオンラインに戻す。
カオリはワイヤーだけでぶら下がる機体に衝撃を与えないようにゆっくりと両腕を動かした。左手をハーネス内で捻り、可動腕自身にその付け根の安全機構を解除させる。それはGUIパネルからは出来ない操作であり、意図しない腕の脱落を防ぐ安全機構だった。
左腕のマスタスレーブを切断して、ハーネスを外す。怯えたような表情でカオリがユウキを見る。ユウキがうなずいた。カオリが手元で赤く点滅するボタンを押すと、脚のときと同じロック解除の音が響き、続いて気体の破裂音がする。
天球モニター内のウインドウで、左腕がゆっくりと谷底へ落下していった。
L-demonウインドウの過重量表示が変化する。
「いいぞ。続けてやってくれ」
カオリがすぐに次の作業に取りかかった。右腕をぐるりと回転させて、操作室の外部後方に並べられたアタッチメントパーツのひとつを掴み、投棄する。その操作を繰り返してすべてのアタッチメントパーツを谷底へ落とす。
「よし、次は右腕だ」
カオリが正面のモニターを見つめながら不安そうな声を出した。
「・・・・・・大丈夫ですよね。腕がなくなっちゃたら、ほんとになにもできない」
ユウキも不安だった。しかし、まだ過重量は解消していない。捨てられるものは全部捨てて、そのあとはL-demonの状況判断に任せるしかない。
数分だ。数分の余裕さえできれば、救助まで持ちこたえられる。わずか数分の余裕を作るだけだ。声に不安を出さないよう気をつけて、ユウキはカオリを見つめた。
「大丈夫だ。やれることをやるだけさ」
カオリはモニターをみつめたまま、うん、とうなずいた。
右腕を大きく上げてカオリは肘を曲げる。可動腕が追従してその先端につけられたクランプが安全機構に延びていく。かちりと小さな音がして、カオリの手元で赤いランプが点滅表示を始めた。カオリがちらりとユウキを見る。
ユウキがうなずく。
がこんとロック解除音がして気体が吹き出す。モニター内で可動腕がゆっくりと傾き始めた。
「最密度スキャン中。状況変化感知。1.534秒後に2.290メートル落下」
がくんと機体が数メートル落下した。ワイヤーのぎりぎりという摩擦音が操作室内にまで聞こえてきた。次の瞬間、もう一度機体全体を揺らす衝撃がやってきた。本体を離れた可動腕が、落下の直前に操作室にぶつかったのだ。
「状況変化感知。カーボンワイヤA、2.236秒後に断裂。直後に2.545メートル落下」
L-demonの声が静かに流れた。
ばちんという破裂音が響き渡った。
機体が数メートル落下する。カオリが目をきつく閉じて歯を食いしばった。ユウキは後部座席で両手を広げ、操作室の壁で体を支えるようにしながら踏ん張る。次の瞬間の落下を意識して、きつく目を閉じる。
数瞬の間、二人は目を閉じたままだった。機体は上下左右にゆらゆらと揺れている。しかし、落下はしなかった。
「最密度スキャン、分析完了。スキャンは経時継続中。総重量に対するカーボンワイヤ強度不足。過重量72.234キログラム。岩盤組成、形状、構造分析終了。ワイヤ接触部位の張力に対する強度不足。現在の対応可能状況、キャラクタ表示参照」
L-demonが変わらない冷静な口調で告げた。
「機体落下予測、推定320.345秒後。救助完了予測、推定380.342秒後。推奨対応1、TX049液体部位の放出。対応2、外部作業による機体部位の撤去。当該作業には溶断のための火力が必要となります。対応2の作業危険度、身体および生命に対し85.433パーセント。これにより、対応2は非推奨となります」
ユウキがゆっくりと息を吐き出す。
「ワイヤーが一本切れたんだ」
天球モニターから頭上を眺める。200メートルほど上方から、一本だけの細く頼りなさげな蜘蛛の糸が延びているように見えた。直径2センチのそのカーボンワイヤーだけが、ユウキとカオリを支えている。
カオリが薄目を開けた。ハーネスを外した左手が震えている。
ユウキが操作パネルを叩き、本体外部の液体注入口を開く。人工筋肉に常時補給しなければいけない液状栄養源だ。そのタンク内に高気圧ガスを注入して液状栄養源を強制排出する。ガスも噴射させたままで放置しておく。
ユウキはそれ以外にも、各部潤滑油、補助内燃機関用燃料、外部および内部非常用水など、排出できる気体や液体のすべての注入口、排出口を開けた。主駆動機関の燃料である水素だけは、安全のために外部放出できない機構になっておりタンクの切り離しもできない構造だった。
TX049の機体ところどころから液体が流れ出し、ガスが噴出し始めた。
「最密度スキャン予測。12.387秒後に3.212メートル落下します。カーボンワイヤー張力に対する岩盤面の強度不足。カーボンワイヤーBは落下衝撃に対して対応。ワイヤー断面断裂予測、全断面の24.132パーセント」
ユウキとカオリが顔を見合わせる。体に力が入る。上空から石や砂が操作室の天蓋に降り注ぎばらばらと音を立てた。
「警告。衝撃に備えてください。人体の最密度スキャンは対応外。人体の動作による質量分散が機体落下時間推定に与える影響は4.265パーセント。不要な質量移動は避けてください」
動くな、ということだ。ユウキは歯を食いしばり、後部座席から腕を回してカオリを抱きしめた。カオリも目を閉じ、上半身に回されたユウキの腕をしっかりと掴む。
ふわりと体が浮く感覚のあと、落下の衝撃がやってきた。3メートルの落下の衝撃を、一本だけのカーボンワイヤーが受け止める。ワイヤーがびりびりと震えるのが天球モニターを通して見えた。
「衝撃吸収感知。人体質量移動を含めた評価、推定完了。機体落下推定、233.853秒。救助完了推定、292.492秒。カーボンワイヤーB断面断裂、24.132パーセント。カーボンワイヤーB耐張力に対する本機の過重量、50.452キログラム」
「ワイヤーから機体を外せないの? ふたりでワイヤーにぶら下がれば、救助まで持つかも」
カオリが首を後ろに回して聞いた。
「無理だ。射出接続されたワイヤーは緊急用だ。だから、簡単には外れない構造になっている」
ユウキはL-demonのウインドウを、カオリの頭越しに見つめた。
過重量、50.452キログラム。この巨大な、十数トンもある機体で、たったそれだけの過重量。
あと50キロ減らすことができれば、助かる。操作室の機器を取り外せば。いや無理だ。重作業用にすべてが固定設置になっている。工具などの備品? 備品は機体真下に置かれている。とても手が届かない。
足下を見ると、持ち込んだショルダーバッグが目に入った。ユウキは操作室横のハッチを開けて、バッグを投げ捨てる。
「詳細状況再設定。本機の過重量、49.682キログラム」
ユウキにはそれ以上、TX049から減らせるものを思いつけない。服を脱いで裸になったところで、カオリの分も合わせて数キログラムにしかならないだろう。
「機体落下推定、200.241秒。救助完了推定、260.349秒」
たった1分。たった1分に、たった50キロ。どうにかなりそうなのに、どうにもならない。残酷すぎる。ため息も出ない。吐く息が震えて、胸が苦しくなる。
カオリはうつむき、強く目を閉じて震えている。うしろからカオリに回している腕を、カオリが握りしめる。カオリの手の跡が残りそうなほどの強さだった。
「L-demon、モード変更。レベル5に自動移行」
ユウキが顔を上げた。
レベル5?
レベル5があるとは聞いたことがなかった。もちろん講習でもそんな話は出ていない。
「L-demon、レベル5。搭乗員二名、救出確率低下による、優先順位設定変更。搭乗員は、生存優先順位を決定してください。決定後、対応を評価、表示します。最密度スキャンによる予測。搭乗員二名の救助完了時間における生存確率は、0.000パーセント」
カオリの肩がびくりと震えた。頭を上げ振り向く。その表情は、怯えや恐怖ではなく、驚きだった。
ユウキはカオリの頭越しにL-demonのウインドウを睨んだまま身動きができない。
生存優先順位。
この悪魔め。
ユウキは優先順位という単語を心の中で繰り返す。
「悪魔め!」
声に出して叫んだ。
そんなものが決められるわけがない。それを俺たちに決めさせる気か。
カオリが正面を向き直り、両手で顔を覆い、肩を震わせた。嗚咽が聞こえた。
「機体落下推定、170.342秒後。機体落下推定時間より、対応評価、推定および対応実行時間を差し引いた優先順位決定までの猶予時間、70.231秒」
俯き、唇を咬む。体中に力が入り、無意識に震えが全身を襲う。強く咬みすぎたユウキの唇から血が流れた。前部操作席のカオリの身体に回した腕に力が入る。カオリも、ユウキの腕を握り返した。
悪魔め。ユウキはもう一度、唇だけで呟いた。
それでも、ユウキにはわかっていた。L-demonは正しい。自分もどこかで、その方法しかないと考え始めていた。
危険予測システムは人命を守るためにある。最後の最後までその可能性を追求するのが、L-demonの仕事であり機能だ。
しかし、二人共には助けられないとしたら?
最後の判断を人に求め、その結果から最適な対応を導き出す。そのモードがレベル5なのだ。
原子レベルの環境スキャンができても、どんな高精度な予測ができても、助けられないものは助けられない。L-demonはそう判断したのだ。
原子レベルのスキャン。沸騰するような頭の中で、また場違いな管理官の顔が浮かんだ。いつだったか管理官は笑いながらユウキに話したことがある。
「ユウキ、デーモンの原子レベルスキャンが、どういうことを意味しているか知っているか?」
ユウキは管理官の話を思い出す。管理官のその話は、ユウキにとっても笑い話にしか聞こえなかった。しかし、心が砕けそうなこの状況の中で、ユウキはその笑い話にほんのわずかな、かすかな光を見いだそうとする。そこにわずかな光があれば、どんなものにでもすがりつきたかった。
ユウキが顔を上げた。大きく深呼吸する。そして、叫んだ。
「優先順位1、カオリ・ケイ!」
「優先順位決定。対応評価中。推奨対応、優先順位2の機外放出。推奨対応後の過重量、マイナス15.562キログラム。優先順位1の救助完了時間における生存確率、96.475パーセント」
「ユウキさん! だめ、そんなことは、だめです!」
カオリが顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「機体落下推定、150.375秒。優先順位1の救助完了推定、205.391秒」
ユウキは後部座席を離れ、カオリの座る前部操作席の横にしゃがんだ。
「カオリ、よく聞くんだ。デーモンは正しい。こうするしかないんだ」
天球モニターの真上、細長く避けた岩肌の向こうに見える空に、黒い機影が見え始めた。その映像がウインドウに表示されて、モニター正面に映し出される。
「ユウキさん、だって、ほらあれ、救助が」
ユウキもその映像にちらりと目をやる。
「救助機が見えても、やはり間に合わない。くやしいがしかたがない」
カオリが大声で泣き始めた。
「機体落下推定、100.376秒」
L-demonが、それでも冷静な女性の声で告げる。
「3.485秒後にカーボンワイヤー全断面の34.451パーセント断裂。23.234秒後に0.566メートル落下。衝撃によりカーボンワイヤー全断面の42.298パーセント断裂」
ワイヤーが支える重量に耐えかねて、避ける音が聞こえてくる。
上方映像では救助機TF110の機影が見る間に大きくなり、裂け目の真上で滞空しはじめていた。
「カオリ。君は才能がある。きっと立派なTXオペレーターになる。君は、俺のために絶対にこの仕事をやめちゃいけない」
「私が、私が飛び降ります! 私が行くべきなんです、ユウキさん」
「カオリ、聞くんだ。聞いてくれ」
カオリが涙でぐしゃぐしゃになった顔をユウキに向ける。
「君が飛び降りたところで、おそらく過重量は解消できない。それぐらいは君を見ればわかる」
カオリはぎゅっと目を閉じて弱々しく首を振る。
「知っているか、カオリ」
ユウキは管理官の口癖を真似る。
「原子レベルスキャンで見える世界は、デーモンが見ている世界は、確率の世界だ。量子論の多世界解釈でこそ、意味がある世界なんだ。
スキャンで世界は、宇宙は分裂する。この世界は、たまたま俺がいなくなる世界なんだ。
しかし、二人共に助かっている世界が必ずある。分裂した先に、その世界は必ず存在しているんだ。
存在さえしていれば、いつか必ずまた会える。俺は、その未来を信じることにする」
カオリが泣きながらユウキにしがみついた。嗚咽がユウキの鼓膜を震わし、涙が首元を濡らした。
ユウキも、力一杯にカオリを抱きしめた。暖かく柔らかな、カオリの身体。決してこの感覚は忘れない。どんなことあっても、この感じは忘れない。
「警告。0.566メートル落下します。カーボンワイヤー対応」
機体ががくんと下がる。ワイヤーがきりきりと軋む。
「時間がない。カオリ」
ユウキはカオリの肩を両手で持ち、体を離す。
「機体落下推定、25.245秒」
上空の救助機TF110から救助索が延ばされ始めたのが見える。
「君もあまり時間がない。シートベルトを外して、ハーネスも取っておくんだ」
ユウキは立ち上がり、ハッチに向かう。ハッチはバッグを投げ捨てたときから開けたままになっていた。
「機体落下推定、15.287秒」
ハッチに手をかけて、ユウキが振り向いた。
「カオリ、この世界ではない別の世界で、二人で帰ることができたら、君は、俺の彼女になってくれ」
「ユウキさん」
「機体落下推定、10、9、8、7」
ユウキはカオリに微笑みかけ、ゆっくりと目を閉じた。そして、そのままふわりと機外に消えた。
「ユウキさん!」
「機体落下推定時間再評価。落下推定、480.298秒」
ユウキが消え、暗い岩肌だけが残ったハッチの向こうに、救助索の先端が見えはじめた。
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