出発
「
この心情を察してくれよ、と
「そもそもおれは母に似て政治向きには生まれ付いていないのだから……」
と漏らしてなにか恐ろしい物を見た様な表情をする。
「さあ、今宵はこれでしまいですよ」
「おお、ありがとう。そちは話せる男じゃのう」
これが大王の弟君だろうか、と難斗米は思っている。これでは運命に従う事しか知らないただの庶民と変わらない。狗古智卑狗は狗奴王の位を継がなければならないという重さに耐えかね、しかも継げば何が起こるかを予期しながら、逃れる術を持たない。その哀れな姿は難斗米の心にも同情を呼ぶ。ただそれと同時に、自分はこういう弱い人間とは違うのだという自覚を、ふつふつと湧き上がらせている。この脚で遠く中国へ往き、天子への使いという大任を果たし、還っては血縁という断ち難きものを断つという試練を乗り越えた。この身には自ら運命を切り拓く強い力が備わっているのだ! そうではないか?
明くる朝早く、穢れ払いの室は手早く解体され、燃やされて、一夜の出来事と共に灰となった。その上で、泉に入って身を雪ぎ、他界のものが付いて来ない様に念を入れて、
「世話になった。国に着いたら礼を送らせる」
と言い残して、邪馬臺に寄る事の無い近道を取って、狗奴国へ発った。
伊都の邑には、難斗米の新しい仕事の為に、殿舎が建てられつつある。
冬を越し、年が明けて、春を過ごし、正始二年四月に、張政たちは倭地を離れる時を迎える。医師の
他に、二人の手伝いとして十数名が留まる。適度に温暖な気候や、水の清さが気に入って、居残りを厭わない者が意外と多かった。公務として留まれば生活の心配が無いという点も、末端の役丁には魅力であった。
舟出の日、一行の全員が伊都の港に集まる。
「
と言って笑いながら、突兀先生は郡から送って欲しいという薬種の一覧を張政に手渡す。
「
先生は声を小さくして話す。
「むしろ女王の方だ。なまじい体が強いという自負をお持ちなだけに、どうしてもご無理をなさる。特に冬の寒い朝から練兵にお出ましになるのが良くない。今はまだ熱を召されても薬で解けるが、あまり続けられると冷気が骨の髄にまで入り込んで取れなくなりかねん」
張政は、頼まれた薬種について確かに送ると約束した。王碧にも張政に頼みたい事が有った。
「
張政は、王碧に紙と墨を分けてやった。王碧は母への
港では、今回の渡海に出る水夫の親族から、陸で待つ側の代表として一人の男が選び出される。その男は、舟が海を走る間、喪中の人の如くに謹慎して日々を暮らす。倭人の俗習で、航海の安全を願う験担ぎである。もし舟が無事に戻れば、一同で報酬を与える。もし水夫が病気になったり、災難に遭えば、この男が十分に謹まなかったせいだとして、罰を与える。一種の賭博でもあるが、張政が知る限り、危険はそんなに大きくない。
舟は岸を離れて行く。波は穏やかで、南寄りの微風を感じる。見送ってくれる人たちの顔は、すぐに芥子粒より小さくなる。
張政は、岸との間に蒼い海原が広がるのを観ながら、胸に手を当てる。懐には王碧がその母に宛てた封書が入っている。家の衰運に遭いさえしなければ、とっくに結婚していておかしくない年齢の女性が、もう数年をこの外地で過ごす。張政も世間から見れば妻を持つべき丈夫ではあった。新妻を待たせている梯儁は、嬉しそうな顔を北へ向けている。
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