出発

狗奴くなに居れば父上にどやされるし、邪馬臺やまとに帰れば姉上に疎まれる。父上はおれを跡継ぎと決め付けているが、邪馬臺育ちだから狗奴のことはよく知らん。狗奴のやつらもそれが分かっているからおれを軽んじるのだ」

 この心情を察してくれよ、と狗古智卑狗ここちひこは言う。

「そもそもおれは母に似て政治向きには生まれ付いていないのだから……」

 と漏らしてなにか恐ろしい物を見た様な表情をする。難斗米なとめの膳に置かれた瓶子には、まだ十分に酒が注がれたままである。

「さあ、今宵はこれでしまいですよ」

「おお、ありがとう。そちは話せる男じゃのう」

 これが大王の弟君だろうか、と難斗米は思っている。これでは運命に従う事しか知らないただの庶民と変わらない。狗古智卑狗は狗奴王の位を継がなければならないという重さに耐えかね、しかも継げば何が起こるかを予期しながら、逃れる術を持たない。その哀れな姿は難斗米の心にも同情を呼ぶ。ただそれと同時に、自分はこういう弱い人間とは違うのだという自覚を、ふつふつと湧き上がらせている。この脚で遠く中国へ往き、天子への使いという大任を果たし、還っては血縁という断ち難きものを断つという試練を乗り越えた。この身には自ら運命を切り拓く強い力が備わっているのだ! そうではないか?

 明くる朝早く、穢れ払いの室は手早く解体され、燃やされて、一夜の出来事と共に灰となった。その上で、泉に入って身を雪ぎ、他界のものが付いて来ない様に念を入れて、ようや伊都いとまちに戻る。狗古智卑狗は長居をせず、

「世話になった。国に着いたら礼を送らせる」

 と言い残して、邪馬臺に寄る事の無い近道を取って、狗奴国へ発った。

 伊都の邑には、難斗米の新しい仕事の為に、殿舎が建てられつつある。王が治所にしていた建物は、手狭に過ぎる。張政チァン・センたちが通行手形をもらう為に、ここで奴王にまみえたのは、つい数ヶ月前であった。ここにはもう誰も居ない。ここも間もなく取り壊される。その前に張政は難斗米と二人だけでここに入った。奴王が使っていた什器も、とうに片付けられてがらんとしていた。


 冬を越し、年が明けて、春を過ごし、正始二年四月に、張政たちは倭地を離れる時を迎える。医師の突兀鋭トツゴツ・ユェイは、帰りの舟には乗らない。姫氏王の要請に応じて、臺与の健康の為に邪馬臺に留まる。まだ帯方タイピァンに還らないもう一人は、王碧フヮン・ペクである。王碧は賜り物の生地を使って、氏王に服を縫った。また難斗米や都市牛利としぐりらにも作った。上等な絹や錦がほつれたりすると、倭人の針では質が合わなくて直せない。そこで当面は王碧が留まって、繕いに当たるのと同時に、倭王の女中に上等の針を与え、どの生地にはどの針を使うか、どうやって直すかなどを教える事になった。

 他に、二人の手伝いとして十数名が留まる。適度に温暖な気候や、水の清さが気に入って、居残りを厭わない者が意外と多かった。公務として留まれば生活の心配が無いという点も、末端の役丁には魅力であった。梯儁テイ・ツュンは妻子の無い者や、兄弟の長子でない者を優先して、適当な人数を選んだ。

 舟出の日、一行の全員が伊都の港に集まる。

夷地いなかの国とはいえ、おれも御典医というわけだ。もう十年は食い詰める気遣いは無いわい」

 と言って笑いながら、突兀先生は郡から送って欲しいという薬種の一覧を張政に手渡す。

臺与とよさまはおれが付いていればまあ大丈夫、健康に育つと請け合うさ。それよりあやういのは」

 先生は声を小さくして話す。

「むしろ女王の方だ。なまじい体が強いという自負をお持ちなだけに、どうしてもご無理をなさる。特に冬の寒い朝から練兵にお出ましになるのが良くない。今はまだ熱を召されても薬で解けるが、あまり続けられると冷気が骨の髄にまで入り込んで取れなくなりかねん」

 張政は、頼まれた薬種について確かに送ると約束した。王碧にも張政に頼みたい事が有った。

わたくしは女王さまに良くしていただいて何の苦労もありません。ただ里の母だけが気がかりです。どうかよろしくお伝えくださいませ」

 張政は、王碧に紙と墨を分けてやった。王碧は母への信書てがみを綴った。張政はそれを懐に預かって舟に乗る。

 港では、今回の渡海に出る水夫の親族から、陸で待つ側の代表として一人の男が選び出される。その男は、舟が海を走る間、喪中の人の如くに謹慎して日々を暮らす。倭人の俗習で、航海の安全を願う験担ぎである。もし舟が無事に戻れば、一同で報酬を与える。もし水夫が病気になったり、災難に遭えば、この男が十分に謹まなかったせいだとして、罰を与える。一種の賭博でもあるが、張政が知る限り、危険はそんなに大きくない。

 舟は岸を離れて行く。波は穏やかで、南寄りの微風を感じる。見送ってくれる人たちの顔は、すぐに芥子粒より小さくなる。

 張政は、岸との間に蒼い海原が広がるのを観ながら、胸に手を当てる。懐には王碧がその母に宛てた封書が入っている。家の衰運に遭いさえしなければ、とっくに結婚していておかしくない年齢の女性が、もう数年をこの外地で過ごす。張政も世間から見れば妻を持つべき丈夫ではあった。新妻を待たせている梯儁は、嬉しそうな顔を北へ向けている。

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