冬の影の囁き
張政たちは度々暇潰しに洛陽の街を歩いたり市場を遊ぶ。大都会に来たのだという当初の感激は薄れ、冬の低い陽射しに伸びた影が目にも寒く映る。
――
という声を、張政は洛陽の市場でよく耳にする。舌を打つ音に由来するこの感嘆詞は、喜怒哀楽どんな感情を表すのにも使われる。ただこの咨という声は、夷狄の人が漢語を覚えても上手く感情が乗らない。漢人でも地方の人は下手である。張政や
――咨。
洛陽の市場で聞くその声は、どんな話題であってもどこか暗愁を帯びている事に、この頃になって張政は気付いた。
――今、幼い皇帝が擁立されて、権臣が政治を執っているのは、漢の最後と同じではないか。
そんな囁きを張政は市場で耳にする。
「また
と誰かが言って、こう続ける。
「皇帝のお膝元になど居るから危ないのだ。俺はどこか辺鄙な土地でも耕せる
別の誰かが返す。
「俺などはいっそ、海を渡って遠くへ逃げてしまおうかと思うのだ。ほれ、孔子さんもその昔、中国に礼が行われないのを嘆いて、筏を海に浮かべて九夷に居らんと欲す、などと言われたそうではないか」
「そうかい、しかし海の外になんか人の棲める土地があるものかな」
「あの
「そりゃ知っているが、本当の話しかなあ」
また別の誰かが答える。
「おまえさんは、今この
「倭人ってのはなんだね、その蓬莱の島から来たのかね」
「そうなんだろう、俺が商売で出入りしている家の女中に聞いたのだが、倭人の国には徐巿の子孫が繁栄しているそうだよ」
とここまで聞き耳を立てていた張政は驚いた。徐巿の事は史書に載っているから知っているが、それが倭人に繋がるとはこの時まで思ってもみなかったのである。噂というのは仕様のないものだが、他方では正確に伝わっている事も有るらしい。更に聞き耳を立てる。
「それじゃ何だな、その島とやらには
「倭人というのは天性柔順で、
別の一人も口を挟む。
「ああ俺も商売先で聞いたが、倭人の国には
「それは俺も聞いた。もう中国でも見られなくなった古い形式の物だそうだ……」
これには張政も思い当たる所が存る。確かに倭人は中国の古い時代を想わせる祭り道具を使っている。但しそれが中国から伝わったのかどうかは詳らかでない。
「昔から、中国に礼が失われれば之を四夷に求める、と云うが本当にそうかな」
こんな話しは市場で聞き耳を立てていればする人が少なくない。或る人は西方の異境に
咨、という声に象徴される様に、中国から出て行こうかという風の会話をしているのは、漢人ばかりであった。しかし奇妙な事には、誰もそれを本気で実行しようというのではないらしかった。彼らはどこか遠い地に夢を馳せ、どうかしてそこへ行こうという話しに花を咲かせ、そして結局は中国の暮らしに帰って行くのである。洛陽の漢人たちは、現状に堪えられない程の不安を感じながら、奮起して希望を切り拓いて行こうという気力を欠いている。
一方で、屈託なく明るい
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