3 消去
「俺を入れて四人か」
一輝は茶色に変色したカルテを勢いよく閉じた。鷺宮に殺された真田家の人々。この人数が多いのかすくないのか、直人には検討もつかない。
これからそれを紙くずにする。
そう考えるだけで、自分のカルテを持つ手に力が入った。
直人にとって自分自身のカルテは、ただの記録物ではない。目の前にしてはじめてそれがわかった。ドイツ語で書かれているために一文字すら読めなくても、貼られた写真、データが自分のちいさな頃の写真のように感じた。
しかし一輝からは、そういった様子がまるでなかった。眉ひとつ動かさずにカルテをパラパラと見て閉じただけだった。
自分とはまったく違うからだろうか。一輝のようすは直人をいらつかせる。
「待たせたな。行くぞ」
「一輝」
「なんだ」
「ちゃんと見たのかよ」
「見た」
「どこがだよ。顔にどうでもいいって書いてるぞ。もっと大事にしろよ」
返事の代わりに、額に真田家のカルテが無造作に当てられた。
「黙れ。どうするのは俺の自由だ。おまえには関係ない」
「ふざけんなよ」
むかついた。怒りのまま真田家のカルテを奪い取る。
「おまえ冷たいぞ。こいつらは一輝の仲間なんだろ、名前くらい見たのかよ」
「見たと言っただろう。どこまでガキなんだ、おまえは。返せ」
「嫌だね。名前だけでもちゃんと見るっていうならいいけど」
一輝はしばらく呆れたように見つめた。
「じゃあそのまま聞いてろ」
「なんだよ」
「享年はここでの推定にすぎないから省略するぞ。俺が見た順でいく」
一輝は一息吸うと半ば視線を落とした。
「……場所、鷺宮研究所。
直人はあわててカルテを見た。あった。
「真田晶。酸の水槽に沈められ一ヶ月後に死亡確認。残った部位はほとんど無かった。真田山乃。熱した鉄串で刺されて、最後は海底に沈められて圧死」
一輝は空を見たまま陰惨な記録を語っていく。
きちんと見ていたんだ。
ーー覚えておいてやれ。それが手向けになる。
培養室を出たあと、一輝に言われた。あれは一輝のことだったのだ。
真田山乃は檻の中で横たわる写真も貼られていた。痩せているけどきれいな人だと思った。一輝と目つきがそっくりだ。
「山乃は一族としてはじめて鷺宮に捕獲された。だから虐殺の度合いが半端ないともいえる。まず全身の血を抜かれて銀製の銃弾を五百二十四発受けた。それでも再生したからな。人間が想像できるものすべてされたようなものだろう。死亡が確認されたあとは隅々まで解剖し尽くされていた。皮膚、爪の細胞単位までていねいにな。見ろ」
指されたページには、かなり細かい爪のスケッチが書かれていた。
「あとは俺を入れて四人だ。質問は」
直人は首をふって答えた。なにも言えなかった。
「行くぞ」
一輝はカルテを取り上げると、そっけなく歩き出した。あいかわらず、なにも気にしていないとでもいうように。
「オレ、一輝はじつはすっげえ冷たい奴だと思ってた」
「否定はしない」
あっさり答える背中に笑いそうになる。
「仲間なんかどうでもいいって感じなのに」
「仲間なんかいた覚えはない」
「じゃあオレは」
「仲間じゃない」
なんだよ、それ。
あっさり言い切った言葉が、直人の胸に深く突き刺さった。
「それ、どういう意味だよっ」
「おまえたちは同族ではないだろう」
「あ。そうか」
「それ以外に意味はあるのか」
「ない、いや違うっていうか。ええと、ああもう、わかんねえよっ」
拍子抜けしたうえに、あらためて聞かれると返答に詰まる。
「なにが言いたいんだ、おまえは」
「オレの言いたいことは」
視線を落とすと、シグマのカルテと汚れた服が目に入った。
そうだ。引っかかっていたのはこういうことだ。
前を行く肩をつかんで顔を見た。一輝はいかにも面倒そうな顔つきをしていた。
「なんでこんなふうに助けてくれるんだよ。オレも姉ちゃんも仲間じゃないんだろ。放っておけばいいだろ」
「それはな」
一輝は言いかけて口を閉じた。そのまま直人をじっと見ていたかと思うと、なにか思い出したようにクスクスと笑い出す。
「なに笑ってんだよっ。オレおかしいこと言ったか」
「いや、すまん。そうじゃない。ちょっと、思い出した」
「なにを」
「俺もそう言ったことがあったからだ。仲間じゃないのにどうして助けるんだ、と。彼女がどうして異端の俺を助けるのか、最後までまったく理解できなかった。俺を助けたことで明らかに自分の身も立場も危うくするとわかっているのに、最後まで……」
「へえ。聡美ちゃんにそんなこと言ったのか」
「違う。美樹っていう人だ」
「違うのかよ。じゃあ帰ったら聡美ちゃんにバラしてやる」
「好きにしろ。聡美も生まれていないくらい昔の話だ。こちらもひさしぶりに思い出したくらいだ」
「どうだか。先行くぞっ」
直人は足早に歩き出した。
一輝もおなじ事を言った事実がどこかうれしかった。
一輝は自分とまったく違う、追いつけもしない奴だと思っていた。
そうではないという安心感。がっかりじゃなく、むしろうれしい。なあんだ。おなじじゃないか。じゃあそれでいいや。
一輝は一定の距離をおいたまま追ってくる。
「直人。さっきの話だが」
「もういいって。時間ないんだろ。はやく行こうぜ」
「俺は誰の仲間でもない。仲間にもならない」
「さっき聞いた。一族じゃないからってことだろ。もうわかったから」
山と積まれた段ボールが狭い通路をより狭くし、直人はなんとか脇を抜ける。
「ああ。それに所詮は異端だ。人間とは種族的にも長期間馴れ合うことは不可能といっていい」
「オレん家に住んでるし飯も食ってるけどな」
「何年か経てばわかることだ。だから俺は、関わった人間と別れるときには、それ相応の恩を返すことにしている」
「それじゃいつか聡美ちゃんにも」
「もちろんだ。聡美にも相応に返す。静子さんもな」
「あのふたりなら三倍返しどころじゃねえぞ。当然ウチにも返すんだろうな」
「いや。おまえたち姉弟になにかを返す予定はない」
「だっ」
直人は足元の瓶につまづき、転がった瓶を踏みそうになった。
「居候だからってふざけんなよ。なんだそれ」
「俺が、おまえたちの最期を看取るからだ」
直人は足を止めた。声がどんどん近づいてきても、振り返ることはできなかった。普段から見ようとしなかった部分を見つけられた挙げ句、痛くないよう包まれたような気がした。
「家族に先立たれた孤独感、ふたりしかいないが故に、いつか相手に先立たれることへの恐怖心。それが常につきまとうからこそ、おまえたちは異常なまでに相手を思いやる。それならば、居候の俺が最後のひとりを看取る」
ひとりにならない。ひとりにさせない。
そう保証されることのどれだけ心強いことか。
とん、と肩に手が置かれた。冷たい手のはずなのにあたたかく感じる。
「それにガキには保護者の付き添いも必要だろう」
「一輝っ」
「先に入るぞ」
シュレッダーのある部屋は暗くて狭かった。
動作確認も兼ねて先に一輝がカルテを処分した。続けて直人も終わらせようとしたが、シュレッダーを前にしたまま動けなくなった。一輝から「どうした。ガキにはやり方がわからないか」と言われて、思いきりカルテをつっこんだのだった。
過去は思いのほか激しい音を立てながら粉々になっていった。一分もかからない。泣きたくて、笑いたいような、へんな感じ。あんなに迷ったのにこんなにあっけないなんて。
「終わったな」
「いや」
一輝が目線を室外に向けた。
「これからだ」
資料室を出ても追っ手の気配がないのを幸いに、全力で通路を駆け抜ける。
「研究室はここから二階上がった先にある。そこには奏だけでなく、かくまっている研究員がいる。いちおう味方だ」
そう聞いて直人は警戒したが、一輝も助けた人物だと聞いて思い直すことにした。それでも奏が気がかりなのは変わりないが。
奏は無事だろうか。自分のような目に遭っていないだろうか。期待より不安が強くなり、あわててかき消した。記憶のなかの奏はほほ笑んでいても、声さえ思い出せない。
はやく会いたい。はやく。
階段を駆け上がる一輝が、目的の階に着くなり足を止めた。
「どうした、一輝」
「血の匂いがする」
「えっ」
ふたたび一輝が駆けだしたので、直人はあわてて追いかけた。
一輝が駆けていく先は研究室独特の無機質な通路だった。両側にはおなじ扉が並んでいて、どこまでも続くかのように見えた。
ただ、ひとつ違うことは、数メートル先にあるひとつの扉だけ開けられたままだったことだ。さらにその扉から床を這う、赤い一線が直人の目を離さない。
まさか奏がいるのはあそこじゃないよな。そこは関係ないよな。一輝はそこを通り過ぎていくよな。なあ、一輝。
直人の祈りもむなしく、一輝は開いたままの扉の中に消えた。
ぱん、と髪ゴムが弾け飛んだ。赤い髪がざわりと波を打った。
研究室まで遠く感じた。
「姉ちゃん!」
室内のようすを見て、直人は一瞬呼吸が止まった。
培養室があった研究室を再現したかのようだ。ビーカーや試験管は割られ、パソコンのディスプレイにもヒビが入っていた。引き出せる物はすべて引き出され、棚という棚の中身は床にぶちまけられ、書類には踏みにじった跡さえもあった。通路を這っていた血はデスクの奥から始まっていた。ここの研究員だろうか。
一輝は奥でなにか捜しているようだった。
「一輝。姉ちゃんは」
「いない」
「いないって」
血の気が引いた。この荒らされた一室からして、奏の身が安全だとは思えない。
「だってここにいるんだろ!?」
「ガタガタ騒ぐな! すくなくともここには遠野しか見当たらない。机の下を見てみろ」
言われたとおり、研究員がデスクの影にうずくまるように倒れていた。昔の理科教師といった感じだろうか。痩せていて白髪混じりで白衣姿、五十代くらいの男に見えた。
むごいな、と思った。リンチに遭ったのだろう。白衣のあちこちが足跡で黒くなっていて、頭と両手から血を流していた。とくに両手は血だらけで、廊下に続く血はここからが多いようだ。指さえよく見えない。
「一輝、この人が」
「ああ。俺も奏さんもそいつに助けられた」
顔を見ようと肩に手をかけると、死体だと思った男は痛みに顔を歪め、うめき声を上げた。
「生きてる!」
思わず上げた言葉に、よかったな、と一輝の声が笑う。
「おい、おいっ。だいじょうぶか」
目が開いた。
「……シグマ。来たか」
「‘直人’。大丈夫かっ。それと姉ちゃん、どこに行ったんだよ。わかるか」
「くす、り……DX-K……」
「ディー、ケー、なに?」
「DX-Kだろう。直人、これを口に入れてやれ。一錠でいい」
一輝の放り投げた薬が、直人のすぐ側に落ちた。その青い錠剤をあわてて研究員の口にねじこむ。じき、研究員の苦しそうに歪んでいた表情がおだやかになった。
「よく効くんだな」
「鷺宮オリジナルの麻薬だからな」
奥から戻ってきた一輝と、研究員を床に寝かせる。
「とどめをささずに手をつぶしたか。クズらしい趣味だ」
研究員の姿をあらためて見て、直人は犯人の行為に嫌悪した。血だらけの両手のほかに、腕、胸や腹にくっきりと靴底が残っている。それもいくつも。
ほどなく、研究員がかすれた声で礼を述べた。
「ありがとう。ずいぶん楽になった。かえってすまなかったね」
「いない間に客が来たようだな。奏さんのいたところにこれがあった」
一輝が胸ポケットからぐしゃぐしゃになった一枚のメモを出した。「第四演習場で。聖」と殴り書きされている。
「どういうことだよ!!」
「直人は黙ってろ。話を聞くのが先だ」
一輝に止められ、直人はぐっと引き下がった。
「なにがあった。話せ」
「真田くんを送りだしてから、あまり時間は経っていないと思う。常川さんとファイは連れていかれた。怪我はしていない。怪我は私だけだ」
「だから手薄だったのか。なるほど」
「心当たりでもあるのか」
「こいつがいる手前で聖の部隊とやりあったが、それきりだ。こいつを拾ったあとはまったく追跡がない。不自然なほどにな」
「まさか、すでに聖に」
「そうだ。すべてあのクズの計画だったんだ。俺がいない間に襲撃して奏さんを連れ去り、第四演習場でシグマを待つ。じつに合理的だ」
重苦しい空気が流れる。
研究員はひと呼吸おいた。
「聖は今度こそシグマを手に入れるつもりなんだな」
「くだらん」
ふたりの問答を見ていた直人が割り込んだ。
「ちょっと待てよ。聖はシグマがほしいんだろ。用があるならオレだけでいいじゃん。なんでそこに姉ちゃんが出てくるんだよ。姉ちゃんはシグマと関係ないだろ」
「なんでわからないんだ、おまえは」
いらつく一輝の代わりに、研究員が答えた。
「シグマの完全覚醒には、彼女ほど最適な存在はいない」
「最適って」
「君はお姉さんを殴ったりできないだろ」
「なに言ってんだよ、するわけないだろ!!」
「そういうことだよ」
「わかんねえよ」
首を傾げるひとりに、ふたりは苦笑した。
「ファイまで持っていったということは、シグマにぶつけるつもりか」
一輝の予想を研究員は否定した。
「いいや。聖は昔からファイをほしがっていたから、持っていったまでだろう。ぶつけることも不可能だ。マスター以外にタイプHを操作することはできない」
「じゃあこの部屋はファイが荒らしたのか」
「違う。やったのは聖の「メンバー」だ。ファイはなにもできなかった」
「メンバーって」
直人の疑問に研究員が答える。
「聖が契約しているヤクザとかチンピラのようなものだ。金を払えばなんでもやる。人殺しも調達もだ。いつも黒いスーツを着ているからよくわかる」
一輝が反応する。
「店に来たあの犬か」
「襲撃にいちはやく察知したのはファイだが、常川さんと奥にいたのが仇となった。出遅れた。ファイが飛び出してきて臨戦態勢に入ったときには、私の頭に銃がつきつけられた形になっていた。脅して動きを封じ、そこをスタンガンでね」
ワンパターンもいいところだな、と一輝は吐き捨てる。
「そのあとに聖が来て、メンバーにここを荒らすことと、ファイと常川さんを連れ出すよう指示を出した。ファイは聖のラボ、常川さんは第四演習場」
「第四演習場ってどこだよ」
一輝が顎で指す。
「この上にある」
「よし!」
「待て、直人」
直人は立ち上がったが、一輝は動こうとしない。
「今はまだはやい。あと二十分くらいここで待つ。奴らが直行している保証もないからな。今いったところで運が悪くて鉢合わせ、最悪こちらの後ろを取られると水の泡だ」
「なんではやいってわかるんだよ」
「床の血液を見たらわかる。あまり乾いていないだろう。襲撃されてせいぜい十分かそこらだ」
「でも姉ちゃんが」
「だから焦るな。その奏さんを確実に取り戻すためだ。落ち着かないなら医務室に行って寝てろ。奏さんはそこにいた」
言われてすぐ、直人は医務室に飛び込んだ。奏の痕跡を捜したかった。
医務室は保健室よりも狭く、窓もなく、ベッドに横になっても窮屈感が消えなかった。奏はこんなに狭い場所にいて、自分を待っていた。そう思うだけで胸が苦しくなる。
なさけない。ほんとうになさけない。ずっと追いかけているのにうまくいかない。すれ違ってばかりで泣きたくなる。なにもできない自分自身に腹が立つ。一輝にガキと言われても言い返せないほどだ。いつ髪ゴムが切れたのか、忌々しい髪もだらけたようにのびっぱなしだ。
オレってなんでこんなに非力なんだろう。どうしていつもなにもできないんだろう。ちくしょう。
「なに!?」
「どうした、一輝!」
突然一輝が声を張り上げたので、直人は医務室を飛び出した。
驚いた。なにがあったのか、一輝は研究員の胸ぐらを掴んで今にも殴りかかりそうになっていた。なによりも、一輝が牙を剥いて誰かを怒鳴る姿を、直人ははじめて見た。
「答えろ! なぜ美樹がここにいるんだ。そもそもそれは事実なのか!?」
ミキ。
どこかで聞いたような気がする。
「事実だ」
「貴様ら、美樹になにをした!!」
「一輝」
手をかけたが、乱暴に振り払われた。
「言え!!」
「知らない。ただ、進藤美樹の脊髄標本があり、それが聖自慢のコレクションだということだ。聖が真田家を研究するきっかけになったという」
「どこにある。言え」
有無を言わさない口調に、研究員は一度口をつぐんだ。
「聖のラボのどこかだろう。一番長い円柱の瓶に入っている。ミキ・シンドウと書かれたラベルがついて」
一輝は研究員を乱暴に放すと、すぐ隣にいた直人にさえ目もくれずに出口へ向った。
「どこ行くんだよ!」
「直人は奏さんを連れて先に帰ってろ」
「おい!」
「美樹を確認次第、あのクズを始末してやる。おまえは手は出すな。いいな。わかったら行け」
「一輝!」
直人が追って廊下に出たときは人影もなく、足音が遠ざかっていくだけだった。
「いったいなんなんだよ」
「驚いた。君は進藤美樹を知っているかい」
「いいや」
研究員は聞かれるともなくひとり淡々と語った。
「そうか。進藤美樹は真田家の犠牲者だ。生気を吸われて死んだと思われる。標本の脊髄の核にはミトコンドリアだけが完全に消失している。まさか彼とつながりがあるとはな」
どちらともなくため息が漏れた。
しばらくして研究員が腕を上げた。ほとんどの指をなくした手を見つめて顔をしかめる。
「すまないが医務室から包帯を取ってきてくれないか。痛みはないんだが、止血したいんだ」
「お、おう。わかった」
「薬の並んでいる棚があるはずだ。その中の下のにある」
直人はあわてて包帯を取りに行った。そして研究員の指示どおり包帯を巻き、ボールペンをはさんでねじる。左手に取りかかった頃には直人の手も服も研究員の血に染まっていたが、ふしぎと気にならなかった。
「これで、いいか」
「ありがとう。なかなか上手いね」
礼を言われて、直人は顔がほころんだ。
「なんか、変」
「変、とは?」
「オレ、いつも姉ちゃんに手当とかされてたんだ。だからこうやって誰かに包帯を巻くなんて、したことなくて。こないだは背中に湿布とかもべたべた貼られたりして。いつもすごい強引でさ。帰ってきたらいきなりオレの制服を脱がそうとしたりするんだ」
「ははは、すごいな」
「だろ、すごいんだよ。あ、あんたも湿布したほうがいいかもな。なんかボロボロだし。さっきのところに湿布あるか」
腰を浮かせた直人を引き止めるように、直人に手に研究員の手がふれた。やさしい瞳が見つめている。
「もういい。じゅうぶんだ」
「そっか」
「君はほんとうに常川直人なんだな」
やさしく語りかける言葉が、直人の頭の奥に響く。
「そしてシグマじゃない」
研究員の目が、研究者特有の分析する目つきに変わる。
「DNA上ではタイプH・シグマだ。それは揺るぎない事実だ。なぜならそのように私と三崎が開発したからだ。だが精神の面ではタイプHではない。そもそもほかの存在を気遣うなどインプットされていない。つまりそれは一般人である常川直人の行動であることを意味する」
「よくわかんねえんだけど」
「原因として挙げられるのは、やはり常川奏の存在がおおきいと思われる。情の深い彼女と接触したことで、シグマの本質よりもさらなる深い部分、ホモサピエンスの本質や本能といった部分に強く影響を与えたのではないかと考える。そうでなければ、行方不明になってから今に至るごく短期間で、シグマの面影がここまで完全に消えるはずがない。洗脳はあくまで洗脳だからだ。本質を変えることはできない。つまり常川直人からシグマが消えたことを意味する。タイプHを開発した私はそう結論づけることにした」
ぽかんと聞いていた直人の胸に、とん、と研究員の手が当てられる。
「常川直人くん」
「あ、はいっ」
フルネームに反応して学生らしく返事をする直人に、研究員がほほ笑んだ。
「わかるかい。君は完全に常川直人になった」
直人は血だらけの手に、両手を添えた。
研究員は言葉を続ける。
「だからはやくお姉さんを連れてここを出るんだ。聖は危険だ。どんなことを言われても無視することだ。助けてやるとかうまい条件を出されても、すべて嘘だ。君はお姉さんと逃げることだけを考える。わかったね」
うなずいた。
「常川さんが連れていかれたのは第四演習場だ。ちょうど、ここの、上に、ある。階段を、行けば……すぐ」
「お、おい! 大丈夫か!?」
次第に研究員の呼吸が短くなってきた。
「表示が出ているから。出口は、演習場の、近くに、地上、直結、小型の、エレベーターが、ある。それを……使え、ば……」
研究員はがくりと意識を失った。
「あ、お、おい!?」
目がかろうじて開く。
「ああ……すまない。副作用だ。だいじょう……。君は……出……」
肩で息をしながらかすれた声でそう言うと、研究員は目を閉じた。
「ありがとう」
直人は強くうなずくと、立ち上がった。
薄れていく意識のなかで、遠野は直人の足音が遠ざかるのを聞いていた。
呼吸と拍動が突然おかしくなったのは、副作用で死ぬ徴候だ。あと十分も経てばわたしは死ぬだろう。最後に会えてよかった。
三崎。わたしの仮定は間違いだった。常川直人のなかにシグマがいると思っていた。しかし、これでわかった。わたしたちのシグマはもういない。あんなにも人間らしい行動をとるなど、タイプHにはありえない。常川さんが正しい。ようやくわかった。
三崎。聖に何度も言われたが、やはりわたしはなさけない人間だな。今、シグマがもうどこにもいないと知ったとたん、これほど落胆するとは思わなかった。まるで君が死んだときのように無性に悲しい。わたしはそれほどシグマを求めていたんだな。常川直人のなかにあるシグマの幻影をひたすら追っていた。意地にもなっていた。わたしはシグマの向こうにいる君の痕跡を捜していたんだ。研究者ともあろう者がこんな感情をずっと引きずっていたなんて、今になって自覚したんだ。研究者失格だな。もっとも両手が無くなった今には研究も無理な話だろうけど。
それでも最後にいい笑顔を見せてもらったよ。君のシグマは実に生き生きとしていたんだ。私の取った選択は、彼自身にとってよかったのだろう。もしもシグマではなくファイだったなら、ファイはどうなっていただろう。あのように笑うのだろうか。
ああそうだ。ファイ。すまない。解除コードを入れてやれない。でなければおまえは死ぬ寸前までマスターを求めてしまう。それだけはさせたくない。なのに自分の拍動も弱くなってきたのがわかる。もうすぐ死ぬんだろう。ファイを残して。
だめだ。それだけはできない。三崎、頼む。一度きりでいい。せめてファイに解除コードを伝えてくれ。誰かが廊下を走ってきた。誰だ。誰でもいい。ファイにーー。
「マスター!!」
ファイに……。
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