2 アカシックレコード
ドアの向こうの景色に、直人は後ずさった。ひろさは体育館くらいあるだろうか。ほこりと湿気と薬品の匂いが充満した一室には、天井に届かんばかりの棚が林立していた。その棚という棚にも、書類やガラス瓶といったものが所狭しと詰めこまれており、膨大な量を前に踏み出すこともためらう。
「はやく入れ」
隣から言われてあわてて進むと、背中でドアの鍵をかける音がした。
「これでゆっくり探せる」
「ゆっくりっていうか、どこから行けばいいんだよ」
「端から攻めろ。おおまかに分類くらいはされてるはずだ。おまえはタイプH関連のものすべての資料を探せ。シグマというからには、それ以前のタイプHがいたとも考えられるからな。見つけたら抜き取れ。奥のコピー室にシュレッダーがあるらしいから、まとめて処分する。いいな」
奏と合流する前に、タイプHの資料を抹消することにした。一輝がそうだったように、直人も鷺宮に痕跡があるかぎり、つきまとわれる危険性がある。本心は一秒でもはやく奏に会いたかったが、脱出後また狙われるのもごめんだ。
「分類ったって、どんなのがあるんだ」
「そうだな。まず人体、つぎに頭部や毛髪のあたりだろう。俺は俺の探し物をしているが、シグマ関連のものを見つけたら声をかける」
「一輝はなに探してんだ」
「真田家の資料。俺はそれが目的で鷺宮に来たんだ。言わなかったか」
そういえばそうだった気がする。
「見つけたら声をかけろ。どうせふたりしかいないんだ、叫べばわかる。じゃあな」
立ち去る一輝を見送り、直人も資料の谷間を歩き出した。
ため息が漏れる。自分が甘かった。資料室はせいぜい学校の倉庫くらいだろうと思っていた。しかしここは鷺宮研究所の資料室、量が半端ないことなどすこし考えたらわかっただろう。はやく目的の物を見つけて、奏の元へ行こう。
あせる気持ちを抑えながら、黄ばんだ書類、ぶ厚い本、ホルマリンに浸けられた塊に目線を走らせていく。瓶はおおきいものからちいさいもの、細いもの四角いもの、さまざまなものがあった。なかでも動かないしろい塊を見るたび、直人はぼんやりと面影を思い出して息をついた。
ああ。
ここは培養室とおなじ匂いがする。
目的のものはなかなか見つからなかった。何度か足を止めては確認し、お互いに結果を確認してはまた歩く。そのうちにどちらともなく、ふたりは話していた。
一輝は鷺宮につかまったんだよな。
ああ。何度考えても屈辱だが、つかまったのは事実だ。
どうして、一輝が。
油断しただけだ。つまる所、情報量の差だな。鷺宮については俺はただの兵器工場だとタカをくくっていた。逆に鷺宮は、真田家については俺より詳しかったくらいだ。一族をつかまえては研究していたからな。こちらはひとり逃亡中。同族の増やし方も死に方も知らない。差は歴然だ。
なるほどね。
俺が生まれる前から生きていた一族もいたらしい。
え。だって一輝、二百年は生きてるって言ってたよな。そんなに昔からあんのか、ここ。
ああ。むかしから形や設備を変えて、裏で存在していた。どうしてかわかるか。兵器工場だからだ。今は戦争があればどこにでも売り込めるし、オークションもしているようだな。戦時中は兵器を提供するかわりに捕虜をもらって兵器にする。人身売買なんてかわいく見えるぞ。人間のままだからな。
うえ。じゃあ一輝もそうなるかもしれなかったのか。
可能性はゼロじゃなかっただろうな。施術の最中に逃げたが、あのままいたら今頃、こいつらの隣にいたかもしれないな。ちなみに、奴とはそれからの縁だ。
奴って。
聖。俺を研究するチームに配属されたひとりだった。今度こそ殺してやる。おい、直人。また誰も殺すなとかほざいてもあきらめろ。いいな。
聖って、すごくひどい奴だって聞いた。
ああ、そうさ。奴は昔から悪趣味だった。動物だけじゃなく人間の臓器をえぐり取って、それを切り刻んでばかりいた。ほかにも解剖好きはいたが、一度か二度で満足するのがふつうだ。奴のあれは研究じゃない。ただ解剖してあそんでいるガキだ。
臓器って、脳とか。
たしかに脳もあったな。取り出した脳を別の肉体に移植したあげく、わざと意識を保たせて、聴覚や視覚も維持させて会話させたり。精神の均衡の研究だとさ。鷺宮では天才とか騒いでいたが、こっちは想像するだけで吐き気がするね。
「研究かよっ!」
直人は怒りのあまり、目の前の資料に拳を入れた。本が揺れ瓶にぶつかっても、かまわず何度も殴った。殴りつけた。
一輝はそれきりなにも言わなかった。
直人もじき、歩きだした。
しばらくの間、資料室には足音だけが響いていた。
「直人。こっちに来い。たぶん、これだ」
呼ばれて直人は資料の谷間を駆けた。
それは書類の奥に、まるで隠すように収納されていた。一輝が書類の束を抜き取ると、ほこりと一緒に黄ばみがかったファイルが出てきた。表紙にはHのひと文字が走り書きで書かれている。
「ひとまず信用してやるか」
「信用ってなんだよ」
「ここを教えた研究員。鷺宮の人間だぞ、奏さんや俺をかくまっただけでは信用できないね。今回、おまえのいた場所の地図を聞いたときに、資料室の入力ナンバーも聞いてみたんだ。理由をきくから、ちょっと事情を話したら、おまえの資料の隠し場所まで言いだした。あまりにすんなり教えすぎるから、罠かと思っていた」
「なんで罠なんだよ」
「俺ならそうするからだ」
「わかんねえ」
一輝は眉をしかめた。
「どこまでもガキだな。考えてみろ。おまえが鷺宮なら俺たちをどうする」
「どうするって、ええと」
「逃亡をたすけるふりならいくらでもできる。資料室にほしい餌があって行きたいというなら行かせるさ。しかし餌の場所なんか言う必要はない。せいぜい位置を教えても、置いてあるものは偽物でじゅうぶんだ。餌をもとめて探している隙をねらって、ゆっくり捕獲したらいいんだからな。逃がす気がなければ、餌の位置まで正確に教える必要はないということだ。わかったか」
たしかにそうだ。
「まさかと思って端から探してみたが、これはあいつの言った場所にあった。遠野は俺たちを逃がすつもりだ。しかたない、すこしは信用してやる」
「その人、いい人なんだな」
一輝は直人を見やり、またファイルに目を落とした。
「いい人かどうかわからんが、鷺宮にはめずらしいタイプだな。聖とは正反対、見るからに気弱そうな男だ。しかし鷺宮のひとりには変わりない。完全に信用することはできないね。会っても警戒を怠るなよ」
「でもそいつ、よくここにあるって知ってたな。だってあんな奥にあったファイル、ふつうは気づかないだろ」
直人はひとつの棚を見るだけで目は乾き首も痛くなり、目を凝らして奥まで覗き込むことは思いつかなかった。このファイルも、ここだと言われなければ見落としただろう。
「あいつもここに来ては、これをよく見ていたらしい。シグマとおなじタイプHの、ファイの担当者だからな」
「ファイってなんだよ。オレ、知らない」
一輝は驚いた表情で直人を見たが、すぐ納得したようだ。
「わからないのも当然だな。いいか、タイプHにはシグマとファイがいる。その髪はおまえだけじゃないってことだ」
「ふうん。ほかにもいるのか。ファイってどんな奴なんだろ」
「ファイのことは家に帰ってから話す。今はシグマの話だ。シグマを担当する研究員は、シグマの記録をここに隠していた」
「なんでわざわざ」
「聖に見せないためだ」
直人はきょとんとした。
「どういうわけか聖は、開発時からシグマに執着していたらしい。担当した研究員は聖にシグマを横取りされるのを恐れ、ここにデータを残した。ファイを開発担当している遠野にだけ、こいつの場所を教えたらしい。つまりこれは聖の知らないシグマのデータ、おまえのほんとうの成長記録ともいえる」
差し出された記録を、直人は奪うように取った。
しかし開いてすぐに断念する。黄ばんだ紙には、英文が書き殴られているだけだったのだ。
一輝は笑いをかみ殺してファイルを取り返した。
「読めないだろうな。見ても書かれているのはドイツ語だ。見せてみろ」
「なんでドイツ語なんだよ。一輝は読めるのか」
「これは見たところカルテだな。昔のカルテはドイツ語で書かれていたんだ。患者に見られても解読されないから。それでも用語を一度覚えてしまえば、カルテくらいはなんとなく解読できる」
一輝はぱらぱらとめくっていき、一カ所をひらいて止まった。
「そういうわけか。どおりで遠野が固執するわけだ」
「なんだよ、おまえばかり。教えろよ」
「おまえの父親は遠野だ。母親はミサキ、か。これを書いた担当者とおなじ名前だな。つまりおまえは、鷺宮の研究員夫婦の子供ということだ」
言われた直人は、首をかしげる。鷺宮の研究員の間に生まれた子供、だからどうだというのだろう。
トオノもミサキもどこかで聞いた気がしたが、それだけだった。実の親の名を知ったところで感動も浮かばない。写真らしいものもあればなにか感じるものがあるかもしれないが。
一輝が感嘆した。
「直人おまえ、よく生きてるな」
「どういう意味だよ」
「シグマは誕生してすぐに実験開始している」
「実験」
しかしまだ直人には、他人事の雰囲気がただよっていた。
「薬と電流が多いな。みろ、この回数。頭髪の反応目的なんだろうが、相手は新生児だぞ。心停止した人間にやることを生まれて間もない赤ん坊にやっている。即死してもおかしくない」
「あまり聞きたくない話だな」
他人事とはいえ、赤ん坊にとか、死んでもおかしくないとか。
「しかしこれは、いくら鷺宮の研究員とはいえやりすぎだろう。いや、これが鷺宮か」
「一輝、もういいって」
止める直人を、一輝はひとにらみした。
「直人。いいか、これが鷺宮だ。新生児に電流だの麻薬だの、異常だ。それも自分の子供に、何度死にかけさせた。シグマはミサキの血を引く子供だぞ。ふつう、母親が我が子にここまでやるか。人間の親とは思えない。いや、我が子とも思っていない。これでよくわかった。鷺宮は子も親もすべて実験対象にする、鬼畜以下の集まりだ」
直人はそこではじめて、腹の底から悪寒が走った。
シグマはミサキの血を引く子供だぞ。ふつう、母親が我が子にここまでやるか。
はっきり言われてはじめて、血のつながった親が自分に死んでもおかしくないことをやっていたと理解した。
力が抜けてへたりこむ。
「そんなことしていたのか」
「ああ。薬と電流をつかってなにかショックを与えようとしているのがよくわかる。反応はマイナスばかりだが。栄養は点滴のみで、ミルクのひとつも与えていない。これで生後一ヶ月。信じられないね」
直人は説明を聞きながら、鷺宮のことをわかっているつもりでも、つもりだけだったと気づいた。
常川の家で、あたたかな両親とやさしい奏に囲まれて生きていた。自分だけ血がつながっていない事実に孤独感を感じたり、どこかにいるだろう実の親がどういう人間なのか、考えたことも何度もあった。
しかし、自分を捨てた親でも、体温さえ感じられないような人間じゃなかった。生まれてすぐに実験開始とか、薬とか電流とか点滴とかする人間じゃなかった。
一輝の言うとおり、親とは思えない。そして彼らは、実の子供とも思っていない。でなければ電流なんか流せるわけがない。実験なんかできるはずがない。
「生き残ったのもあるが、生かしてきた、という感じだな。意識レベルが戻ったらすぐに実験再開。薬と電流、あとは、これはなんだ。読めないがろくでもなさそうだな。反応プラスが出てきたあたりで記録は途切れている。生後一年半くらいか。ここまでだな」
ふいに、ホルマリンの瓶に目が止まった。腹を切り開かれたネズミの死体が入っていた。
そうだ。シグマはあれだ。
シグマは実験用のハツカネズミとおなじだ。実験のために死なない程度に飼われていただけ。生まれたときから、いやその前から実験体だったのかもしれない。
実験体。それが自分の正体。
「立て。直人」
一輝がつめたく言った。手を貸すわけでもなく、なにかしろと指示をするわけでもない。あいかわらず、ただ、立つことを要求してくる。
しかし直人は立ち上がる素振りすらできなかった。立てなかった。
「はやく立て。帰るんだろう」
「帰るって、どこ」
言い終わらないうちに、直人の脳天にファイルの背表紙が落とされた。
「おまえの家に決まっているだろう!」
おまえの家。
家。
自分の家って。
言葉を追いかけるように、明るくやわらかな雰囲気をもって、記憶がよみがえってきた。
自分の、家。
いつも陽が射す、緑の多い明るい喫茶店「グリーンフォレスト」。そこで待つ奏が自分を見つめて、うれしそうに笑う。
「ああ、そっか。帰るんだっけ」
一輝のためいきが降ってきた。見上げると、呆れたように笑っている。
「いいか直人。過去にとらわれるな。引きずられてもダメだ。潰されるなどもってのほかだ。過去は現在に無力だ。しょせんあったこと、それしかない。そう覚えておけ。それと」
ふたたびファイルの背表紙が、とどめだと言わんばかりに頭に落ちた。
「いってえ!!」
「過去にとらわれている暇があるなら、今やるべきをしろ! 落ち込みたいなら、家に帰ってからいくらでも落ち込め。いいな。これらをおまえの単細胞の頭に刻んでおけ」
「わかったよ」
「わかったらはやく立て。ほら、持ってろ。まだいくつかある」
頭をさすって立ち上がると、タイプHのカルテが手元に置かれた。すこし遅れて次が重ねられた。ためいきが漏れる。
「一輝ってほんとに」
「なにか文句あるのか」
つめたい目つきに、首をふる。
落ち込むヒマすら与えない。一輝はほんとうに、容赦がない。
視線を落とすと、自分の生い立ちと、おなじ実験体の仲間の記録がある。
なにも知らなかった。
鷺宮研究所の存在も、自分が実験体だったことも、なにも知らずに生きていた。朝起きて、学校に行って、店を手伝って、風呂に入って寝ていた。きっと鷺宮を脱出して家に帰って落ち着いたら、また朝起きて、学校行って、店を手伝って。そんなふうに、知らなかった頃とおなじ日々をくりかえすんだろう。
いや、ちょっとまて。おなじか。
ちがう。
ぜんぜんちがう。
おなじ日々かもしれないが、まったくちがう。
そもそも鷺宮の実験体だった自分なのだ、鷺宮を出てもふつうに生きて過ごせるはずがない。ここを知る以前のように、常川直人として平気な顔で日々を過ごせるはずがない。あまりにもいろんなことがありすぎた。それを忘れて過ごせすはずがない。
じゃあ、家に帰ったあとのオレはどこに行けばいいんだろう。どこも思いつかない。
そもそも家に帰ったオレは、鷺宮を知らなかったときとおなじ、オレなんだろうか。あの頃の常川直人なんだろうか。
ちがう。実験体だったオレが、ふつうに生きて過ごせるはずがない。
そんなふつうじゃない奴に生きる意味なんてあるのか。ないんじゃないのか。
だけど、意味はなくても、オレは生きてる。ここにいる。
じゃあ生きていていいのかもしれない。
だけど、生きているなら、オレはなんなんだ。
常川直人でもない、シグマでもない。ここにいるオレってなんなんだ。
「タイプH、シータ。これも持っていけ」
「オレってなんなんだろう」
「いきなり、なんだ」
直人はぼんやりと一輝を見返す。
「だってさ。実験体だったんだろう、オレ。じゃあここを出たあと、生きる意味ってあるのか」
「そうか。わかった」
「うあっ!?」
直人が聞き返すよりはやく、一輝は直人の目を片手で覆ったかと思ったら棚に直人を押しつけた。サバイバルナイフを直人の喉元にあて、刃のつめたさに直人は声を上げた。
「やめろ! なにすんだっ!」
「なんだ、違うのか。残念だな」
拍子抜けした声をともに、直人は一輝から開放された。死にかけたほうは安堵の息を漏らし、殺しかけたほうはナイフをさも残念そうにしまう。
「死にたいなら、とっとと叶えてやろうと思ったのに」
「それは一輝だけだろ。だいたい、なんでそうなるんだよっ」
「生きる意味はないと言って自殺するパターンが多いからな、おまえもそうかと思っただけだ。こっちは愚痴につきあうのは面倒だし、くよくよ悩むのも苦しいだろう。じゃあひと思いに、と思わないか」
いじわるそうに口元が上がる。
「思わねえよ。ああもう、ぐちゃぐちゃだ」
「生きる意味がなんだ。そんなもの、生きていけばいずれわかる」
直人はカルテを集める手を止めて、ゆっくりと一輝を見た。自分の知っている人物で誰よりも一番おおく歳を重ねている者の言葉は、どこか静かに感じた。
「直人、おまえの疑問は哲学だ。哲学にこれという正解はない。コギト・エルゴ・スム(我思う故に我有り)、人間は考える葦である、いろいろ言われているのは知っているな。しかしこれは万人に当てはまらない。そいつがそう結論づけただけだからだ」
一輝は足元のカルテを直人に渡す。
「ただな、これらには共通点がある。どいつもこいつも結論を出すまで生きていた、ということだ。わかるか」
「生きるしかないってことか」
「そうだ。直人なりの結論が出るまで、生き恥をかいて、みにくい姿をさらしていけ。墓穴を掘って笑われて蔑まれて、どこまでも無様に生きてみろ。いつかかならず結論に行き着く」
あまりの言葉の羅列に、直人はうすら笑いが浮かんだ。
「ひどいな、それ」
「そうか。だけどな、これが一番まともな生き方だ。おまえみたいなガキには気づかないかもしれないが、オトナは誰もがやってることだ。おまえを育てた親も、奏さんも静子さんも、おまえの学校の教師も。俺だってそうだ」
「ホントかよ」
苦笑する。
第一、信じられなかった。奏、シゲちゃん、一輝や担任を考えてみても、皆墓穴とはまったく縁がない人物像だ。
「それでも生きる意味が見えてこないときは」
とん、とピンバッジをつつかれる。
「こいつらに聞け」
かるい金属音を立てたふたつに、どこか「そうだよ、直人」と言われた気がした。
「よし。つぎは俺のほうだな。見つかるまで持ってろ。俺のものとまとめてシュレッダーにかける」
直人の身体がこわばり、一輝はその肩をかるく叩く。わかった、とうなずく直人を置いて、一輝は棚の間を歩いていった。
直人はどこか呆然として背中を見送った。
これをシュレッダーにかける。
そう言われて、動けなかった。自分でも信じられない。
自分は、手元にある過去の記録をなくしたくないと叫んでいる。
鷺宮にいた痕跡を消さねばならないとわかっているのに。
消したくない。手元におきたい。だってオレの記録なんだ、オレが嫌ならシュレッダーにかけなくてもいいだろう、一輝。そう言いたくなっている。
オレはこれを消したくない。どれだけひどい内容だろうと、読みたくないものだろうと、自分自身が存在した証だ。読めない文字の向こうから、生まれて間もない自分の泣き声が聞こえてくるんだ。カルテ越しに、自分にしがみついてくるんだ。
だからといって、今のオレが過去をどうすることもできないことくらい、わかっている。
カルテを消さなければ自分の身が危うくなることもわかっている。
それなのに、ためらう。
この形のまま、誰にも見つからない場所で保存できないかと思いはじめている。
「直人。こっちだ」
呼ばれて、直人はあわてて追った。
なあ、一輝。おまえは痕跡を消せなかったせいで鷺宮に追われていたから、あっさり「消せ」と言うんだろうけど、おまえは自分の痕跡を消すときは、オレのようにためらったりしなかったのか。
あっさり消せるものなのか。
どうなんだ、一輝。
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