アフターグロウ レベル3 奪還

羽風草

1 境界

 積んであったゲージが音をたてて崩れ、直人は顔を上げた。はやく行け、と叱られた気がした。ぐっと涙を拭うと、三人に手を合わせる。

 ありがとうございました。

 ここで泣いている暇はない。聖に気づかれるまえに奏と一輝を助け出し、鷺宮から脱出しないとならない。

 立ち上がろうとして姿勢を崩した。膝に力が入らない。胃はねじれそうな痛さとともに吐き気もこみあげ、目が勝手に食べ物をさがした。視界の隅に、かごに入った猿の死骸を見つけたが、それさえも食べられるかと考えた。巡査と円が感覚を抑えていたと言っていたが、このことか。

「ちく、しょ」

 直人は立ちあがることもできず、床に手と膝をついて身体を支えながら瓶のあいだを通っていった。弱々しい握力で鍵を開けてノブをつかみ、なんとか二度目で押し開けると、ドアの向こうからほこりを多量に含んだ空気が流れ込み、直人を襲った。

 全身を使って立ち上がり、暗い通路を壁にもたれかかりながら進む。腹はへりすぎで痛いほどだし、頭はふらふらして視界がうまく定まらない。これでは、いつまた動けなくなるかわからない。

「わっ」

 壊された器材のようなものにつまづいてバランスを崩したが、転ばずにすんだ。通路はほこりまみれで足元は暗く、障害物もわからない。胸元のピンバッジを握りしめ、落としていないことに安心する。ひとりで行けるのか不安がよぎったが、三人のあたたかみがピンバッジに残っている。このまま行けばいいんだよな、巡査。

 もう一度言うぞ、直人。ここを出るとみじかい通路になっている。そのつきあたりが研究室だ。研究室に入って右手に、その研究室の入り口があるから、そこから廊下へ出ろ。そのまま右に三つめの研究室だ。いいな、間違えるなよ。

 どうしてそこかというとね、直人。そこの研究室の通気口が一番出口に近いから。一本道のほうがわかりやすいでしょ。何番目の研究室かまちがえなきゃ、あとは簡単よ。

 きっとだいじょうぶだよ。行けばわかると思うよ、ボク。ここの研究室のドアは閉めてきたけど、あとは来たときのまま、壊れていたり開いていたりしてるから、目印になるよ。それに、ちょっとくらい間違っても直人なら行けるよ。だいじょうぶ。がんばってね、直人。

 直人はまた一歩進んだ。


 短い距離をゆっくり歩いてきただけなのに、全力疾走でもしたかのように息が上がっていた。しかし、やっと辿り着いた。

 ドアを開けると、ほこりとクモの巣に覆われた研究室があらわれた。直人が想像していた様子とはすこし違っていたが。

「なにがあったんだ、ここ」

 研究室はまるで荒らされた墓穴のようだった。機械や薬品、紙が乱雑に散らされていて、非常灯にぼんやり照らされていることで、より不気味さを浮き上がらせていた。

 ふらつく足取りで見上げたホワイトボードもほこりで白く、変に歪んだ面には銃弾痕らしいものまであった。羅列するよくわからない数式の一部に「シグマ」と書かれており、直人はおもわず身を退く。

「わっ」

 とたんに紙で足をすべらせて派手に転んだ。ほこりが立ち上り、しばらく咳き込む。

「いってえ。ちくしょう」

 立ち上がろうと手をついたが、ガクガクとふるえるだけで、それ以上力が入らなくなっていた。立てないのかよ、おい。動けないのかよ。ここで終わりなんて冗談だろ。行かなきゃならないんだよ。しっかりしろ、立てよ。しかし直人の想いとは裏腹に、足も腰も立ち上がろうとしない。どうしよう。

 気は焦り、聴力ばかりが集中する。遠くでなにか硬い物を壊すような音と、吠える犬の声をひろう。空耳だ。こんなところで犬がいるわけがない。息が上がり、鼓動がせり上がってきた。もう動けそうにない。もうだめか。

 そこまでか。笑えるな。

 一輝の冷めた一言が、直人をとらえた。

 もちろんここに一輝がいるはずはない。記憶から聞こえたものだ。

 しかしそれは確かに、直人のこころをとらえた。

 直人が行き詰まったとき、奏は笑い飛ばしてなぐさめるが、一輝は冷たく突き放す。

「そこまでか。笑えるな」

 そう言い放って、背中を向ける。期待も同情もない突き刺すような挑発に、直人はいつも突き動かされていた。

 はじめはそういう一輝を憎んだ。止まってしまう弱さ、甘えを見透かされた気まずさ、いやなものばかり認めさせる、人のこころがわからない嫌味で冷たいヤツだと思った。

 しかしじきに、そうではないと気づいた。一輝は直人が解決策を出せない時は、なにをやってるんだと言いながら手を貸してくれた。嫌味で冷たいのではない、信じて激励しているのだ。

 今、記憶の一輝はつめたく笑い、直人に動けと顎で指す。

 ということは、まだ動ける証だ。

 直人は手足にぐっと力をこめた。身体がゆっくりと持ち上げられる。

「く、そっ」

 立てた。

 身体の芯は震えていたが、動けないわけじゃない。トレーニングをしていた成果が出ているのかもしれない。

 一輝が口端を上げた。

 はやく行け。

 ああ。今、行く。


 ドアに辿り着くと、廊下から男の怒鳴る声が、今度ははっきりと聞こえた。硬いものをたたき壊す音と、負けじと吠え立てる犬の鳴き声もする。空耳じゃなかったのだ。

「まだか!! たかが壁一枚、なにを手こずっている。はやく壊せ!!」

「もうすこしです」

「おまえら、いいか! シグマが出てきても殺害はするな! 手足が多少もげたって構わないが、生かして捕らえることが前提だっ。もちろん第二部隊のように全滅なんかするわけがないっ。かならず俺たちの手でシグマを捕らえて、聖サマに突き出してやれ! いいな!!」

 大勢の男たちの返事を聞きながら、直人は血の気が引いた。やばい。予想していなかった。こっちは手ぶらだし、髪も動かない。どう切り抜けていけばいいんだろう。

 壊ス……。

「やめろ」

 奥の奥から聞こえたシグマの声に、直人は強くつぶやいた。悪寒を感じつつわき上がってくるなにかを全力で抑え、歯を食いしばる。

 おまえ、まだ居たのか。

 シグマはにたりと笑った。

 ワタシハ消エナイ。オマエノヨウニ。

 消えろ。

 敵ダ。壊セバイイ。ゼンブ、ゼンブ、ゼンブ壊ス。行コウ。サア。

 シグマ、やめろ。

 楽シイゾ。オモシロイゾ。

 ふざけるなよ、シグマ。あんなのはおもしろくも楽しくもない、ただの人殺しだ。オレはあんなことしたいとも思わない。

 イイヤ。知ッテルゾ。

 なにを。

 オマエモ同ジダ。

「うるさい黙れ!!」

「声が聞こえました! 居ます!」

 直人はあわてて口をつぐみ、シグマはいやな笑みを残して沈んでいった。直人は唇を噛んだ。シグマがまだいたのか。だけど引っ込めることはできるようだ。それなら、いい。いつかオレの手で消してやるまでだ。

 男が作業を早めるよう叫んだ。居場所がばれたら一斉に飛び込んでくるだろう。かといってここにいても埒があかない。このまま研究室に隠れたとしても、犬からは逃げ切れない。シグマを出すことは論外だ。じゃあ、どうする。

「崩れます!」

「よし! 総員、突入準備!」

 直人は深呼吸をして腹を括った。行くしかない。

 意を決して廊下に飛び出すと、左方向で壁が崩れ落ちた。もうもうと立ち上がるほこりが視界を遮り、直人は一瞬方向を見失う。

「まだ撃つな!! さきに犬だ、犬を放せ!!」

 ほこりの向こうから、影がうなり声を上げながら飛び込んでくるのが見えた。来た。ほこりのなかから、ターゲットを噛み砕こうとするどい牙を剥いて、まっすぐ直人に飛びかかってくる。もう目の前だ。直人は身構えた。

 ギャンッ

 突然、目前の犬が悲鳴を上げて、その勢いのまま直人の懐に飛び込んだ。直人は犬ごと床に倒されて転び、犬は腹の上でけいれんを起こして息絶えた。見ると犬の後頭部に、太い矢のようなものが刺さっていた。これはボウガンだろうか。

 さらに続けて二頭のシェパードがほこりの向こうから飛び出してきたが、やはりどちらも身体をボウガンで射抜かれており、そのまま床にすべっていった。

「な」「ぐあ」「ぎゃ」

 煙のむこうでは男たちの悲鳴が次々と上がっていた。ほこりに咳き込みつつ目を凝らしたが、なにもわからないが、なにかが男たちを撃退してくれているのは確かだ。救いの手かと思ったが、なぜか全身が総毛立った。シグマが緊張しているのがわかる。それほど、あの向こうにいるなにかは、やばい気がする。

 直人は犬の死体をよけて、研究室に戻った。ここはドア脇に身をかがめて待つことにした。相手が来たところで脇をすり抜けるように逃げたほうがいい。

 じきに廊下は静まり、足音がひとつ、近づいてきた。なにかを蹴りよけながら、こつこつと足音だけが響く。直人は咳をおさえつつ、祈るように息を潜めた。

 足音は壁一枚向こう側で止まった。だいじょうぶだ、オレは切り抜けられる。

 ドアが開いた。入ってきた黒のスラックスからして、部隊の人間ではないようだ。しかし直人は、裾にはねた血に目が離せなくなった。あっというまに撃退したらしい人間にシグマを重ねる。感情を見せずに人間を殺していったシグマのように、こいつも部隊の人間を殺してきたのだろうか。そうだとしたら、まずい。自分は逃げきれるだろうか。いや、逃げなければ。通り過ぎた。今だ。

 直人は相手を見あげた。

 同時に相手も直人を見おろした。

 薄紫の瞳が、一瞬笑った。

「なにやってるんだ」

 一輝は顎で廊下を指した。

「かくれんぼはもういい。行くぞ。気づかれる」

「あ、うん」

 直人は一輝を追おうとしたが、なぜか手足に力が入らず、その場にへたりこんでしまった。一輝がなにか言いかけたとき、直人の腹が豪快に鳴った。何度も立てなくなった理由がやっとわかった気がした。そういうわけか。

 気まずそうな直人に一輝は舌打ちすると、直人の手首を乱暴に取った。間をおいて、直人は体中が熱くなるほど力がわき上がったのを感じた。今なら全力疾走もできそうだ。

 一輝はそのまま手を引いて直人を立たせて放し、だるそうに息をつく。

「これで多少動けるだろう。行くぞ」

「え。まさか」

 直人は、一輝は生気を吸い取るだけでなく、注入することもできると聞いていた。つまり今のは。想像するだけで身体の奥から悪寒が走った。

「今のが生気ってやつ!? オレに入れたのか!? おまえ、なにすんだよ!! うわあ、な、なんか気持ち悪い!」

 直人の頭に一輝の拳が入った。

「こちらも非常事態でなければ頼まれたって断る。いい迷惑だ」

「それじゃ一輝はなにしに来たんだよ。迷惑なら来なくてもいいだろ。そもそもオレはあの時、一輝を」

 言いかけたところで喉が詰まった。

「なんだ」

 怪訝顔に、言葉を絞り出した。

「あのとき、殺した」

 間をおいて、一輝は納得顔でうなずいた。

「ああ、あれか。そうだな。直人、おまえには幻滅した。いったいなんだ、あれは」

 不快感をあらわにした口調に、直人はうつむいた。責め苦に顔をあげられない。

「やっと殺してくれるかと思えば、期待はずれもいいところだ。あれくらいで俺が殺せるか、このヘタクソ。殺した? じゃあここにいる俺はどう説明する。そもそも殺したと言いきるなら、ちゃんと殺してから言え」

 直人は予想外の言葉に戸惑った。おそるおそる見た顔は、不快そのものといった表情なのだが。

「え、いや、その。ええと」

「なんだ、気にしていたのか。ガキだな。俺には戦闘演習であったことなど、死にそびれた事実ていどしかない」

「そのていどって」

「まったく、聖の戦闘教育も底が知れるな。てきとうに切り刻んで終わりにするなど、子どもでもできる三流のやり方だ。つくづくあきれる。まずセンスというものがない。世話になった礼に、ほんとうの戦闘を聖に叩き込んでやるか。それでヤツも多少は学ぶだろう」

「一輝」

「それよりも、直人。俺はおまえに、聖に捕まるなと言ってあったはずだぞ。それがなんだ、このザマは」

「ええと、その、オレもよくわからないっていうか」

 口ごもる直人に、一輝は怒りに顔を歪ませた。

「わからない、だと。なんだそれは。言われた事を守るくらいできないのかっ」

 耳が痛い。

「いいか。帰ったら一ヶ月間、レジに立ってもらうからな。奏さんが止めてもぜったいにやってもらう。覚悟しておけ」

 直人は一輝の要求をぼんやりと考えた。実際、直人は客と会話をしなければならないレジが一番やりたくない仕事だから、それなりの罰当番になるだろう。しかし。

「返事は」

「一輝」

「なんだ」

「それでいいのかよ。だってオレ」

「物足りないなら半年に延長するか」

「いえ、いいです」

「きっちりやってもらうぞ、いいな。なに笑ってる。ずいぶん余裕じゃないか」

「笑ってない」

 しかし言葉とは裏腹に、直人は笑いがこみ上げていた。シグマが一輝にしたことは、自分なら一生許さないと責めるかもしれないのに、当の被害者はまったく責めない。へんなやつ。

「はやく行くぞ。俺はおまえを鷺宮に残していく気はさらさらないからな」

「それって」

 直人の視線を感じたのか、一輝はむっとする。

「おまえのためじゃない。俺のためだ。出て、今度こそ約束を果たしてもらうぞ」

「一輝ってへんなやつ」

「おまえもそうだ。怒られて笑うなど、神経を疑う。ほら行くぞ。また途中で倒れたら生気を入れてやる。それが嫌なら自力で歩け」

 一輝が直人の胸元に目を止めた。

「なんだそれは。鷺宮のものは外せ、足がつく」

 視線の先の元を認めて、直人は首をふった。

「いや。これは友達のだからだいじょうぶだと思う。培養室でもらったんだ」

「誰かいたのか」

「たすけてもらった」

 視線を研究室の奥に転じる。培養室への扉は開いたままになっていた。

「もう誰もいないけど。なあ、一輝。ここって何なんだ」

「話によると、ここはシグマをつくった研究員の研究室だそうだ。聖の手でもみ消されていたようだが、このありさまなら納得だ。ヤツが荒らしたんだろう。培養室は研究室の倉庫にあたる。だいたいの研究員は研究対象の成れの果てを放り込んでいってたな。おもちゃに飽きたら放り込む納戸みたいなものだ」

 成れの果てと聞いて、直人は唇を噛む。

「うん。そのとおりだ」

 涙がこみあげるので、うつむいた。泣き顔は見せたくない。

「みんな、ふつうの人だった。巡査は記者やってたって言ってた。円はバーで歌う仕事をしてたって。ソラはオレとおなじ学生でさ、事故に遭って、気づいたらああなってたって。あんな状態なのに、みんなでオレをたすけてくれて、脱出の通路も教えてくれたんだ。これはソラと巡査のやつ」

「そいつらはどうした」

 だめだ。涙が、抑えられない。嗚咽が混ざる。頭を左右に振るのが精いっぱいだ。

「オレ、最後にブレーカー、落としてきた。頼むって、やってくれって、言われて」

 頭に、ぽん、と手が置かれた。

 手はやさしくいたわるように、何度も。ぽん、ぽん。

「一輝、どうしたらよかったんだろう、オレ。ホントは一緒に出たかったんだ。でもやめてくれって。ダメだって。オレ、あんなに助けてもらったのに」

「それでいいんだ」

「一輝」

「いいか、直人。意識が残ったまま素材になるほどの苦痛はない。彼らも死ぬことができて安心したはずだ。苦痛から開放されたんだからな。おまえはよくやった」

「でも」

「死ぬ前に彼らはなにを言った。恨まれたり憎まれたか」

「ありがとうって」

 ありがとう、直人。そう聞こえた。

「そういうことだ。あったことを覚えておいてやれ。それが手向けになる」

 直人はうなずいた。


 直人は倒れている武装した死体と瓦礫を避けながら、一輝のうしろをついて歩いた。一輝が来た道を戻ることにした。通風口も使わない経路があるらしい。

 ちくしょう。許せない。許さない。歩きながら直人は、頭の奥が熱くなるのを感じていた。これほど心からなにかを憎く思ったことがあっただろうか。

 聖。鷺宮。許さない。ぜったいに許さない。自分がされたことではなく、ソラたちにしたことが許せない。ソラがいったいなにをした。円は注意しただけだし、巡査は気づいただけだ。それなのに、鷺宮はなにをした。あの三人になにをしたんだ。

 今は無理でも、いつか鷺宮のすべてを壊してやる(壊シテヤル)。ぜったいにだ。

 シグマが直人の中のはるか奥で顔を上げたが、直人はシグマを抑えなかった。ふたりは同時に叫ぶ。

 すべてを壊してやる(ゼンブ壊シテヤル)壊してやるぞ、鷺宮!

 肩越しに直人を見ていた一輝が、目を光らせて口端を上げた。

 いい顔つきだ、というように。

「直人。髪は使えるのか」

 突然聞かれて、直人は戸惑った。

「なに、髪。いや、ぜんぜん」

「役立たず」

「うるせ」

 一輝が直人になにかを放り投げた。思わず受け取ったが、ボウガンだと知るや驚いて床に落とす。

「おいっ、なにすんだよ。これ、犬に使ったヤツだろ」

「そうだ。俺があいつらから借りて狙撃した。赤外線スコープも使ったから、直人もよく見えた。よけて撃ったつもりだが、ああ、もしかしてあれで怖くなったか」

「そうじゃねえ。武器だぞ」

「そうだ、武器だ。髪も使えないくせに、この先を手ぶらで行くつもりか。拾え。死ぬぞ」

「死んだって持ちたくないね」

 頑に拒む直人に、ふ、と一輝がほほえんだ。

「確かに、おまえはシグマではないな」

「え」

「受け取れ。奏さんから、直人に渡してくれと頼まれた」

 それはちいさな髪ゴムだった。直人はせつない想いとともに、手の中におさめる。髪ゴムは直人の日常の象徴であり、自分と奏をつなぐ物だった。幼いときから、なくなればかならず奏が持ってきてくれた。

「奏さんに、直人を連れて帰ると約束した」

「姉ちゃんは」

「奏さんは元気だ。俺を助けた研究員の研究室にかくまわれている。素材にされる前に救出された」

 ソラの言ったとおりだったんだ。

「ああ、言っておくが、奏さんはシグマが俺にしたことを知っている」

 直人が青ざめていくのを、一輝はにやにやと見た。

「奏さんの居たところへ、シグマにずたずたにされた俺が運び込まれた。治療中の俺を見ているうえに、シグマとおまえの関係も聞いた」

 直人は立ち尽くした。奏に知られている状況を、考えてもいなかった。

「その上で奏さんは、おまえを連れて帰ることを選んだ。保護した研究員はおまえを引き取るつもりらしいが、奏さんも、直人は直人だ、シグマなど関係ないと言って譲らない。俺は、さっき言ったとおりだ」

「そう、なんだ」

「おもしろい姉弟だな。どうした」

 直人は髪ゴムを一輝に差し出した。

「オレ、帰れない」

「おい」

「だめだ。帰れない」

 驚く一輝に、直人は首をふって拒んだ。

 会いたい。だけど帰れない。

 すべて知っていることを前提に奏が待っているとしても、奏に会うことはできない。前にも一輝とこういうやりとりをしたかもしれないが、その時とはまた違う理由で、会えないと思った。

 オレはオレとして、常川直人としてここにいる。

 しかしシグマの声を聞いた。気配まで感じ取った。

 シグマは、自分のなかにいる。

 それなら、今ここに立っている自分はどっちだ。常川直人なのか。シグマなのか。もしもシグマなら、どうしたらいいんだ。

「直人」

「帰れない。だってシグマが」

 一輝は見透かしたように言った。

「おまえがシグマかどうかは、俺がわかっている。おまえは直人だ」

「なんでそう言いきれるんだよ。保証なんかないだろ」

「保証か。ほら」

 一輝は腰のあたりからおもむろにサバイバルナイフを抜いて、直人に渡そうとした。直人は蛇でも見たかのように逃げる。

「うわっ、なに持ってんだよ、おまえ。やめろよ! はやくしまえ!」

 一輝はくすくす笑ってナイフをおさめる。

「それが証だ。シグマなら喜んで取るだろうが、直人ならば多少見慣れたとしても、武器というものはさわるのも嫌なはずだ。覚えてるか。鷺宮に来たとき、俺に戦うなと言ったんだぞ、おまえは」

 うるせえな、と直人はばつが悪そうにつぶやいた。

「わかっただろう。それがおまえだ。常川直人だ。よかったな。さっき、おまえがシグマになっていたらここで死んでいた」

 直人は驚いて一輝を見返す。

「わかってたのか」

「気配がまるで違う。シグマは殺気を抑えない。遠野も言っていたが、確かに以前の直人とは違うな。見たことのない、いい顔つきだったぞ。あの調子で俺を殺しにこい」

 だけどな、と言葉をつなげる。

「奏さんとの約束は、直人を連れて帰ることだ。シグマなんか誰が連れていくか。死体にして鷺宮にくれてやる」

 直人はだまって聞いていた。

「おまえに言っておく。今は直人でも、帰ったあとでシグマになったときは、俺がひと思いに殺す。それも奏さんの知らないどこかでだ。反論は受け付けないぞ。おまえは直人だ。シグマじゃない」

 一輝の真剣な表情に、直人は泣きたくなった。

 それはすべて、直人がいつか一輝に頼もうと思っていたことだった。このまま無事に戻ったとしても、いつまたシグマになるかわからない。その時、シグマを抑えられなかったとしたら、どうなる。殺戮を好むシグマから奏を守れる保証はどこにもないだろう。

 だけど一輝が止めてくれるのなら、きっとだいじょうぶだ。一輝はいつも自分と奏のそばに居る。自分が完全にシグマになってしまったとしても、一輝なら奏を守ることができるだろう。さらに奏に知られないうちにどこかで死ねるのなら、それ以上ありがたいことはない。

 直人は頭を下げ、一輝はうなずいた。

「いいんだな。シグマになったら問答無用で殺すぞ」

「頼む」

「よし。それで、どうする。まだ帰りたくないか」

 直人はもらった髪ゴムを指にかけると、伸びたままの髪を一本にまとめた。長い尾を下げているようになったが、これで視界の邪魔にはならない。それだけでも自分に戻れた気がした。

「帰るよ。姉ちゃんと一緒に」

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