8 空

 直人の寝顔を見ながら、ソラはうつむいた。直人がすぐ目の前にいる。手をのばせばさわれそうだけど、のばす手もない。胸が苦しくて泣きそうだけど、この身体は涙は出ない。それがむしろよかったような、悲しいような。

 明日、直人は培養室を出ていく。予定より一日早まったが、直人の立ちくらみが止まらないことを知って、巡査が強引に決断した。今日は通ってきた経路を頭に叩きこんだところで疲れきり、休息となった。直人の限界が近いのは、ソラから見てもあきらかだった。巡査の決断は正しい。引き止めてはいけない。

 ソラはためいきをついた。直人が起きたら、あるスイッチを切るという大事な用事を頼むことになっている。指先ですぐできる、ほんのささいな仕事であり、そのスイッチを切ることはソラも願っていた。なのにどうしてこんなにも胸が苦しくなるんだろう。泣きたくなるんだろう。

 巡査がいたわるように頭をすり寄せてきたので、ソラはうなずいてみせた。

――わかってる。だいじょうぶだよ、巡査。直人を止めたりしないから。

――俺や円はやってもらうことに未練も後悔もない。でもソラ。ほんとうにいいのか?

――これ以上直人に重荷を背負わせたくない気持ちはわたしにもあるわ。だからソラちゃん、嫌なら嫌って言ってもいいのよ。

 直人に頼む事は前もって相談していたことだった。しかし賛成したソラの返事にためらいがあったことを、おとなのふたりは気づいていたのだ。

――え、どうして? ヤじゃないよ。ぼくも巡査や円とおなじで、未練も後悔もないよ。また待つほうがずっとヤだし。ただ、ちょっとだけ……。

 胸が痛くて苦しい。

――直人と、もう会えなくなるなあって。

 そうね、と円がなぐさめるようにつぶやいた。


 ソラは寝返りをうつ直人をじっと見つめる。

 直人。あのね。

 ぼく、はじめて直人のことを聞いたとき、直人のことが大嫌いだって思ったんだよ。おなじ実験体なのにシグマは外にいて、ぼくはシグマが生まれる前からこんな姿で檻のなかにずっといて、シグマだけずるいって、すごく怒ってすごく泣いたんだ。どうせシグマも聖みたく悪魔みたいな奴に決まってる、大っ嫌い、会ったら殺してやるって思ってたんだよ。

 だけど直人を見て、わかった。直人は直人で、シグマじゃない。

 あのね。ぼくが直人に接触したとき、直人のなかでシグマに会ったんだ。シグマは気づいてなかったけど、ぼくはシグマを見たとたん怖くなって逃げた。シグマは殺人ロボットだね。生きてるもの全部殺しちゃう奴だよ。直人はあんなに怖いシグマを弾き飛ばした。ぼくも一緒に弾かれちゃったんだけど、直人ってシグマより強いね。すごい。

 シグマより強い人ってどんな奴なんだろうって思ったけど、ふつうの男子だったからまたびっくりしちゃった。お店の仕事、一学期の中間考査、お姉さんのこと、いっしょに住んでる真田家のひとのこと。直人から教えてもらって、直人のことがよくわかった。直人はすごくいい奴だね。ぼく、お父さんもお母さんもいっしょにいたけど、そんなふうに手伝ったことなかったもん。それに鷺宮にまでお姉さんを助けに来たりして、直人ってすごくカッコイイよ。直人はそんなことないって思ってるみたいだけど。

 直人。会うまでひどいこと言っててごめんね。ぼく、直人に会えてよかった。楽しくて楽しくて、ずっとこのままでもいいやって思ったくらい。あったこと、聞いたこと、ぜんぶ忘れないよ。だから直人もぼくをーー。

 ヴヴヴキュキイイイイイ

 腹のあたりに痛みが走り、ソラと巡査は同時にうなった。モーター音が変に高くなる。身体に入れられているチューブが内部を激しく吸いこんだのだ。直人だけじゃなく自分たちも身体の限界が近いのかもしれない。

 イイイイイヴヴヴヴウヴ

 痛みが引いたあと、巡査が息を吐いた。

――ひさしぶりにキツかったな。だいじょうぶか、ソラ。

――うん。巡査もだいじょうぶ?

――おう。

 ソラは巡査と円をゆっくり見た。

 ずっと隣にいたお兄さんと、いつもやさしくしてくれたお姉さん。帰りたいって泣いたら、円は、泣いていいから最後には元気出すのよって言ってくれた。巡査は、止められなくてごめんなって言った。ぼくがどうしてこうなったのか教えてもらったときは驚いたけど、巡査のせいじゃないよって言ったら、その時だけ巡査は泣いていた。そのあともたくさん泣いたけど、楽しいこともあった。教授もおもしろかったし、教授が死んでからも巡査と円がいてくれたから、ぼくは今までいられた。

 楽しかったけど、もうすぐ終わる。

 終わるなら、話してもいいかな。

――ぼくね、ここに来るずっとずっと前から、考えてたことがあるんだ。

 巡査が顔を寄せてきた。円が楽しそうに泳ぐ。

――お。なんだ。教えてくれるのか。

――なあに、ソラちゃん。

――あのね。ぼくの夢っていうか、希望。むかし、一度だけ友達に話して大笑いされたんだ。だから話すの恥ずかしいんだけど、巡査と円にだけ聞いてほしいの。直人に言わないでね。あと笑わないでほしいの。

――笑うわけないだろ、長いつきあいなんだから。どんな夢だ。話してみろ。

――あら、いいじゃない。直人に内緒、ラジャー。さあ教えて、ソラちゃん。夢は話せば叶うのよ。

 ソラはふたたび直人を見やり、祈るように目を閉じた。

――うん。あのね。す、すごく恥ずかしいことなんだけど、ぼく、好きな人を守って死にたいなって。それが夢っていうか、憧れなんだ。

 円が歓声を上げた。

――ワオウ、ドラマティック! いいじゃない、すてき!

――かっこいいな。

――ほんとう? そ、そうかな。えへへ。

 ふたりにほめられ、ソラは黒い耳を元気に動かした。

――あのね、映画であるでしょ。好きな人がピンチで、あぶないってかばって、その人の腕のなかで死んじゃうの。友達からそんなの変、救いようがないって言われたんだけど、でもぼくはそんなことないと思う。だって好きな人の命の恩人になれるんだよ、大好きな人がピンチから救われて生き残ってることだけで、じゅうぶん救われてると思う。それで、ぼくはそんなふうに死ねたらいいなって、思ってた。

――ロマンティックですてき。いいじゃない、ソラちゃん。

――ああ。なかなかいいんじゃないか。

 ソラはほほえんだ。話せてよかった。これでいつでも、逝ける。

――しっかし、見た目によらないんだな。円はともかく。俺は、ソラは守られたいタイプかと思ってた。

――そうね。わたしもちょっと意外に思ったわ。でもソラちゃんは元気な子だから、守られてるだけじゃつまんないか。うふふ。ところで巡査、ともかくってどういう意味。

――すんません俺が悪かったです許してくださいっ!

――ねえ、やめてよ、ふたりとも。あのね、ぼくは守られるの嫌いなの。だいたい似合わないし。

――似合うかどうかは周りが決めることだぞ。で、ソラ。

――なあに。

――ソラは直人のことをどう思ってるんだ?

――え。

 間。

 とたんにソラはゲージの中で暴れ、巡査は痛がり、円は「青春ねえ」と笑い、物音におどろいて直人は飛び起きた。

「なになになんだよ、どうした!?」

――直人はいいの! なんでもないの! もう、なんで起きちゃうの!?

「起こしたのはそっちだろ」

 寝起きの心配顔がふてくされる。寝癖のついたぼさぼさの髪も、おおきな手も、ずっと見ていられたらいいのに、ずっと見ていられない。だから覚えていかなくちゃ。そしてずっと忘れないでいくんだ。

「まったく。びっくりさせんなよな」

 ぽん、と頭に手が置かれる。直人の冷えきった手の向こうにしっかりと‘直人’を感じる。いやだな、どうしよう、顔が見られない。胸が苦しい。もう、ほんとうになんで起きちゃうんだよ。

――直人。

「ん」

――直人。

「なんだよ、ソラ」

 なんだよ、ソラ。この声も言葉も忘れない。

――脱出、がんばってね。ぼくはここから応援してるから。直人ならきっとだいじょうぶだよ。

 なんだろう。本音なのに嘘でもついたみたいな気持ち。

「おう。ありがとな、ソラ」

 ぶっきらぼうな直人の返事も大好き。

 直人に笑われたくないから、ぼくの夢は言わないでおくね。だけど、夢のほんとうの理由は巡査にも円にも内緒なんだ。それは、ぼくのことをずっと覚えててもらえるから。誰だって助けてくれた人を忘れるわけないでしょう。なんでそんなことしたんだって好きな人に嫌われてもいいし怒られてもいい。ぼくは好きな人にぼくを忘れてほしくないだけ。わがままだよね。ヤなやつだね。

「ソラ、どうした」

 のぞきこむ顔をじっと見た。

 巡査は直人に培養室のことは忘れろって言ったし、そのほうがいいとぼくも思う。

 だけど円の言うとおり願いが叶うのなら、口に出せないけど、祈ってもいいかな。

「ソラ?」

 お願い、直人。

 ぼくを忘れないで。ぼくがいたことを覚えてて。みんながいたことを覚えてて。ここにいたことを覚えていて。ぼくの友達もお父さんもお母さんも、きっとぼくがここにいるなんて知らない。だったら直人だけでも覚えていてほしい。犬の姿でいいから。忘れたっていい、ときどき思い出してくれれば、それでいいから。直人、どうかここにいたぼくを

――忘れないで。

「だいじょうぶだって、ソラ。全部ばっちり覚えた。死ぬまで忘れないくらい」

 自信満々の直人に、ソラは目を丸くした。びっくりした。口に出てた。そして聞かれた。さらに返事ももらった。身体がふるえる。

 直人は笑顔でうなずいた。

「そこを出て、右に行くだろ。そして」

――ばか!

「え。おい、なんだよ、それ! ソラ!」

 怒る直人に、ソラはこころでイーとやった。直人の鈍感。


 ソラの脇から、巡査が顔を出した。

――ちょっといいか、直人。明日ここを出る時に、折り入ってひとつ頼みたいことがある。これは俺たちがずっとしたかったことなんだが、このとおり動けないだろう。それで、自由に動ける直人にしか頼めない。

 直人は身を乗り出した。

「なになに、なんだよ」

――出ていく前にあそこのスイッチを切ってくれ。場所は出口のすぐ右にある、あれだ。あれはここのブレーカーでな、切ると培養室のすべての電源が落ちる。出るときに切ってほしいんだ。

 指示された箇所を見ると、なるほどブレーカーに似たスイッチがある。

「ああ、あのスイッチか。了解、わかっ」

 直人は言いかけたまま、巡査を見やった。

 すべての電源なら、モーターはもちろん、円の水槽の機能も止まってしまうはずだ。

 つまりそれは、皆の死につながる。

 直人は深呼吸をして、巡査の前に正座した。

「巡査。嘘つかないで教えてくれ。やるから。オレ、やるから。ただ、あれを切ったら巡査たちはどうなるんだ」

――培養室の電源が落ちる。ここは真っ暗になるだろう。同時に俺たちのモーターの電源も、円の台座に入っている機械の電源も落ちる。それだけだ。

「それだけって、それだけじゃないだろっ!?」

 直人は床を強く叩いた。静かな室内に音が痛みをもって響く。

「それだけじゃないだろ、巡査」

 直人はぎゅっと目をつむった。巡査は頭を下げる。

――直人。最後の最後にすまない。そんなことしたくないよな。ほんとうなら俺がやりたかった。でも聞け。これは俺たちにとっては解放なんだ。

「だけど」

――ごめんなさい、直人。直人の手で終わらせてほしいの。お願い、ブレーカーを落として。

――俺たちを鷺宮から解放してくれ。終わらせてくれ。頼む。

――直人。

 ソラの声に直人は頭をあげ、目を見開いた。

 ソラがいる場所に黒い犬の姿はなく、ひとりの女の子が座っていたのだ。短い髪に制服姿で、いつか直人に抱きついてきた子だとすぐにわかった。彼女はゲージのなかでじっと座り、目に涙を溜めて、こちらを見ていた。ソラ。

――お願い。

 お願い、直人。もし生きて出られたとしても、生きるのは元のぼくじゃない。このまま死ぬのを待つくらいなら、直人の手で終わらせて。ぼくを助けて。

 そう言って泣く彼女の声が聞こえた。気のせいかもしれないが、確かにそう言った。

 思わず手を伸ばしたが、指先が硬いゲージに触れた。

 同時に彼女は消えた。

 彼女は黒い犬となり、哀しい目つきでこちらを見ていた。

 ソラ。

 直人は泣きたい気持ちを抑えた。

「わかった。ブレーカーだな」

――ありがとう、直人。ごめんね。

 謝るなよ、ソラもバカだな。そう言いかけたが、声にならなかった。


 直人は壊れたゲージを瓶の向こうに置いた。ゲージから解放された巡査とソラは、軽くのびをする。直人たっての願いで、室内が明るいうちにゲージを取り外したのだ。ほか、直人を囲っていた瓶は出口まで細い通路をつくっていた。

 最後のストレッチをする直人の横で、巡査があれこれ説明する。

――いいか。俺たちが死んだら、今まで俺と円が抑えていた脳神経が働くから、直人の身体に一気に負担がくるだろう。動けなくなるかもしれないし、気を失うかもしれない。それでもふんばって行くんだ。足を止めるな。お姉さんを助ける。真田家も助ける。鷺宮を脱出する。これをよく頭に叩き込んでおけ。いいな。

「だいじょうぶだって。ぜったい姉ちゃんと一輝を助けるから。そしてなんとか脱出する」

――ちゃんとできたか見ててやるからな。もし動けなくなってたら、殴ってでも行かせるぞ。

「あはは、だいじょうぶだって。ぜったい出るから。やることもあるし。カラオケもするし空も見たり、酒はしばらく呑めないけど。ブレーカーもまかせとけよ。ちゃんとやる」

 直人は努めて笑顔をつくった。悲しむのは後にする。そう決めた。

――最後の最後に嫌なことを頼んで、すまなかったな。

「いいって。オレも、いろいろありがと。みんなにいっぱい世話になって」

――気にしないでくれ。さあ時間がもったいない。今すぐやってくれ、直人。

「うん」

 直人はそっと円の入っている水球を抱きしめた。

「円、ありがとう」

――すごく楽しかったわ、直人。ありがとう。元気でね。いつまでもしょんぼりしてたら、円お姉さんが怒るわよ。さあ行きなさい。

 直人はうなずき、次に巡査とソラを全身で抱きしめた。骨張った犬の身体とコードごと抱き寄せてはじめて、白と黒それぞれの片耳にピンバッジがつけられていることに気づいた。かなり錆びているが、ソラには校章、巡査には警備員のもののようだった。

「耳のこれ、もらっていいかな」

――なんかついてるか。好きにしていいぞ。

――なになに。あ、ぼくの学校のかも。サビサビだね。いいよ、直人にあげる。えへへ。

 落とさないよう服につけると、直人はまたふたりを抱きしめた。

「巡査もソラも、ありがとう」

――じゃあな、直人。楽しかったぞ。ほら行ってこい。がんばれよ。

――ぼくも、ありがとう。ありがとう、ごめんね。じゃあね。がんばってね、直人。

 直人はふたりに顔を埋め、想いを振り切るように目を開けた。

 よし。

「行ってくる」

 直人はできるだけさりげなく立ち上がって歩き出した。一歩が重く感じつつ、行きたくない出たくないと叫ぶ心を抑えているうちに、ブレーカーのある出口についた。スイッチに指がふれたところで、動きが止まった。

 おい、どうした。切るんだよ。ほら。ここの電源を落とせ。終わりにするんだ。いや、終わりにしない。だってここには自分にとって大切な人たちがいるじゃないか。あそこから見守っているじゃないか。自分をたすけてくれて、いっしょに笑って怒っただろう。皆の最後の願いを聞いただろう。それはこのスイッチを。

――切るんだ、直人!!

 巡査の切羽詰まった声に応えるように、手は動いた。動いてしまった。

 ばちん、という軽い音はモーター音も赤い光も消して、すべてを闇に包んだ。

 ほんとうに電源が落ちたんだ。

 現実の冷たさに立ち尽くす直人に、やさしい声が響いてきた。

――ありがとう、直人。ありがとう。これで眠れる……。直人、行きなさ……。

――直人、ありがとう。もう、いいよな。もう……。さ、……行け。

 数秒置いてうっすらと非常灯が室内を照らした。遠のいていく声を追うように、直人はたまらず元の場所へ駆け戻った。

「円、巡査!」

 薄暗いなか、双頭の犬はぴくりとも動かない。水球のなかも白いものが沈んだまま、揺すっても動かない。

――直……。

「ソラ!!」

 直人はソラの首をかき抱いた。ラブラトールレトリバーの黒い皮に直人の涙がぼろぼろとこぼれる。

「ソラ、ソラ!! いやだ、死ぬなよ! ソラ!!」

――ぼく、祈ってる……から。ずっと……直人が、しあわせでいられる、よ……う。

「ソラ、聞こえない! そんなこといい、死ぬな! ソラ!!」

 ソラの声はまるでなにかに引っぱられていくように、声が遠くなっていった。行くな、行くなよ、行っちゃだめだ、ソラ。

 応えるようにソラはわずかに首を上げ、

――直人……たまに空、見て……直……ぼく……見……。

 直人の腕のなかで、しずかに落ちた。

 もう、動かない。

 直人は胸が張り裂けるままに絶叫した。


「マスター」

 遠野が卓上で重々しいため息をもらしたとき、ファイに呼ばれた。医務室で常川奏と待機させていたが、異変があったのだろうか。どうした、と振り返った遠野は、ファイのようすに言葉を失った。

 ファイはいつものように起立していたが、涙を落とし、しゃくりあげていた。目元は赤くなり、時折ずずっと鼻もすすり、手で涙を拭っては顔をきりっとさせるが、涙に負けて表情をくしゃくしゃにする。

「ど、どうした」

「わか、わかりま、せん。ささ、さきほ、ど、突然、涙が。奏、に言わ、れて、来たの、ですが。止まらない、です、マスター。なぜなのか」

 遠野は手近にあったタオルでファイの顔を拭いた。

「ああ、拭きなさい。鼻水も。鼻はタオルじゃなくティッシュを使ってくれ。そうそう」

「マスター、けいれんが、治ま、りませ、ん。胸が、痛くて、鼻の、奥が、おかしいです。なにかに罹患、発症したかと」

「だいじょうぶだ、それは病気でもなんでもない。それは泣くという状態だ」

「泣く」

「悲しいときに、人はそうやって涙を流す。胸痛や鼻がつんとするのも横隔膜のけいれんも、泣くことによる人体の自然現象だ。病気じゃない。泣き止めば通常に戻る。そろそろタオルを替えなさい」

 マスターから言われたとおりにするファイを、遠野は苦笑した。ファイは怒りや衝動は見せたことがあっても、泣くことは乳幼児以来だ。流れる涙に動揺するのも無理もないかもしれない。

「眼を診たいんだが、それでは診られない。泣くのを止められそうか」

「はい」

 ファイはタオルから顔を上げた。涙は治まったように見えたが、すぐにぼろぼろとこぼれた。遠野がタオルを押しつける。

「わかった」

「マス、ター、申し訳、ありませ」

「いや、それは無理して止めないほうがよさそうだ。涙が止まったら教えてくれ、ファイ。眼球に異常がないかチェックする」

 タオルの向こうからこもった声で返答がある。遠野はファイの状態を記録したカルテに「涙腺に異常あり。涙が止まらず」と記入した。数日前の部分には「幻聴発現。「培養室にシグマがいる」と話す」とも書いてある。それまでは「特に異常なし」の一行が並んでおり、遠野はその頃をなつかしく感じた。

「やれやれ、最近は落ち着かないな。五分前に真田くんが出たばかりだし。何事もなく済むといいんだが、そういうわけにいかないか」

「申しわけ、あ」

 しょげる頭に遠野は手を置いた。

「ファイのせいじゃない。謝らなくていい。しかしその涙もどうしたんだろうな。ファイ、目になにか入ったとか心当たりはあるか」

 ファイはしばらく考えて答えた。

「シグマが、泣いているかと」

 遠野は目を見開いた。

 ファイに心当たりはないのに発現した症状は、確かに一卵双生児間のシンクロという現象でも説明が成り立つ。では、今シグマはどこかで泣いてるのだろうか。

 遠野は「そうか」と言って、ファイにあたらしいタオルを渡した。あとで水分も与えなければ、泣きすぎで脱水を起こすだろう。そしてすぐにでも研究室を片付けなければ。なぜかそういう気がした。さっきから三崎が飛び込んできたときを思い出していたせいだろうか。

 はやく隠して。渡さないで。

 三崎、なにを隠せばいいんだ。

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アフターグロウ レベル2 深淵 羽風草 @17zou

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