7 処分存在
一輝の意識が戻って三日後。一輝からはずした包帯を巻きながら、遠野は真田家の体質に感嘆した。
「骨も内蔵もかなり回復しているが、眼球はまだかかりそうだ。気になるところはないか」
一輝はなにも答えずに身支度を整える。目を覆う包帯がなければ睨み返していただろう。鷺宮研究所の関係者と馴れ合う気などさらさらない一輝を、遠野はさほど気に留めるようすもなく、奏に声をかける。
「常川さん」
「はいっ」
奏はベッドに背中を向けたまま返事をした。
「常川さんも落ち着いたようだし、安定剤は弱いものに変更して回数も減らそう。それでいいだろうか」
「あ、はい」
奏は薬を飲む気はなかったが、一輝がうなずいて見せたので、続けて内服することにした。一輝から強く勧められなければ胃薬も飲まなかっただろう。今でこそ落ち着きを取り戻しているが、内服前の奏は、一輝からみてもあきらかにノイローゼの域を脱していた。
人なら当然だと一輝は思う。拉致されて鷺宮という異様な場所に放り込まれ、閉鎖的な空間に閉じ込められたのだ。すこしでも理性を維持できるよう、自分が自分でいられる記憶にすがりつく。奏にとってそれが直人だったのだ。
それに奏はかなりの強運の持ち主のようだ。直人も言っていたが、一輝も認めざるをえない。鷺宮に拉致され日数が経過しているのに、五体満足のまま生き残っていること自体が奇跡だ。さらにこの破格の待遇。毎日、治療のほかにウサギ数羽の差し入れがあるおかげで一輝はほとんど回復しているし、奏には食事や精神安定剤や本を与えている。さらに奏には鷺宮の情報をほとんど教えていない。
寝首をかくにしては待遇が良すぎる状況に、遠野の言葉を信じるべきか一輝は今も迷っていた。
奏に呼ばれて来訪した遠野に、目が覚めたばかりの一輝は頑に治療を拒んだ。
すると遠野は、奏に目隠しをさせてファイと一時退室させ、一輝に話した。
「ここで治療するから、はやくここから出ていってくれ」
一輝は言葉を待つことにした。自身は鷺宮にとって貴重な素材のはずだ。それをみすみす逃がす所員がいるはずがない。
「ここは私の研究室の医務室だ。君たちがここにいることは聖も知らない。だから騒がずにいてほしい。私は君を治療する。脱出も手助けしよう。約束する。はやく常川奏と出ていってくれ。居つかれるのは迷惑だ」
「くだらん。迷惑なら、なぜ置く」
「わたしは聖が嫌いでね」
「そんな浅い理由で納得できるとでも思っているのか」
間。
「わかった。君にはきちんと話す。ああ、あの人には鷺宮のさの字も話していないから安心してくれ。常川さんも、なにも知らずに出ていってもらいたい」
「懸命だな」
「私は遠野というただの所員だ。聖と同期だがね。そして、生後間もないシグマを逃がしたのは私だ」
「聖にいやがらせか」
「シグマを聖に渡したくなかっただけだ」
遠野は、ファイとシグマは一卵性双生児で、三崎という所員と共同開発した試験体だと話した。ファイは遠野が、シグマは三崎が担当で行っていたが、聖はシグマを欲しがった。遠野にその理由はわからないが、三崎は断り続けていた。気の短い聖はとうとう三崎を殺害、強引にシグマを手に入れようとした。
「三崎は死ぬ前の日に、私にシグマとシグマの資料を預けた。聖にだけは渡すなと言われたし、わたしもそのつもりだったが」
シグマを預かった次の日、遠野の研究室に聖が怒鳴り込んで来た。
「銃まで突きつけてくる聖に危険を感じて、私はどさくさに紛れてシグマをゴミといっしょに研究室から出した。聖はシグマのデータだけ見つけて、それ全部持って出ていったんだ。わたしは急いで三崎の元に行ったんだが、三崎は死んでいた。うしろから頭を打ち抜かれてね。聖がやったとわたしは思う。あれは上司も助手も関係なく、邪魔だと思ったらすぐ殺す男だ」
「同僚殺しか。堂々としたもんだな」
「ここは所員が殺されても、調べないし追求もしない。誰かが研究を引き継ぐならそれでいいという所だ」
遠野は深いためいきをつく。
「シグマが生きてると知ったときは信じられなかったよ。しかしすぐ回収すべきところ、私は迷った。一般人として育っていたシグマを回収したところで、どうしたらいいのかわからなくなった。能力はあっても教育されていないシグマを、ゼロから磨きあげるにはむずかしい。それに聖のもとじゃなければ、それでいいような気がしたんだ。しかし聖に気づかれて」
「あのシグマは聖が教育したというわけだ」
「教育というより洗脳に洗脳を重ねた結果だ。やすみなく頭に叩きこむうえに、強い薬を何度も投与していたようだ。こういうものは完成してもひどく不安定なもんだ。戦闘演習で君を殺したあとは暴走。設備も集計室も破壊して、今は行方不明だ」
鷺宮から脱出した形跡はないが、演習場周辺の監視カメラがその時間帯のみ稼動していなかったため、手がかりもない。数日経った今では聖と一部の研究員だけが大騒ぎしている状態だという。
「ちなみに君は冷凍処理が施され半永久保存されていることになっている。常川さんははじめから名前すらない。そういうわけで、君たちふたりは自由の身だ。ファイに誘導させて、君たちを逃がすから安心してくれ。そしてここを出たら、もうシグマに関わらないようにしてくれ」
「なにが言いたい」
「君たちは逃がそう。しかしシグマは置いていくことだ」
「待て。直人はどうなる」
「君たちの知る常川直人はもういない。一度覚醒したものは元に戻ることなどできない。それにシグマは人間兵器だ、一般人に紛れて平穏に過ごせるわけがないだろう。誰にとっても不幸を生むだけだ」
「絶対か」
「君を殺したのは誰だ。常川直人だったかい。わたしにはシグマに見えたが」
一輝は答えられなかった。
直人の名を呼んだとき、戸惑いのなかに直人はいた。
しかし直後、絶叫とともに豹変して自分に襲いかかってきた。あれは。
「君たちは帰る。シグマは帰さない。いいね」
遠野はそう話を締めくくり、退室していたふたりを呼び戻した。
あれから一輝は何度となく自問自答したが、答えは出ないままだ。
なにも答えない一輝の脇から、遠野が立ち上がった。
「この回復状況なら明日か明後日には出られるだろう。じゃあ失礼する。行くぞ、ファイ。ファイ。どうした」
「シグマがいるだと?」
ファイがつぶやくと同時に持っていたトレイを床にぶちまけた。トレイを拾おうともせず、青い顔で宙を見つめたまま動かない。何事かと奏は身を硬くするが、彼女のマスターは落ち着いてファイの肩に手をかけた。
「ソラの声でも聞いたか。ファイはときどき、見えない子どもと話す。ソラという少女でね、ファイが造り出した空想の存在だ。話もファイの深層心理が作用した造り話にすぎない。ファイ、どうした。ソラはなにを話してる」
ファイは髪を赤に変色させて揺らしながら、なにかに耐えるように耳を塞いでいた。何度めかの呼びかけで、やっと顔を上げる。
「マスター。ソラが培養室で直人が起きたと」
「ファイ?!」
遠野の豹変に、ファイは全身を緊張させる。
「本当にソラがそう言ったのか、ファイ! 答えろ!」
マスターに乱暴に揺さぶられるまま、ファイは「申し訳ありません、マスター」を繰り返す。
「ソラとはなんだ、誰だ! なぜ培養室を知っている。そこを知る所員はいるはずがない、私でさえ忘れていた場所だぞ。そこにシグマがいる? そんなバカなことがあるわけない、そもそも誰も培養室に行けるわけがないっ! あそこは封鎖されてるんだぞ!」
「たかが空想にずいぶん動揺するじゃないか。じつは培養室にソラとかいう少女がいるんじゃないのか」
一輝がたのしげに問うのを、遠野は憎々しく睨んだ。
「なにもないっ。そもそもあそこに人間はいないんだ。封鎖前にどれだけ確認したと」
「人間じゃないもの、は?」
遠野が息を詰まらせるのを、一輝の聴覚は聞き逃さなかった。
「心当たりがありそうだな。目が回復したら地図をもってこい。わたしが迎えに行って、直人がいるかどうか確かめてきてやる。案外、ソラとかいう奴に会えるかもしれないぞ」
――なんかファイが泣いてるみたい。直人のこと言っただけなのに、どうしたんだろ。ぼく、へんなこと言ったのかな。
「ほっとけ」
直人は赤い部屋の中央でスクワットをしながら、すこしむっとして言った。ソラの友達でも、ファイはシグマと双子だ。シグマとおなじなら嫌なヤツに決まっている。奏と一輝がいっしょにいるという状況も、ふたりを人質にとられているようで、直人をより苛立たせた。一分でもはやくふたりを救い出さないといけない。
巡査は直人の滞在限度日数を一週間と決め、昨日から筋力トレーニングを開始した。胃がやたら鳴くが、巡査と円が直人の満腹中枢をだましているおかげで空腹を感じない。しかし飲まず食わずの状態なので、体脂肪を削って生きていることには変わりない。トレーニングせずとも一ヶ月くらいは死なないが、ここを歩いて出ていき、いざというときに走れるほどの体力がなければ、培養室で洗脳を解いた意味がない。
巡査は、人は飲まず食わずだと三日で立てなくなると教えてくれた。過去に経験したらしい。実際に直人の体力はかなり落ちていた。目が覚めて三日しか経っていないのに、スクワットを十回もやったところで息が上がり、足がふらついた。直人はより真剣に拳を強く握り、しっかり屈伸をする。
トレーニングの傍ら、巡査はここに来る以前のことを話してくれた。
「巡査」はここでのあだ名で、本来は駆け出しのルポライターだ。複数の行方不明事件を追っているうちに心仁大学病院を突き止め、バイト警備員になって潜っていた。ある日、車にはねられた学生が運ばれてきたが、医者はそれを治療もせずに地下へ搬送するよう指示を出した。巡査は担架前に立ちふさがって理由を尋ねた。記憶はそこで断ち切られ、目が覚めたら犬になっていた。
――心仁が裏でなにやってるのかわかったところで後の祭り。聞いただけでこうだろ、心仁も慣れたもんだ。こういう目に遭った奴は俺だけじゃないだろうな。じつはな、直人。そのときの患者がこいつ、ソラだ。な。
――うん。ぼく、親とけんかして家出してね。友達の家に行く途中、車にひかれたんだ。すごく痛くて死んじゃうって思ってたのに、気づいたらこうでしょ。びっくりしたよ。
――こいつ、ケロッとしててさ。若さだなって思ったよ。俺なんかかなり荒れたぞ。ゲージのここらへんに傷がついてるだろ。ぜんぶ俺が噛んだ跡。教授がいなかったら今頃どうなってたか想像もつかんね。
「教授って、木谷って人だっけ。円がそう言ってたような気がするけど」
――そう、木谷教授。脳みそだけになって大喜びした、かなり変わった人だ。俺はかなりひいた。
あはは、と円が笑い出した。
――教授ってね。やった、ばんざいって、大笑いしたの。わたしなんかかえって笑っちゃったわ。すっごいポジティブシンキングで、あれのおかげでわたしも‘まあいいか’って思えるようになったくらいよ。テレパスも教えてくれたし。出会えてよかった人だわ。巡査もそうじゃない?
――まあな。
木谷は脳を専門とする所員で、聖を心酔し聖とともに‘ケルベロス’を造った。しかし研究の方向性にズレが生じたと知るや聖に殺され、たわむれで脳をホルマリン漬けにされた。
木谷は培養室で巡査たちの存在を知るなり、聖を超えたと喜んだ。聖は実験体に自律した思考があることを否定していたのだ。木谷は聖の知り得ない状況に興奮し、脳の研究と称して三人にテレパスや他人の意識の接触方法、情報収集の方法を教えた。そして三人の出す成果に一喜一憂しては論文を組み立て、ぶつぶつ言っているうちに死んでいった。常に研究意欲を見せていた教授の姿は、今でも三人の光明となっている。
スクワットが終わった。
――よし次、腿上げ五十。
「ちょっと待って、足がマジ限界」
――じゃあラジオ体操でもする? 円お姉さんが歌ってあげるわよ。うふふ。
「それって円を持ってやるってこと?」
――あはは、そうね。いいんじゃない、新体操みたいで。
「ラジオ体操じゃなく腕立てにする」
――あははは、それは残念。
三人はそれぞれ見たかったと笑い、直人もつられて笑った。
円は、唄を歌う。
――ガラスに手を置いてみて。
直人は言われたとおりにした。球面が冷たい。
するとどういうわけか、円の声で唄が耳に響きはじめた。実際に聞こえているわけではない。しかし耳は円のやわらかく澄んだ力強い声を聞き取っていた。聞き慣れない外国語の唄に、直人はしばらく聞き惚れた。
「すげえ、きれい」
――サンクス、直人。水槽にさわった人にだけ聞こえるらしいわ。
円は、バーで歌っていたそうだ。その日、酔った聖が所員数人と店に来て、円に絡み、歌えと騒いだ。円は頑に拒否して聖たちを店から追い出したが、帰りに鷺宮に拉致されて球体に入れられてしまった。当然円はパニックに陥った。そこへ聖が覗き込んできて、こう言った。
歌いたいんだろう。歌え。
円は激高した。
――なにそれって思ったわ。冗談じゃないわよ。でも歌え歌えってうるさくて、ずっとキーキー叫んでやったの。とうとうハゲのほうが怒りだして、わたしをここに放りこんだってわけ。すっとしたわ。
円は球体のなかでひとりで歌い、直人が来たあとは直人に唄を聞かせた。逆に直人から流行している唄を教えることも多く、新曲をせがむ円に、直人のほうが疲れて寝ることもあった。思考を読めても唄など知らない所員ばかりで、円は新曲に飢えていたのだ。
腕立て伏せをかろうじて二十回数えたところで、直人は身体を投げ出した。
「もうだめ」
――そうだな。無駄にカロリーを消費しても後に響くし、今はここまでにするか。直人、ごくろうさん。
直人は手を挙げて応えた。
――直人、じゃあ昨日の続き教えて! ねえ、直人ったら!
寝転んだままゲージを見上げると、黒いラブラトールレトリバーが何度もうなずいて見せていた。あまりにはげしく動くので、巡査が痛がる。身体のつながった部分が痛むらしい。
「ちょっと待て、ソラ。オレ休みたい」
――だって聞きたいんだもん。寝たままでいいから、してよ。直人の話おもしろいし、あと三日くらいしかここにいないんだし。ねえ、ダメ?
「しょうがないなあ。わかったわかった。ええと、なんの話だったっけ」
――シゲちゃんが一輝くんにアタックした話!
「ああ、あの最強技か」
話しながら直人は笑い出した。直人も何度か経験した、シゲちゃんの必殺ボディープレス‘愛アタック’。意表を突かれてつぶされた一輝の姿は、なかなか忘れられない。
直人はここでいろいろ話をした。あとにも先にも、こんなに自分の話をしたのはここだけだった。特にソラは直人の話をなんでも聞きたがった。聞きながらソラは直人と笑い、怒り、落ち込んだ。奏に隠していたいじめられた話のときは、ソラは許せないと叫んだ。直人はそんなソラの姿にうれしくなった。
ソラのことも聞いた。ソラは天文学部にいた十五歳の高校一年生。星や青空についてよく話していたので、このあだ名になったらしい。直人が生まれる前から居るので直人よりもずっと年上になるが、多少言葉が古いこと以外は年の差を感じない。ソラも直人をクラスの友達みたいだとうれしそうに笑っていた。
直人はなんでも喋った。うまく話そうとかよけいなことを考えずに話せる安心感が、培養室にはあった。髪について話したときもそうで、巡査はけろりと言った。
――髪? んなもん気にすんなって。直人は直人でいいだろ。なあ、ソラ。
――え? あ、うんっ! っていうか、すごく、いい……よ。
――ソラちゃん、そんなに照れなくていいのに。そういうときは正直に、髪も好きって言うのよ。
――ぼく照れてないもんっ!
――気になるならかつらでもかぶるか。アフロとかどうだ。
「なんでアフロなんだよ」
笑いながら、自分は自分でいいんだと、うまれてはじめて心から思った。おなじことを奏や一輝からも聞いていたのに、だ。そうやって、三人から聞く言葉は直人のこころに、雨のように浸透していった。直人はここで、やさしさもいたわりも、なぐさめもあきらめも、すべて感られた。
話し疲れると、円がやさしくうながす。まるで世話を焼く年上の親戚みたいだと思う。休むことにソラとふたりでごねると、巡査から近所のお兄さんのような口ぶりで怒られる。トレーニング後の今も、巡査に「一度寝ろ」と怒られた。しぶしぶソラに「続きはあとでな」と言って目を閉じ、おおきく息を吐いた。起きたらまたトレーニングだ。もっと動けるようにならないと出られないだろう。出ていけないのは困る。だけど。
ずっとここに居られたら。
――いいわけないだろ、このバカ野郎!!
直人は巡査に頭ごなしに叱られた挙げ句、硬い床に正座をさせられた。円とソラは静かに見守っている。
――おまえなにを言ったかわかってるか、ああ? 捕まったらシグマのふりしてここに来る? そんなことできるか! 鷺宮をなめすぎだ! いいか直人、おまえはここを出ていくことだけを考えろ。わかったら返事!
「そのつもりだって。だけどちょっと言っただけだろう。それに、もしかしたらって話」
じろりと巡査ににらまれ、直人は口をつぐむ。
「わかったよ。もう言わない」
巡査はしばらく直人を睨んでから、目を反らした。
――わかったならいい。でも俺がいいと言うまでそのまま正座。いいな。
納得いかない気持ちのまま、直人は両膝に視線を落とした。血と泥に汚れた手と服が目に入り、まるで鷺宮の姿のように見えて、一瞬胃が締めつけられた。
奏を助け出すのは当然だ。一輝もいるというのなら来るなと言われても行く。置いていけるはずがない。
そしておなじように、培養室の三人も置いていけるはずがない。今回は無理でも、いつか迎えにきて連れ出したい。鷺宮に置いていきたくない。
離れたくない。
だけど万が一また聖に捕まってしまったら、またここに来て、今度こそ一緒に脱出したらいい。そう思った。
しかし直人の考えは、巡査の一喝でかき消えた。まるで斬り捨てていけとでもいう勢いに、なにも言えなくなった。
いいのかよ。ずっとこのまま、培養室にいていいのかよ。どうなんだよ、巡査。円。ソラ。それでいいのかよ。
――直人おまえ、培養室が気に入ったんだろう。違うか。
直人はうなずいた。
「そうだよ。だってオレ、ここではじめて‘喋った’気がするし、ここ好きだよ。それに、みんな置いてひとりで出ていくなんてできない。巡査もソラも円もここにいるのに、なんでオレだけ出ていけるんだよ。そんなのオレも嫌に決まってるだろ!? あ、巡査たちも一緒にいけばいい! オレが円を持っていくからゲージを壊して」
――サンクス。ありがとう直人。でも無理よ。わかってるでしょう。
「でも」
――直人。今だけでも俺たちのために考えてくれた、それだけでじゅうぶんだ。俺たちのことは気にしないで、行ってくれ。
「巡査、そんなこと言うなよ。いっしょに出るんだ」
巡査は首をふる。ソラは頭を垂れたまま上げようとない。
――言っただろう。俺たちはモーターがないと動けない。円は台座から下ろしたら即死だそうだ。教授が言っていたからそうなんだろう。それに直人。もし俺たちが出られたとして、俺たちはこの姿で生きるのか。そんな惨いことをしろと。
直人は黙り込んだ。たしかに巡査の言うとおりだ。後悔の念にふるえる。
――ここを出たら俺たちのことはわすれろ。見限るんだ。いいな、直人。
直人は肩を落として、深く、深く息を吐いた。
誰もここから救出できない事実に泣きそうだ。なんて無力なんだ。ここに転がり込んできて、助けてもらってばかりで、助けることもできないなんて。たとえ髪が動かせようと、なんの役にも立たない。
――直人。わたしたちを出したいって思ったのね。
こくり、うなずく。
――じゃあ気持ちだけ持っていってくれる?
直人は顔を上げた。
円はやさしく言った。
――わたし、歌いたいの。おもいきり息を吸って、喉を使って、体じゅうで歌って歌って歌いまくりたい。だから直人、カラオケでいいから、わたしの代わりにたくさん歌ってくれる?
「円」
直人は飛びつくように円をのぞきこんだ。自分にできることなら、なんでもやりたい。
「ううん。やるやる、ガンガン歌う。円みたく上手くないけど」
――よかった。曲はなんでもいいわ。直人の好きな曲を気持ちよく歌って。ぼそぼそ歌ったら円お姉さんが怒りに行くわよ。わたしの代わりなんだから、楽しく歌ってもわらなきゃ。
「わかった」
巡査が身を乗り出した。
――それ、いいな。俺もそうしてもらおう。直人、俺の代わりに酒を呑んでくれ。うまい酒ならなんでもいい。もちろん二十歳過ぎてからな。俺は酒が好きでね。ビールにワインに地酒、いろいろ呑んだもんさ。直人の好きな酒でいいから、いつか楽しく呑んでほしい。そのときは俺もそこにいる。
「わかった。姉ちゃんも呑むから、きっとできると思う。ソラは」
黒い犬はうつむいたまま動かなかった。
「ソラ?」
――空、見てて。
「ソラ? 今見てんじゃん」
ソラが怒ったように頭を上げた。
――なんでそうなるのっ。ぼくじゃなくて、上! あっちの空! 上空のことだよ、もう!
「ああ、空か。そういや天文部だっけ」
――そう。空って見てるだけですごくきもちいいんだから。昼間でも夜でもいいから、ときどき見てほしいんだ。ぼく、ずっと見ていないし。直人、代わりに見て。直人といっしょにぼくも見てるから。
「わかったよ、ソラ。でもそれでいいのか?」
――うん。
そうか、と直人はゆっくり指を折っていった。
「カラオケと、酒と、空を見る。うん、わかった。どれもちゃんとやるから。約束する。ぜったい」
突然、直人の涙がこぼれた。
できなくなったこと、したかったこと。三人にはどれだけあったんだろう。
できない自分の代わりにやってくれという、あたたかさとあきらめに喉が締めつけられる。
「ぜったい、やるから、な」
直人の涙声に、ソラが「うん」とうなずいた。そしてそのまましばらく、誰もなにも喋らなかった。
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