6 生還
気づくと、直人はなにもないところに立っていた。
建物はおろか空も地面もない。なにもない。視界すべてしろい。
いや、影がひとつあった。
白いシャツに黒のスラックスという見覚えのある立ち姿に、直人はたまらず走り寄った。同時に、相手もこちらを振り返った。浮かべた驚きの表情に、直人はかるく笑う。
「一輝!」
「直人か」
「ここでなにつっ立ってんだよ。待ち合わせか」
拳が直人の頭にはいる。
「そうだ。おまえを待っていてやったんだ。どれだけ待たせる気だ、まったく」
「あはは、悪い」
たしかに待ち合わせていたのかもしれない。
「今までどこにいってた」
「えっと」
答えようとしたが、答えられない。どこにいたのか思い出せないのだ。まるで今いる場所のように記憶が真っ白だ。
直人が悩んでいると一輝は「もういい」とあきれたように言い、一方を顎で指す。
「はやく行け」
直人はきょとんと見返した。
「え」
「奏さんはあっちだ。迎えにいくんだろう。忘れたとは言わせないぞ」
奏と聞き、直人は胸が痛いほど高鳴った。そうだ、ずっと待たせていたんだった。はやく行かなきゃまずい。
しかしなぜか両手がすごく重く感じ、重さに引きずられるように直人の気持ちは沈んでいった。
だめだ。
直人は力なく首をふった。
「行けない」
返答に、一輝が直人の肩を乱暴につかんだ。
「直人。なにバカなことを言ってるんだ。はやく行け」
「行けないんだよ。このオレじゃダメなんだ、一輝」
「どういう意味だ。説明してみろ、聞いてやる」
手元に視線を落とした。一輝も追って、見る。
直人の両手は真っ赤に染まっていた。このべったりついた赤は、血だ。直人自身のものではない。誰かのものだ。
赤い色は無言で直人に突きつける。
これはおまえだ、と。
泣きそうな思いをこらえつつ、直人は納得した。
「これじゃ、行けないだろ」
人を殺した弟じゃ、会えないだろ。
「ああ」
一輝はあっさりとうなずいて
「はやく洗ってこい」
と答えた。
平然としている顔に、直人は言葉をうしなう。
「なんだ。ほかに問題でもあるのか」
「おまえなあ。これ、血だぞ!」
「だからなんだ」
直人は肩を落とす。
「姉ちゃんがこれ見たら大変だろって言ってんだよ」
「ああ、たしかに大変かな。まずおまえが怪我をしていないかどうかで」
「そうじゃなくて。ああもう、なんでわからないんだっ」
「それはこっちの台詞だ」
一輝はさも面倒そうに顔をしかめる。
「俺がおまえに刺された日、覚えてるか」
「あ、ああ」
薮から棒に問われて、直人はうなずいた。あの日のことは今でもはっきりと思い出せる。
直人がまだ鷺宮の存在すら知らなかった頃、一輝は直人を鷺宮の関係者だと誤解して、攻撃してきた。直人はなにも理解できないまま、一輝に殺されると思った。いよいよ死ぬと思った瞬間、直人の髪は一輝の心臓を貫いた。
思い出すたびに直人はすくみ上がる。胸を深くえぐる、あの言葉にできない感覚。死にたくない一心とはいえ、人を殺してしまった事実にたいする恐怖と絶望。一輝の体質のおかげで人殺しにはならなかったが、あの夜の出来事は今も直人に悪夢を見せている。
直人はうなずく。
「そうだな。オレはもう、あの時からこうだったんだ」
「違う。俺が言いたいのはそのあとだ」
一輝はあきらかにいらついていた。
「一時的とはいえ、おまえは俺を刺し殺した。それを見て奏さんはどうだったんだ、と言ってるんだ」
「あのあとって、姉ちゃんが来て」
あのあとは誤解が解け、いろいろ話しながら、一輝が蘇生し終わるのを待っていた。一輝が動けるようになったらそこを離れ、家に帰るつもりだった。家に着く前に返り血をかぶった身体をなんとかしなきゃ、とも思っていた。奏にだけはぜったいに見せられない姿だった。
ところが、直人が心の準備もできないうちに、当の奏がそこへ姿を現したのだ。みるみる青ざめる姉を見て、直人はすべてが終わったと思った。悲鳴を上げて逃げる姉が想像できた。
しかし現実は違い、奏は血まみれの姿から逃げるどころか、弟の怪我を心配して近寄ってきたのだ。
直人が思い出したのを悟ったのだろう、一輝はやれやれと言いたげに腕を組む。
「もうわかっただろう。あの人はそういう人だ」
うなずいて、もう一度手を見た。
爪もわからないほど赤い手は、血液独特の光沢を見せている。ここまでついているのだから、ぬぐっても洗っても、そうかんたんには落ちないだろう。
つけたままでいくしかない。
直人は両手をにぎった。
そして振り切るように顔をあげた。
「姉ちゃん、待ってるんだよな」
「ああ。はやく行け」
一輝が一方向を指した。なにも見当たらないが、きっと奏がいるのだろう。
「わかった。一輝、またな」
「ああ、またな。直人」
肩越しに一輝と別れを告げ、直人はまた走り出した。振り向かずに、ひたすらまっすぐに駆けた。
また影が見えた。あれは誰だろう。手を振ってる。こっちだよと合図を送っている。あれは。
直人が意識を取り戻して最初に見たものは、目と鼻の先に置いてある白い塊が入ったホルマリンの瓶だった。湿気ったリノリウムの床で寝ていたらしく、肌寒さにぶるっと身体を震わせる。 寝返りをうつと、手や腕や胴、身体のあちこちに打撲痕のような痛みが走った。きっと気絶していた原因だろう。しびれた足を伸ばすと瓶をいくつか蹴ったので、思っていたより狭いと知る。
ここはどこの倉庫だろうか。室内はちいさな赤い蛍光灯によって赤く照らされ、弱々しいひかりは、物のかたちは映しても、奥にいくほど暗く、かつ正確な色を隠した。しろい塊の詰まった大小の瓶ばかりで、まるで理科準備室のようだ。
不気味な空間のなかに置かれているが、さっきから響くモーター音だけは直人を安堵させた。モーターの音は好きだし、ただの保管場所に恐れおびえることはない。のどがひりついていて、かるく咳き込んだ。頭が重いのは寝すぎたせいだろう。夢の内容はわからないが、嫌な夢を見たような気がする。
並んでいる瓶を倒さないように座ると、長い髪が顔前に落ちた。長いままなうえにべたつき、直人はいらついた。いつものように戻そうと集中してみたが、髪の毛一本動かない。
「ったく」
髪ゴムを探そうとポケットに手をのばし、直人は動きを止めた。
今はじめて、泥だらけの服を着ていることに気づいた。濃い色のおおきめのTシャツとズボンは、もちろん着た覚えはない。さらに袖口と裾から伸びる腕と素足に息を呑む。
手足は爪もわからないほど泥と土で汚れていた。いや、泥だけか。赤いライトのせいで全部黒く見えるが、手や髪についているものにはどこか粘り気がないか。
汗がじわりと出て、息が上がる。身体のあちこちに感じる鈍い痛みといい、なにがあったんだ。
「なんだよ、これ」
ーーおはよう、直人。培養室の居心地はどうだ。
男の声が頭のなかにひびき、直人は驚きの声をあげた。あわてて部屋を見回したが、声の主らしき姿はない。
「どこだ。誰だよ」
ごそり、となにかが動く気配がした。直人のすぐ側にゲージがあり、奥からしろいラブラドールレトリバーが顔を覗かせた。室内があまりに瓶だらけなのと、ゲージが物陰になっていたこともあり、見落としていたらしい。生き物がいたことに驚きつつ、しぜんと安堵感がわきあがる。犬は一頭だけではなく2頭いた。すぐ脇で黒いラブラトールが、しろとゲージにはさまれ窮屈そうに寝ていた。
しろい犬は犬歯を見せて笑う。
ーー忘れたか。俺たちのことを知りたいなら培養室に来いって言っただろ。第一ラボで。
培養室、第一ラボと聞いて、直人はやっと思い出した。この声はあの時、頭に響いてきた声だった。
「そっか、あんた、巡査だな。ここが培養室か。で、巡査はどこに居るんだよ」
ーー名前を覚えてくれててうれしいね。直人、俺はここだ。隠れてもいないぞ。どこにいるか当ててみろ。
「当ててみろったって」
再度目を凝らしてみたが、やはり声の主らしい姿は見当たらない。あきらめかけたとき、犬が鼻をふんと鳴らした。なにか訴えるような瞳でじっと直人を見返している。こいつはここにずっと閉じ込められていたのだろうか。やせ細っていて汚いが、穏やかなラブラトールらしいやさしい目をしている。
「おまえなら知ってるか?」
犬はゲージの間に手を入れても逃げず、頭をなでると目を閉じた。意外と毛皮がつめたかった。
ーー直人の手はあたたかいな。
直人は動きを止め、手を引っこめた。まさか。
「巡、査」
犬は疑問に応えるようにうなずく。目が賢そうに光った。
ーーあたりだ。俺が巡査だ。よろしくな。隣にいる黒いのがソラ。今は寝てるけど、起きたら話が合うと思うぞ。ソラは直人と歳が近い。
直人は目をしばたかせる。犬が喋るなんて信じられなかった。
ーーあ、誤解するなよ。俺たちはれっきとした人間だ。身体は犬でも普通の犬じゃないし。
直人は薄暗いゲージ奥を覗きこみ、目に入ったものに顔を歪めた。信じられないものがそこにあった。
なんだ、これは。
まず、一頭、というべきなのだろうか。白と黒の首は、ひとつの白い犬の胴体につなげられていたのだ。そして右前足と左後ろ足は黒、左前足と右後ろ足は白と、まるでへたくそなブロックで組み立てられた犬だった。つがれた部分はみにくい縫い目が走っていて、首のつけ根と腹から伸びた数本のチューブは、ゲージ横のモーターらしき機械につなげられて、より異様さを際立たせている。
ーー説明するとな。二匹の犬を一匹にして、それぞれ人間の脳に入れ替えてるそうだ。脱出したくてもコードが邪魔で動けない。俺とソラは、何年もここで立ったり座ったり寝てる。
直人は泣きたいのか叫びたいのかわからなかった。なにがあってどうしてなんのためにこんなことを誰がしたのか、疑問はたくさんわき上がるのに言葉が続かない。そもそも巡査になんて言えばいいんだ。
ーーこれをやったのはクソ聖だ。聖のことはもう知ってるだろ。
「ひじ、り」
血の気が引いた。聞きたくない名前をここで聞くとは思わなかった。
ーーそう、聖だ。あいつが俺たちを作ったのさ。クソ野郎はケルベロスなんて言ってたが、センス悪すぎて笑えるよな。ま、俺たちは腹も減らずにただ動けないだけだからマシなほうだ。鷺宮には俺なんかよりひどい目に遭っている奴らがたくさんいる。培養室は聖の実験体や材料の保管場所なんだよ。シグマは三崎っていう所員が作ったが、聖も関わっていたらしい。だからシグマが赤ん坊だったころは、ここに保管されたこともあったんだぞ。
巡査がなつかしそうに目を細めたとき、ハスキーな女性の声が上がった。
ーーそうそ。いつも保育器に入れられてて、すごくちいさくて泣きもしなくて、死んでるんじゃないかと思ったのに、まさかでっかくなって戻ってくるなんて。運命とか宿命っていうのを感じるわ。
直人はきょろきょろと見渡した。この声にも覚えがある。
ーー直人、モーニン。わたしのことも思い出したかな。円よ、五百円の円って書いてまどか。ふふ。直人、さっき、わたしのことを蹴ったでしょ。突然ゆれたもの、びっくりしたわ。
「ああ悪い、ごめん」
足を伸ばした方向を確認するが、生き物は見当たらなかった。あるものは大小さまざまな瓶ばかりで、液体が満ちている球ガラスもあった。それは地球儀くらいのおおきさで、どっしりと専用台座に乗せられているが、水が濁っているので中は見えなかった。
ーーここ。まるい水槽のなかよ。私もハゲ聖に移植されたの。
濁った球体の奥からしろい塊が姿を見せ、ぐるんと一回転して引っ込んだ。あきらかに生き物のかたちではなかったことに、直人は黙り込んだ。恐怖に似た戸惑いを隠すのに精いっぱいだった。
直人は円の水槽を巡査の隣に置いた。テレパスは通じても相手を見て交わしたほうが落ち着くだろうという、ふたりからの提案だった。たしかに、一方を向いて話をしている気分になれる。
培養室でテレパスを使える人は巡査と円、ソラの三人だけ。それも研究所内のみらしい。接触した所員の思考はもちろんのこと、過去の記憶も読もうと思えば読めるそうだ。だいたいの所員は話しかけられても空耳だと考えるが、なかには会話を楽しむ人もいるそうで、調べずとも所員から話を聞きだせることもあるという。
テレパス以外は、他人の脳にすこし手を加えられるという。頭痛を起こしたり感覚を一時麻痺させたり、苦しむ実験体を気絶させるくらいだけどな、と巡査は言った。
ーー俺たちはそういうふうにして、直人の動向を追っていたんだ。
「へえ」
ーーさて。今度は直人のほうだ。今どうしてここにいるか、なにがあったのか知りたい頃合いだと思うが。その前に、直人がどこまで覚えているか教えてくれ。そこから話す。
直人はうなずいた。あぐらをかいたまま、すこし考えてみる。
「ええと。廊下でへんなやつらに囲まれて、それから……」
それから。
あれ。思い出せない。なにがあったんだろう。不安になるほど続きは一向に浮かんでこなかった。
代わりによくわからない記憶が浮かんでは消えていく。赤い獣が眼を開けたこと。獣が笑いながら赤を散らしていくのを見ていたこと。消えないで、と言って抱きついてきた女子。一輝が「またな」と言って別れたのはどこだ。グランドに立つ一輝がじっとこちらを見ていたことは本当にあっただろうか。どれも今の自分とのつながりさえ見当もつかない。あれはいつで、どこで、彼女は誰なんだ。
ーーストップ。
円に止められると、かるくめまいがした。頭の芯も熱い。
ーー直人、そこまででいいわ。わからないならわからないままでいいの。洗脳を解いたばかりなんだし、あまり無理に思い出そうとすると、かえって直人の負担になるわ。ね、巡査。
ーーじゅうぶんだ。特殊部隊の襲撃を受けたところで途切れてるんだな。
「うん。たぶん」
考えるのをやめると、熱がすうっと引いた。円の言うとおり、無理に思い出さないほうがいいのかもしれない。
ーーよし、じゃあ説明する。ざっと言えば、特殊部隊の襲撃がきっかけで直人はシグマになった。その後は聖によって本格的に洗脳された。だけど戦闘演習中にトラブルが発生してね。パニックになってる隙にオレたちがおまえを救出して、ここで洗脳を解除したわけだ。
「オレ、洗脳されたのか」
ーー俺は素人だが、そう思う。あのクソ野郎はシグマの能力を持つ直人の人格を徹底的に否定して、シグマになるよう仕向けていたように見えたね。
巡査の説明によると、洗脳によりシグマになっても、ひどく不安定だったらしい。所員を攻撃する時もあれば直人に戻る。そのたびに聖は薬を投与して直人を眠らせ、しきりに直人を否定しシグマであるよう言い聞かせていたそうだ。直人はうなずく。それは知っていた。昼も夜も問わず、低くねっとりした男の声が「おまえはシグマだ。私はおまえのマスターだ」とささやいていた。
直人は胸が悪くなってきた。耳の奥に異物感があるようで、不快感がはしる。
「あれがそうか」
ーー洗脳にかなり薬を使ったようだ。戦闘演習のときはもう廃人のようで、もう直人に戻ることは無理かと思ったよ。ここで起きあがった直人をみてはじめて、洗脳解除できたとわかったんだ。意識が戻らないとどうにも判断つかないからな。起きたのが戦闘演習直後のシグマならどうしようかと心配した。
「戦闘演習って」
直人が話を止めた。いやなキーワードがひっかかる。
ーー実験体の最終実験みたいなものだ。戦闘目的で作った実験体の戦闘能力を見るため、実際に動物や人間と戦わせるのさ。場所はグランドもあれば廃材置き場みたいな所もあるし、でかいプールしかないところもあるかな。シグマの戦闘演習はグランドだった。
「なんでそこまでやるんだ」
ーー鷺宮は人体実験ばかりしてるが、目的は人間兵器の生産だ。作っては戦争屋に高く売りつけて成り立っている。どこでも人間兵器はほしがるもんだし、いい値がつくからな。
ーーねえ巡査、人身売買もしてるんでしょう、ここ。
ーーいや、買ってはいないな。人間は心仁からもらうか、市民をてきとうに拉致してくる。すぐ問題になりそうなもんだが、警察は鷺宮の息がかかっていて、どれもあっさり捜査を打ち切られてる。そのうえメディアも見ないふりだ。救いようがない世界さ。
ーー確か直人も、お姉さんが拉致されたから来たのよね。ね、直人?
ふたりの話は直人の耳に届いていなかった。
聞きながら、直人は無意識に服をぎゅっと握った。泥は布地にしっかりしみついて、多少硬くなっていた。
これは泥か。いや、違う。汚れに気づいたときから、ずっと気になっていた。服から立ち上る血臭は、認めたくないことを認めさせるにはじゅうぶんすぎる。そして自分は出血するような怪我をしていない。ということは服についているものも、手についているものも、ほんとうは泥なんかじゃなくて。
ーー直人。どうした。
「じゅ、巡査。あのさ。あの……さ」
ーーどうした。はっきり言っていいぞ。
「オレ、戦闘演習っていうのをやったんだよな」
ーーああ。一回だけだがな。シグマは戦闘演習をやった。
直人は息を詰まらせた。すがるように、引きつる喉から一番知りたいことを絞り出した。
「相手は、動物?」
巡査は間をおいて、答えた。
ーーいいや。
やっぱり。直人は乾いた声でつぶやいた。
「そっか。じゃあオレ、シグマになって、誰かを」
服だけでなく手足も染め、髪もべたつくほどのおびただしい出血量が、自分の知らぬ間になにをしたのか物語っている。
モット壊シタイ。
赤い獣が血に染まりながら笑う姿を思い出し、直人は逃げ出したい想いで頭を抱えた。
円が水槽のなかで激しく回った。
ーー直人、ちがうわ。直人は誰も殺していない。直人じゃない。直人がやったんじゃない。
ーーそうだぞ、直人。俺も円も、もちろんソラも、直人がやったとは思っていない。シグマがやったんだ。
ふたりのなぐさめはただの同情にしか聞こえず、直人を救うにはほど遠い。
「違う。オレじゃなくても、オレが殺したんだ」
うなだれる直人に、巡査がゲージの間から鼻先を出した。
ーーちょっと聞け。事実上は直人の言うとおりかもしれない。でもな。なぐさめにもならないかもしれないが、殺したとは言いきれない。
直人はゆっくり頭を上げた。どういう意味か聞きたかった。
ーー確かにシグマは戦闘相手を殺害した。かなり無惨な死体だった。しかし相手は普通の人間じゃなかった。
「ふつうじゃないって」
ーー真田家という不死身一族の生き残りだ。直人は知らないだろうが、鷺宮ではかなり有名な奴だ。名前は真田一輝といって、外観は人とほとんど同じだが。直人!?
「一輝!?」
直人は突然、ゲージをつかんで激しく揺らした。白い犬は思わぬ展開に身を引き、眠っていた黒い犬は状況におどろいて頭を上げる。直人はゲージでは気が済まず、白い犬の胸あたりをつかんで怒鳴った。
「どういうことだ、それ! どうしてそこで一輝が出てくんだよ、巡査! なあ!」
シグマは戦闘演習の相手を殺した。それがまさか、よりにもよって、どうして一輝なんだ。どうして一輝を殺したんだ。何度言われようと、オレはあんな約束を守る気なんかなかったのに。直人は、わき上がる怒り悲しみすべてを巡査にぶつけた。
「なんで一輝なんだよ、巡査!!」
ーー落ち着け!
いきなり額を殴られたような衝撃に、直人は黙り込んだ。なにか当たったわけではないが、くらくらとした余韻が残る。巡査がかるく頭を振った。
ーーちょっと痛くさせてもらった。なんだ、直人は真田家と知り合いだったのか。
「一緒に、住んでた」
ーー知り合い同士を戦わせたか。どこまでもクソ野郎だな、あいつは。でも、それならばシグマが演習中にショートしたのも納得できる。
円は水球の中でせわしなくぐるぐると回る。
ーーあのね直人。よく聞いて。巡査も言ったとおり、真田家の死体をわたしも見た。だけど彼の死体がどこにもないの。どういうことかわかる。
「ないって」
直人はぽかんと問い返した。
ーーそう、ないわけ。運び出されたまではわかっているんだけど、そこから情報が途切れてるのよ。ハゲ聖は今、行方不明になったシグマのことしか頭にないから、このことに気づいていないわ。気づいたのはごく一部の所員だけで、回収にあたった所員もわからないらしいのよ。探してるみたいだけど、あいつらはそのままうやむやにするかもしれないわ。
ーーああ。俺の読みならば、奴らはクソ聖には真田家の偽物を見せておいて、あとは終わりにするだろう。もしばれたとしても、クソ聖も最後にはそうする。あのクソ野郎が恥をさらすことを許すわけない。シグマが行方不明ってだけでも大恥だというのに、倒したはずの戦闘相手もいない。証拠がないのに、シグマのなにをどう実証するんだ。証拠がなきゃただの妄想とおなじなのさ。
「じゃあ一輝は」
ーー不死身の真田家だ。今頃、どこかに隠れて回復を待っている可能性もある。なんたってこつ然と消えてるんだからな。
「どこかで生きてるかもしれないんだな」
ーーそういうことだ。
直人がほうっと胸を撫で下ろすと、乾いた血に指先が触れた。そのまま祈るように握りしめる。生きててくれ、一輝。頼むから。
ーーでもどこに行ったのか気になるのよね。わたしたちが直人を誘導したときには、まだ死体があったことは確実なんだけど。
直人はうなずき、ふと円を見やった。
「誘導ってなに、ほかに仲間がいるのか」
ーーあらどうして。巡査とソラちゃんとわたしだけよ。
「でも巡査はここから出られないんだろ。円も。じゃあ誰がオレをここに連れてきたんだ?」
ーー直人に歩いてもらったのよ。
悩む直人に円が苦笑する。
ーーます、戦闘演習でシグマが突然暴走したのがきっかけね。真田家を倒したあとだったかな。すごかったわよ。集計室にも攻撃したりして、大騒ぎだったんだから。
ーーそれは逆に俺たちにはラッキーだった。シグマがショートしてくれたおかげで、直人と接触できたからな。
「そうだったのか」
ーーそう。まず円とソラがテレパスで直人に接触した。しかし思考が完全停止していた状態だったから、どういたらいいか悩んだ。身体は無事だ。じゃあどうするって話になったら。
ーーソラちゃんが「直人が歩けたらいいのに」って言ったの。
ーーじゃあ試しにやってみるか、と実行してみたわけだ。ソラが直人と接触して、円がナビゲーション、俺が歩け走れ隠れろって脳に指示を出した。まあ、リモコン操作みたいなものか。できてよかったよ。
白い犬が笑い、直人もつられて苦笑する。
「ぶっつけ本番かよ」
ーーふふ。ソラちゃんに感謝ね。それに運も良かったんだと思う。きっとすこしでも直人の思考が残っていたらできなかった。所員はほぼ全員演習場に行っていたから、ここに着くまで誰にも会わなかったし。そうやって直人に歩いてきてもらって、ドアを開けて、内鍵をかけてもらって、そこに寝てもらってから、洗脳を解除したわけ。終わったあとはみんな疲れて寝ちゃったわね。直人が一番はやく起きたみたいね。そういうわけだったの。オーケイ?
「なんとなくわかった」
ーーグッド。
直人は息を吐いて座り直し、天井を仰ぎ見た。まぶしすぎない赤蛍光灯をぼんやりと見つめる。一輝は今どうなっているんだろう。
「あっちはどうなんだろうな」
ーー真田家の人のことならだいじょうぶだよ、直人。
少女の声とともに、黒い犬がおおきなあくびをした。おはよう、と巡査と円がやさしく語りかける。
ーーおはよ。直人、ぼくのこと、わかる?
「ソラ、だよな」
ーーああよかった、直人に戻れたんだね。うん、ぼくがソラ。
黒い犬はうれしそうに何度もうなずいた。元気な仕草に直人もつられて笑う。
ーーさっきまでぼーっとしてたんだ。はあ、やっと目が覚めた。あ、そうだ。直人。あのね。
「うん」
ーー真田家のあの人は今はお姉さんといるって。常川奏っていうのは直人のお姉さんでしょ、ふたりとも医務室にいるってファイが教えてくれたんだ。ファイは実験体でぼくの友達なんだよね。とても良い子で会えたらいいなあって思ってるんだけど難しいみたい。しょうがないよね。そうだあのねファイはシグマの双子の兄弟で女の子なんだけど直人はそれ知ってた?
ソラから口早で一気に聞かされた情報に、直人の思考が止まる。ぽつりと円が言った。
ーーソラちゃん、すごく良い子なんだけど、興奮すると早口になっちゃう癖があるのよね。上がり症っていうのかしら。
「ええと、なにがなんだって、ソラ」
ーーぼく、もう一回言ったほうがいい?
直人がソラの早口に面食らっている頃、一輝は医務室のベッドのなかで意識を取り戻した。まず自分自身が生きていることに舌打ちし、いつものように気配を伺った。どうやらベッドのなからしい。
記憶の奥では赤い髪が妙にちらついた。二度と会えないと思っていたのに案外元気そうで、髪をたなびかせて走り去った背中に安堵したのを覚えている。
一輝、またな。
鮮明に浮かぶ直人の姿に、わずかに身体を動かしたその瞬間。
「一輝くん!?」
「ぐっ!」
身構える間もなく奏が飛びつかれ、激痛を感じた。店の前で別れたきりだった奏の元気そうな気配に安堵する。
今だけは生きていてよかったと言うべきだろうか。
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