4 沈黙
医務室の扉に鍵がかけられ、気配が遠くなった。
静かになる。
ひとり残された奏は室内を探検しようとしたが、だるさと吐き気にあきらめ、ベッドに横たわった。白塗りの壁には窓がない。時計もない。あるのはしろい味けのないベッドと薬品棚とトイレだけだ。なにか探したとしても、それ以外なにもなさそうだ。
天井を見つめながら、今までのことを思い巡らせる。
「ここは医務室で、私は一応たすかったのよね」
つぶやきに答える人はいない。ひとりで考え事する時の奏の癖だった。メニューを考えているときもよくやっている。
ファイと名乗った彼女を思い起こす。私をたすけて、ここに連れてきた子。
「あの子はファイちゃんといって、マスターっていう人がいるのよね」
ひと違いなら殺すとか逃げたら殺すとか、ちょっと物騒なところはあるけど、悪い子には見えなかった。あれは本気ではなく、口癖かもしれない。
「いきなり出てっちゃったけど、なにかあったのかな。そうそう、変なこと言っちゃったな」
出ていく背中につい、いってらっしゃいと言ってしまった。今考えるとおかしく感じる。変なの。ここは私の部屋でもなんでもないのに。
シグマがいる、と誰もが言っていた。襲ってきた医師たち、たすけてくれたファイもだ。
シグマというのは直人を指す名前だと、今はわかる。どうしてそう呼ばれているのかわからないけれど、気にしない。奏にとって重要じゃない。
直人が来ている。ここのどこかにいる。
奏は、うれしさと安堵に泣きそうになった。
そして自分の非力さに情けなくなってきた。
元はといえば、私がうっかり捕まらなければ済んだことだ。ここがどれだけ危険なところか身をもって知った今、後悔が次々と浮かぶ。連れ込まれた車から、逃げ出していたらよかった。それよりお店の外に出されたとき、誰か助けてって叫べば……。
ごめん、直人。ごめんね。
姉ちゃんが人質になったせいでこんな所に向かわせてしまった。姉ちゃん失格だよね。直人になんて言って謝ったらいいんだろう。
だけど、それでも。
直人が来てくれて嬉しいと思ってるなんて。私はどこまで姉ちゃん失格なんだろう。
「あ」
ファイはもちろん、医者や看護師たちが、シグマと真田が戦っているというようなことを言っていた。もしかしてふたりは、銃や武器を持っている誰かと戦っているんだろうか。もしそうならかなり危険な状況じゃないだろうか。
「まさか。やだ」
奏は不安になってきた。
ふたりとも怪我をしていないだろうか。一輝はお店で見たように戦っているんだろうか。直人が撃たれていたらどうしよう。考えたくないのに、捕まるときに聞いた銃の発砲音や倒れていく男たちを思い出してしまう。もしもふたりがあんなふうに倒れていたら。想像するだけで身がすくむ。
「やだ」
奏は飛び起きてドアに手をかけた。
しかし開くわけがなく、ドアは微動だにしない。
あきらめると同時に、おさまっていた吐き気がこみ上げてきた。
吐くものか。吐き気がなんだ。ふたりを危険にさらしたきっかけの大きさに比べたらほんの些細なこと。
せめて逃げだせたらいいのに、今もここに居るだけだ。ふたりに何もできないのが悔しい。なんて無力なんだろう。
ドアを見上げ、何度めかのため息をついて彼らを想う。
直人。一輝くん。
無事でいて。
お願い。
突然、壁の向こうがあわただしくなった。
数名がワゴンを押しながら急いで入ってきたらしい。奏は驚いてドアから身を離す。
物音はドアの向こうで止まり、男性の低い声が聞こえた。
「よし、開けろ」
鍵が開けられた。奏は壁に背中をつけて身を固くする。押し入ってきた医師たちを連想し、襲われた恐怖がせり上がった。ああ、どうしよう。
しかし押し入ってきたのは医師ではなく、手術室の看護師のように緑の帽子と割烹着で身を包んだファイだった。
「ファイちゃん!?」
「常川奏、どけ。これを入れる」
「あ、はい」
見ると、ファイの後ろに大きな塊を乗せた車つきの担架があった。その向こうには、やせた白衣の男性がいた。あの声の主なのだろう。大きなマスクで顔のほとんどを覆っていて、目しかわからない。男性まで医務室に入ると、またドアに鍵がかけられた。
それにしても担架に乗っている塊からだろうか。密室にこもった血なまぐさい匂いに、奏は鼻と口をおさえた。肉屋や魚屋で嗅ぐ匂いよりもずっと強い。塊は緑色の布に包まれており、小柄な大人くらいの大きさで、あちこちから血が滲んでいる。いったいなにが運ばれてきたのだろう。
「よし。ファイ、そのベッドに乗せる」
「はい」
塊は運んできたふたりの手で素早くベッドに移された。からになった担架にはかなりの量の血溜まりが残っているのを見て、奏は息を呑んだ。
ファイが部屋から担架を運び出している横で、男性が奏に言った。
「これから真田一輝の処置を行う。言っておくが、再生しやすいようにするだけだ。ただ、献体としてもかなりひどい状態だ、一般人は見ないほうがいい」
「え?」
耳を疑った。
この人、サナダカズキって言った?
同居人の身長は直人くらいあるはずだ。しかし布の中身は、どう見ても小さすぎる。奏は状況が把握できず、ただ見つめ返すばかりだ。
「ここから出ていくのがいいんだろうが、そうもいかない。君はトイレにいくか椅子に座って、待機してもらいたい。いいね」
「それ、一輝、くん?」
おそるおそる尋ねる奏に、白衣はうなずいた。
「真田一輝だ。ファイも見ている。信じられないなら見てもいい。髪の毛ぐらいならかろうじてわかるだろう」
「常川奏、回収したのは私だ。確かにこれは真田一輝だ」
うそだ。
だって店の前で別れたとき、彼はきちんと立っていた。話していたじゃない。
だけど、どうして。
目の前の塊を見ずとも、充満する血臭が死を告げていた。
「君は真田一輝が死んだとでも思っているのか?」
男性のあきれたような声に、奏はきょとんと見返す。
「え。でも」
「死んでいるが、死んでいない。真田家のDNAは、肉体の破損がひどいくらいじゃ破壊されない」
「どういうこと」
「つまり、心臓をえぐっても死なないということだ。状況によって時間は左右するが、最終的には完全に肉体が修復される。君は真田家の性質を知っていると思ったが」
話しながら、男性はうすいゴム手袋をはめた。
「知ってたけど、本当に本当だったの……?」
奏も、一輝は人間じゃないから死なないと聞いたことはあった。でも見ていないだけに真実味が感じられなかった。
「疑うならそこで見ていなさい。ただ、私は君が倒れても放っておく。一分でも早く処置を終わらせたいんでね」
「い、椅子借ります」
奏は椅子に腰をおろして背中をむけた。見ていなくても、離れたくなかった。
「ファイ、はじめるぞ」
「はい、マスター」
「頭部からいこう」
布が解かれたのだろう。血臭がさらに濃くなり、想像すら拒否したくなる会話が耳に入ってくるので、奏は意識を手放さないよう必死になった。やっぱりトイレにこもっていたほうが良かっただろうか。
「よし、おさえて」「はい」「やわらかいから気をつけろ、崩すなよ」「はい、マスター」「ファイ、それを」「はい。マスター、これは」「眼球だな。そこに置けばいい、そうだ」「はい」「骨の角度を合わせて。できるだけでいい、そうだ」「マスター」「肺っぽいな。じゃあこちらに」
はやく、はやく、はやく。
終わってほしいのか逃げ出したいのか、奏は落ち着かない気持ちをなんとか抑える。
ファイ、マスター。はやくして。彼を助けて。
ふと奏はひとつのことに気づいた。
そういえば、マスターという人はどういう人なんだろう。どうしてこんなことをしているの? 私はまだこの人になにも質問していない。
「今、話してもいいですか」
男性が答える。
「構わない」
「あなたはいったい誰なの。ファイちゃんのマスターっていう人?」
「確かに私はファイのマスターだ。誰かから聞いたのか」
「ファイちゃんが」
ああ、と笑み混じりの返答が聞こえ、奏もわずかに緊張が解けた。いい人なのかもしれない。
「あなたはあの医者たちの仲間なの」
「おおまかに言えば仲間に属するだろう。だが、私は君に危害を加えない」
「ここはどこ」
「私の研究室についている医務室だ。それ以上は言えない。言えば君に後々悪影響を及ぼす」
「私たちをどうするつもり」
「どうって。君と真田一輝をここから逃がすつもりだ。その時は家までファイに送らせる」
「本当に?!」
信じられない言葉に、奏はふり返った。
マスターは背中を向けたまま話し続ける。
「本当だ。だからよく聞きなさい。ここにいる間、私が君と真田一輝をかくまっていることは、誰にも気づかれてはならない。これは重要項目だ。いちおう言っておくが、ここで私の味方はファイしかいない。ここにいる以外の人間は、どんな奴だろうと君たちの敵だと思っておきなさい。掃除も断っているから誰も来ないだろうが、もしもの時もある」
「敵……」
「誰かに感づかれたら最後、君は今までよりひどい扱いを受けるだろう。私もただじゃ済まないはずだ。あいつはそういう奴だからな」
「あいつって」
「名は言えないが、私の嫌いな奴だ」
「じゃあ私や一輝くんを助けてくれた理由って、そいつが嫌いだから?」
「それも多少あるが」
彼は肩越しに奏を見やる。
「シグマに関わった人だからだ。見殺しにはできない」
「シグマって、直人のこと」
「常川直人だ」
聞きながら奏は、なぜか涙があふれそうになった。誰かと直人の話をすることが、ひさしぶりだったからかもしれない。この人は今の直人のことを知っているのだろうか。
マスターは目線を手元に戻し、ふたたび処置に取りかかる。
「直人も来ているって聞いたわ」
「ああ。来ていた」
「それなら直人もここに連れてくる? 直人も一緒に帰らなきゃダメよ。あの子ひとり、置いていくわけにいかないわ。直人を呼びに行けないなら私も協力する。ねえ、直人はどこにいるの?」
奏は話していくほど、心に陽が射すような気がした。このよくわからない研究室から三人そろって脱出し家へ帰るようすまで、ありありと浮かんでくる。それぞれ笑い、安堵に満ちた足取りで、一緒に「ただいま」と言う。腹がへったと直人がぼやく。一輝が直人をこづく。おふろが先よと私が笑う。やさしい光景には今にも手が届きそうだ。
しかし奏の期待に反して、返ってきた答えは暗く冷たいものだった。
「シグマはここから出さない。ここを出ていくのは君と真田一輝だけだ」
奏は言葉を失った。
マスターは、医師が病状宣告するように淡々と続けた。
「出たら、ここであったことはすべて忘れること。そしてシグマ、いや常川直人の痕跡を消すこと。生活用品はもちろん、映っている写真まですべて処分しなさい。できるなら引っ越もしたほうがいい。海外がいいだろう。処分が終わったら、二度とシグマの存在を口にしないこと。常川直人ははじめからいなかったものとして生活することだ。いいね」
この人はなにを言っているんだろう。
奏は呆然としながらも言い返した。
「ここであったことは誰にも言わないわ。でも直人は? どうして直人だけ? 痕跡を消すっておかしいじゃない。まさかひょっとして死ん」
「死んではいない。生きている。だからシグマはここに残し、はじめからシグマとして存在させる。ここを出た君はあるべき日常に戻ることができる。これですべてが元に戻る」
「元に戻るって、どういうこと」
マスターはいらついたようにふり返った。血まみれの手元を上げた姿は、手術中の医師のようだ。
「いいか。まず、シグマを出すことは無理だと言っている。そもそもシグマは世間に存在してはいけない」
「どういうことよ?!」
奏は上司の胸ぐらをつかんだ。はずみでベッド上の一輝も軽く揺れる。ファイの髪が赤く変色したが、マスターから目で制されて黒に戻る。しかし今にも奏に手をかけんばかりだ。
「ファイ、動くな。常川奏、聞きなさい。これは納得できなくても、理解してもらうしかないんだ。ひいては君のためでもある」
「私なんかどうでもいいの。どうして直人だけダメなの!? 納得なんかできるわけないじゃない! 直人は私の弟よ。小さい頃から一緒に育ったの。今はたったひとりの私の家族なのよ」
私は直人がいないと生きていけない。直人のいない日々は考えられない。監禁されている間によくわかった。私には直人のすべてを取り上げられた日常なんてあり得ない。
「第一、はいそうですかわかりましたって、あっさり忘れられるわけないじゃない。家族っていうのは亡くなってもずっと覚えていくものなのよ! 直人が存在しないなら私も存在しないようなものだわ! 処分なんかしないし、直人は私と一緒に帰るの!!」
「帰ったところでもう常川直人じゃない」
「直人じゃないって。シグマだからとでも言うの」
「そのとおりだ」
「意味がわからない」
「常川直人として眠っていたシグマが、ここで完全に覚醒した。覚醒したからには二度と常川直人にはならない。日常生活に戻すなどもってのほかだ」
ちょっと見なさい、とマスターはファイに視線を向けた。奏も白衣から手を離してファイを見つめる。
「ファイ。作業中断。マスクとキャップを取れ」
ファイは言われるが早いかマスクと帽子を取り、手を下ろして起立する。無感情で人間味がなく、ロボットだと言われたら信じそうな雰囲気だ。直人にはない。
しかしファイと直人は別人だとも言いきれない。ふたりは目元や鼻、口の形まで、あまりにも‘似すぎている’。
「気づいてるかもしれないが、ファイとシグマは一卵性双生児だ。つまり常川直人とは本当の兄弟になる。ファイにはさらに髪質など改良を加えられているが、DNAレベル的にはほとんど同一だと思っていい。おおきく違うのは育成環境くらいだ。ファイ、コンディション確認」
とたんに彼女の髪が伸び、同時に赤く変色した。波打つ髪は天井につくほどの巨大なアゲハ蝶を象り、視界は赤色一色になった。
「髪は訓練次第で自由に操れる。ライオンも締め殺せるし、毛先一本に毒を塗れば毒針になる。強度を上げたら鍵も開けられる。私はファイに常川奏を無傷で救出し、ここで待機させろと命令した。ちゃんと遂行したようだな」
奏はうなずいた。実際、無傷で救出されてここに連れてこられた。
赤い蝶は溶けるように黒のセミロングへ戻り、ファイは機械の目でマスターを見つめた。
「コンディション良好。命令をどうぞ」
直人と同い年の少女の発する感情のない声色が、どこか哀しい。
「よし。今の作業を続けろ」
「はい、マスター」
マスターは奏に視線を戻す。
「見てのとおり、ファイは人間兵器だ。今は私の命令通りに動く。だからファイにマスターと呼ばれているのだが」
「兵器? 人間でしょう?」
「人間だが、兵器だ。意志はない。インプットされたマスターの意志に沿って忠実に動くようDNAが組まれている」
「そんなことが」
「目の前にして、あり得ないと言えるかね」
奏は黙るしかなかった。
「そしてこれが常川直人の本当の姿だ。シグマという人間兵器だ」
「違うわ」
「私の話で納得できないなら、真田一輝に聞けばいい。彼が証人だ」
「証人って、どういう意味なの」
「それも聞けばいい。ファイ、ひとりにやらせてすまなかったな。作業を続けよう。トレイを」
「はい、マスター」
それきりファイのマスターはなにも答えなかった。
奏は力なく壁にもたれかかる。
いつも生き生きしていた直人が、ファイのような機械の目をしているなど想像できない。
だが、反論したくても、なにも浮かばないのも事実だった。
奏がはっきり言えるのはひとつだけ。
「直人は直人よ。私の弟なのよ……」
ベッドの上の一輝は最終的に一面布で覆われた。そしてベッドに沿うように、簡易ベッドが設置された。奏の場所だ。
「日に何度かファイをよこす。必要なものがあればファイに言え。準備させよう。ほか、なにかあればその場で大声を上げるといい。監視カメラが二十四時間稼働している。すぐかけつける」
ふたりは医務室を出た。疲れきっていた奏はうつむいたままなにも言わなかった。
間をおいて換気扇が稼働した。しかし血臭はあいかわらず漂っている。
「一輝くん」
一輝の腕のあたりをさすろうとした。しかし肉体の感触がなく、すぐ手を引く。
奏は目を伏せ、そのまま静かに立っていた。
狭い医務室のなかを、換気扇の音だけが低く響いていた。
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