3 ゲームセット
シグマにとって真田一輝は、やせていて武器もないくせにしぶといという、すこし苛つかせる戦闘相手だった。捕らえようとしてもするりと身をかわし、反撃もせずに冷たい視線だけ投げてくる仕草は、かなり苛つかせる。
まあイイ。今は好きなダケ箱の中を逃ゲ回ッテいたらイイ。捕らえたらユックリとなぶり殺してやル。まず手か足ヲ折る。這って逃げ回るのを追イつめて、背中を貫ク。どんな声を上げるダロウ。うめき声か、ソレとも悲鳴か。どちらにしろ最後ニ頭ヲ落として終ワリ。フフ。想像するだけで楽シイ。
しかし突然、身体が動かなくなった。ナゼダ。
敵の言葉に耳ヲ傾ケルなど時間ノ無駄。戦闘ニハ無意味な行為だ。それなのにワタシはなぜ聞くのを止メラレナイ。
「約束はどうした」
約束など知らナイ。知らなイが、そう言い続ける者はドコカに居たような気がすル。ソイツは不敵な笑みを浮かべては、必ズこう言ッタ。
‘約束しろ’
‘お前が俺を殺せ’
なんだコレハ。ワタシがなぜマスター以外の声を知っている。
「奏さんはどこだ」
知ラナイ。しかしなぜか胸部に激痛が走り、頭まで痛くなってくる。そもそもコイツはなにを言いたいノダ。
「奏さんまで忘れたか。まったく、どこまでも無様だな、直人」
ふいに知らない女のほほえみが横切った。誰ダ。この存在はナンダ。こんなモノは知らない。こんな女は知らない、いや知っている。その女は陽が射すように笑い、声をかければふり返り、やさしく見つめて自分の名を呼んだ。
‘直人’
「姉、ちゃん……っ」
自然と口から出た言葉は、ワタシは単語すら知らない。
頭痛はしだいにひどくなっていく。おさえても割れそうな激痛は止まず、とうとう膝を折った。激痛は思考を締めつけて熱を帯び、熱はマグマのごとく、さまざまな記憶を勢いよくあふれさせる。
日だまりのような店内に行くと、カウンターに立つ奏が、顔を上げて自分に向かってほほえむ。横から一輝がエプロンを放りなげてくる。早くしろと冷たく言うが、視線はどこかやさしくて。
どうして忘れていたんだ。オレはなにやってるんだ。
心配顔の一輝が向こうから駆け寄ってくる。あんな顔させてるってことはオレがなにかやばいことになってるんだ。でもそれがわからない。頭が痛くて吐きそうだ。オレになにが起こっているんだ。なあ教えてくれ――一輝!
のばされた一輝の手を取ろうとした時。
「シグマ!! マスターである私を忘れるな!!」
「がああああ!!」
下された命令が脳天を貫き、さらなる激痛に身体をのけぞらせて叫んだ。赤い髪はさらに空間をはりめぐらせて、おおきくうねり、あらゆるかたちの渦をつくる。思考は熱の限界を超え、焼き切れた。
命令を遂行しようとする想いに入り交じる殺戮への熱望と、命令を拒否する想いを抱えつつすがりつきたい救済への切望が、ひとりのなかで激しくぶつかりあった。直人でありシグマである者は互いに記憶に抗い、命令に抗い、混沌に抗う。殺セ潰セ消エロ破壊シロ嫌だ苦しい助けて解放してすべてナニもかモ消エテなくなれ!!
聖と一輝が叫んだのはほぼ同時。
「シグマ!」
「直人!」
ざわり。
赤い触手は一度おおきく揺らぎ、一輝に向かって襲いかかった。
捕らえようと手足をねらって追いすがり、また新たに地面を突きさしていく。枝が割れて追う。寸前でまたかわされる。
はじめと変わらない攻撃パターンと見えたが、明らかに攻撃能力は上がっていた。シグマはやみくもに獲物を追うのではなく、今度は明らかに隅へ追いやっていく。一輝はいつしか壁を背に立っていた、背中を赤く染めて脇腹をおさえながら苦い顔をつくる。攻撃のひとつが肋骨を折っていた。シグマは獲物を追いつめた悦びに、聖と同じ笑顔をつくる。
一輝がシグマに向かって駆けだした。髪も射抜こうと立ち向かう。
しかし髪は寸前で敵を捕らえそこね、敵の冷たい手がシグマの喉に当てられた。そのまま首を絞めてくるのかと思ったのもつかの間、シグマは全身の力が抜けていくことを感じ取る。敵がどういう技を使ったのか確認しようとした時、無念と慈悲が入り交じった薄紫の瞳と目が合った。
「――残念だったよ、直人」
なにかを含んだ言葉がふしぎと胸をつき、同時に動揺もした。
ナンダ、コレハ。突き放されたようなどうしようもない孤独感と、どこか納得する想い。ふいに両目が熱くなって液体が流れる。ナンダ、コレハ。奥のほうでなぜか敵に詫びるような思いを感じつつ、意識がもう保たない。
かすんだ目を閉じかけたとき、声が響いた。
「シグマ! それが真田の力だ。肌の接触を許すな。振り払え!」
イエス、マスター。
目を見開くなり髪で手をくびり切ろうとしたが、寸前で逃げられた。
力が入らない身体では敵を目で追うしかなく、敵は手をひと払いして薄く笑う。
「なにをしている。ぐずぐずするな、立て」
マスターの怒りを含んだ声に恐怖が走った。かの声を不快にさせるなど、あってはならない。それはワタシの死よりオソロシイ。マスターはワタシのすべてダ。それに、力は入ラズとも、足が二本あれバ立ちあがることがデキル。
「シグマ。あいつを殺せ」
命令がすべての神経を駆けめぐった。殺セ。消セ。殺害セヨ。止メヲ刺セ。
「ふん。死にたいなら殺してやる」
敵の吐き捨てた言葉に対し、マスターの期待に満ちた声が演習場に響いた。
「聞け、シグマ。お前ならできる。あいつを殺せる。私のシグマならば確実にできる」
そうだ、自分ならできる、マスターに仕えるワタシなら……。
ふいに敵が目を伏せる。
「そうだな。お前は直人じゃない」
そして、目を上げた。
「それなら殺せる」
ああソウダ。殺シテヤル。
――オ前ヲ殺シテヤル!
「やれ、シグマ!」
ふたりが走り出した。
互いに目線を離さないまま、シグマは走る一輝の背後を次々と髪で突き刺し、次に足元を穿ってバランスを崩させたところを髪束が覆いつくし、さらに手を突き入れる。しかし手首を一輝に捕らえられ、今度は逆に地面に押さえつけられた。
喉に手がかけられるのと、赤い髪が顔面めがけて伸びたのはほぼ同時。
眼前でかわされた髪は宙を突き上げて天井のスプリンクラーを貫いた。
間をおいて演習場に大雨が降りだし、土に汚れたふたりは容赦なく水に打たれる。
「くそっ……!」
敵が動きを止めた。
シグマは見逃さなかった。
手を髪で包むなり、そのまま潰し折った。敵は激痛に顔を歪め、骨の砕ける感覚が髪越しに伝わる。
「ぐあああっ!!」
コレガ欲シカッタ。シグマは頬をゆるませる。
次に足首を締め潰し、横になぎ倒して馬乗りになった。形勢逆転、雨が打ちつける中で動けない一輝を力の限り地面に押さえこんだ。もう逃がさナイ。
逃げ回っていた活きの良さはすでになく、青ざめた顔をひきつらせ、顔面を水に打たれながら身をよじりあえぐ。上腕を突き刺してやると身体が痛みに揺れ、引き抜くと穴から血が流れ出した。
「クク」
楽シイ。楽しくてタマラナイ。尖らせた髪先で顔や胸、腕をゆっくり舐めてゆく。怖いか。怯えろ。どこに穴ヲ開ケテやろうか。どこを切ッテやろうか。腕をチギッテ。足をモイデ。ある程度痛めつけタラ解放してもイイ。恐怖にこわばった顔で無様にのたうちナガラ逃げ回る姿ヲ笑ってやる。首を折ルのは最後だ。殺シテしまったらせっかくの楽シイ時間モ終わるカラ――。
「ククク」
抑えたまま髪で一輝の左耳を貫き、横に引いた。血とともに肉片が飛ぶ。獲物は片耳をうしなった痛みにうめき顔を歪めつつ、紫色の瞳で強くにらみ返してきた。
「直……人っ」
止めろ止めろ止めろ止めろもうよせいやだ止めろ!
また胸がざわつき、ささやくナニカに身をこわばらせる。イッタイなんだ。これはその瞳のセイか。
黙れと言わんばかりに髪を横一閃させ、両目を斬り潰す。それでも攻撃を引き留める声は止まらず、動揺はさらに胸を突き上げた。これ以上やるとコイツは――。
「殺せえっ!! 首を絞めあげろ、くびり落とせ!!」
マスターの声に動揺はぴたりと止んだ。
今ダ。
首に手をかけて一気に締め上げ、じきに敵は軽い痙攣を起こして動かなくなった。
頸動脈完全停止。呼吸停止。――戦闘相手、死亡確認。
終わった。
集計室で上がったのだろう喝采を背に、マスターの誇らしげな声が演習場に響いた。
「シグマ、よくやった!! すばらしい!! さすが私のシグマだ!!」
誰でもないマスターから賞賛を受けて、シグマは満足気に死体を見下ろす。
ソウ、とうとう殺シテやった。理由のわからない記憶が湧き上がって動揺した時もあったが、コイツはもう二度と動かナイ。この手で殺シテヤッタんだカラ。
――約束どおりに。
「……う」
突然浮かんだ言葉になぜか戦慄し、身がすくみあがった。
眼下の無惨な死体は、今起こった事実を無言で見せつける。
一番見たかった状態なのに、一番見たくなかった。
そう、この男だけは殺してはならなかった。
いや殺してヨカッタ。
でも殺したくなかった。
だけど絶対に殺シテやりたかッタ。
だから殺シタ。
絶対に殺したくなかったのに。
確実ニ殺シテしまった。
それも、自分の手で。
いやだ。
いやだ違うまさかそんなハズがないそんなことはないのに彼を殺シタのは彼を突キ刺シタのはこの耳もこの目も命も奪ッタのは――。
「うああああ!」
叫び声を上げるとともに髪を高く振り上げ、一気に突き下ろした。死体は胸を突き刺されて跳ねる。
しかし、消エナイ。
恐怖ノ源ハ消エナイ。ドウシテモ消去シナイ。ナゼダ、死ンデイルノニ。生キテイナイオ前ガナゼ在ル。ハヤク目ノ前カラ消エロ、消エテシマエ。
髪を振り乱しながら、水に打たれて冷え切った死体の腕に爪を立てた。肉を傷つけ血がにじんだ。さらに髪の毛で死体の骨を砕き、潰し、胴を穿つ。爪で肉を掻き、引きちぎる。それでも死体は消えるどころか、印をつけるように血を流した。同時にこの身まで赤く染めていく。雨は未だ止まず、ふたりを中心に赤い川が流れていった。
「どうした、シグマ! やめるんだ!」
叫び声がしたが、かまわず死体を切り裂いた。コイツヲ完全ニ消サナケレバ、ワタシガ消エテシマウ。
「私はお前のマスターだ! マスターの命令が聞けないのか!!」
突然、髪束が集計室を襲いかかった。防弾ガラスは割れ、器材と研究員たちをもどしゃぶりに晒した。突然の出来事に気が動転した研究員達の中で、ひとり聖が声を荒げる。
「暴走を止めろ! 誰かモルヒネをうて!」
研究者数名が暴走したシグマに駆け寄ったが、行き着く前に胸を貫かれて放り投げられた。警備員も同様に死体となり、誰かがつぶやいた。
「あれじゃ射殺するしか……」
「射殺!? 間違っても射殺するな! 私のタイプHだぞ、なんとしても生かして捕らえるんだ!」
「しかし室長、警備が銃口を向けただけであれじゃ……」
聖が返答に詰まった時、シグマの暴走が止まった。
まるでなにかを聞きつけたように、動きを止めたのだ。
呼ンデル。
――直人。直人、聞こえる?
頭のなかにはっきりと子供の声が聞こえる。動きをとめて周囲を見渡すが、該当するようなモノは見あたらない。聞き覚えのない名だが、どうやらワタシを呼んでいるらしい。ナンダ、誰ダ、ヤメロ、来ルナ、イヤダ。
――直人、怖がらなくていいよ。もういいんだ。もういい。
モウ、イイ……ノか……。
髪がふわりと落ちた。
――もういいよ。じゃあこっちに来て。直人をたすけたいんだ。
声のやさしい導きに死体から立ちあがった。まさしく今、たすけてほしかった。死体から、自分から、すべてからたすけてほしかった。
――苦しいなら、そこに居る必要はないよ。ドアを開けて廊下に出てきて。ドアは左後ろ。オートロックは今解除するから。
声の導くとおりに、ふらついた足取りでドアに向かう。集計室から絶叫する声は屋内中に響いているのに、耳に届かない。
「どこへ行く! くそっ。はやく止めろ。警備、なにをしている! 出口を塞ぐくらいしろ! シグマ、おい!! マスターの声が聞こえないのか!? シグマ!!」
ドアの前に屈強な警備員が立ちはだかったが、髪で貫いて捨てた。ドアは自然に開いたので、そこをくぐった。
呆然と見送った研究員たちに、聖が怒鳴りつける。
「新人、なにをぐずぐずしている! 追え、行って連れてこい!」
幾数名が集計室を飛び出したが、すぐに戻ってきた。報告内容はさらに聖を突き落とす。
「室長、いません!」
「なぜか水滴がすぐそこまでしかなくて……」
「そんなわけあるか、この役立たずがっ。いいから探しだせ! くそっ。途中までは順調だった。いったいなにがあったんだ」
血走った眼で怒鳴る聖に、遠野が声をかけた。
「真田はどうします」
「うるさい! 今はそれどころではないと見てわからんか、クズ! だから貴様はいつまでもクズ止まりなんだっ。ええい、ゼク室に持っていけっ。全パーツ標本指定だ、言い出した貴様がやれ! ついでにここの片付けも貴様がやれ! ひとりでな。その暇そうな面構えにぴったりだ。残りは捜索にあたれ!」
あちこちから返答が上がる。
「ああくそ、データも台無しだっ。おい、水を止めろ、止めろというのがわからんかっ。どいつもこいつも役に立たんクズばかりだな。いいかシグマを見つけろ。見つけたらすぐ私の研究室に連れてこい。第五段階まで一気にぶちこんでやるんだからな! 導入時は指示通りだったんだろうな。管理状況は。なんだ、はっきり言え!」
聖は当たり散らしながら研究者達を引きつれて出ていった。
ひとり残った遠野は、静かになった集計室から演習場をゆっくり見渡した。
さすがに水は止められたが、穴だらけのグランドにはいくつもの水たまりができている。壁はもちろん、天井も大小さまざまな穴があった。ここはしばらく使えないな。
新たに呼び寄せた警備員に研究員らの死体の回収を指示しつつ、真田一輝の遺体のそばに行った。遺体の状況を見つめて、あらためて息をつく。こんなに無惨な死体はひさしぶりに見た。
血液と泥にまみれて判別しずらいが、無傷な部分はあるだろうか。内蔵もどれくらい残っているかわからない。まさしく完膚無きまでに攻撃したのだ。
‘マスター’が無効化するほどの何かあった事には違いない。でなければ集計室まで攻撃対象にならないだろう。なにがあったのか、真田は知っているだろうか。
真田一輝。シグマの情報を得るために、いつか接触したかった。ここから再生するかどうかもあやしいが、わずかな可能性だけでも、あればあきらめないのが科学者だ。
遠野は警備員に気づかれないよう、また小さなボタンにつぶやいた。
「私だ。ゼク室で待機」
同じ頃、導かれた先でシグマは声だけを聞いていた。
案内してくれた子供がうれしそうに話す。
――やっとここに来たね、直人。ここならもう大丈夫だよっ。
――シグマシグマシグマシグマ来た来た来たあ来たああああ。
――ほらほらあまり騒がないの。いくらここでも、誰かに気づかれちゃおじゃんよ。
女の声が騒ぐ子供をなだめるように割って入った。
――直人、ひさしぶり。私がわかるかしら。あの時怒ったお姉さんよ。覚えてない?
問われて、走る頭痛に顔を歪める。
男の声がなつかしそうにつぶやいた。
――覚えていないだろう、あの時はまだ何もされていなかったしな。……直人。ソラが言ったとおりたすけてやる。眠れ。
合図もなく、意識が遠ざかった。
――俺ができるのは気絶までだ。あとは頼むぞ。
――うん。巡査もごくろうさまっ。
――さあさあやるわよ。ソラちゃん、呼びかけお願いね。
――うん。
――さあ直人……どこまでも深く眠りなさい。深層意識の奥まで沈むのよ……。
――がんばれよ、直人……。
意識は遠くなり、どこか深いところへゆっくり沈んでいった。
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