2 彼女
『直人。もう一度言う。あの約束を忘れたわけじゃないだろうな』
データ集計室は静まりかえっていた。
グランドにいくつもの穴を開けるほど激しい攻撃を見せたシグマが、真田の一言で動きを止めたのだ。研究員たちは固唾を呑んで、それぞれの出方を見守る。
遠野も祈るようにディスプレイを見つめていた。真田がまた口を開く。
『それに直人。奏さんはどうした。会えたのか』
問いかけに聖がほくそ笑んだ。
「実はもう会えないんだよ。真田の思っているとおりにはいかないんだ、残念だったねえ」
残酷なささやきに、遠野は静かにうなずいた。
そう。思っているとおりにはいかないんだ――聖。
奏は急かすようなノックに飛び起きた。看護師を先頭に四,五名の医師が現れ、あっというまにベッドを取り囲む。奏は医師達の珍しいモノを見るような視線から逃げることもできず、じっと身を固くしているしかなかった。こんなことは初めてだ。ぜったいなにかあるに違いない。
「ふむ」
すぐ脇に立っていた中年の医師が、顔を上げた。
「状態も安定してるし、いいようですね。じゃあ今から出しましょう」
とたんに医師達の雰囲気が明るくなった。
「早いうちが良いでしょう。それこそ一秒でも早く」
「今すぐ手配します」
「おい、あっちに電話入れろ」
「よかったよかった。これで進められるよ」
「一時は中止まで出たもんなあ」
どういう意味? 出るということは、解放される事なのだろうか?
意味を聞こうとしたとき、すぐ手前に年配の看護師が腰を下ろした。
「常川奏さんね。はい、こんにちは。ここの総師長の斉藤です」
「あの、出るっていったい……」
「常川さん、ずっとこんなところに閉じこめていて、本当にごめんなさいね。すこしやせちゃったかしら。悪いことしたわね。でもこれも、あなたの身体を思ってのことなの。許してちょうだいね。弟さんのこと、すごく心配されてたんですってね。弟さんはこちらに任せて、あなたは安心してちょうだいね。大丈夫、弟さんは元気にやってるわ」
温厚な笑顔とやさしく人情あふれる口調。さらに直人の存在を出されて胸がつまり、目頭が熱くなる。
「つらかったわね。でももう大丈夫よ」
言われて、嗚咽が止められなくなった。大丈夫、これで解放されるんだ。私はこの人たちにここから出してもらって、家に帰るんだ。そして直人に会うんだ。
直人。早く会いたい。会ったときはきっと怒られるだろうけど。
‘姉ちゃん、どこ行ってたんだよ、心配したんだぜ’
赤い髪を揺らしながらそう言って、それから。
‘帰ってきたなら、もういいけどさ。おかえり、姉ちゃん’
そんなふうに笑って許してくれるのまでわかる。今帰るからね、直人――。
涙がおさまったとき、総師長に腕を取られて袖もたくし上げられた。
奏は驚きに言葉も出ず、見返すだけ。
「動かないでね。ちょっと注射するだけですから」
「ちゅう、しゃ?」
総師長に銀色のトレーが差し出される。総師長は奏の腕を捕らえたまま、空いている手でそこに乗っている注射器を手にした。
「なにする気!?」
奏は腕をふりほどいて下がった。それでもベッドの上でのみだが。
医師が顔を覗かせる。
「常川さん、大丈夫ですよ。ちょっと眠ってもらうだけです」
「そうじゃなくて。私、ここから出られるんじゃ……」
「ええ、この病室から出ますよ」
「じゃあどうして注射をするの」
「今から献体になるからです」
聞き覚えのない単語に、奏は悪寒が走った。意味はわからないけど嫌なものだ、それもかなりの。緊張に息が上がる。
「あなたを隅々まで検査しましたが、結果は健康そのものでした。骨も内臓も、まさしく理想の献体なんです」
総師長が満面の笑みを浮かべた。
「常川さん。献体になるのはとても光栄なことなのよ」
奏は埒があかない状態に叫んだ。
「献体ってなに! さっきからわけわかんない事ばかり言って、私を殺すって事!?」
「逆ですよ。死んでもらっては困るの。脳死の状態になってもらうだけ。ほらね、恐いことはなにもないわ」
奏はせり上がる恐怖にあえいだ。自分を見つめる慈愛に満ちた瞳は、どんな話も通じない連続殺人犯そのものに見える。
「脳死って、なぜ」
「健康な卵子を取り出すためよ。冷凍保存の卵子にくらべて、取り出したばかりの生きた卵子は、DNAの融合スピードが大きく違うの。あと、子宮よ。これ以上素材の育成場所にぴったりな場所はないわ。ただ、数がすぐ足りなくなるのよ。なぜか二年保たずに衰弱して死ぬのよね。どんなに管理しても、そうなのよ」
どうしてかしらね、とつぶやく総師長に、医師達もうなずく。
「じゃ、常川さん」
総師長は慈愛の瞳で奏を見つめ、奏に救いをほどこすかのように手を差し伸べた。
「そういうわけで、あなたを待ってる人たちはたくさんいるのよ。そんな子供みたく壁に貼りついていないで、こちらへいらっしゃいな」
奏は全身で悲鳴を上げた。
ここは狂ってる。そう思うと一秒でも居たくなかった。
総師長を突き飛ばし、医師団の間をすり抜けようとした。しかし医師たちに両腕をあっけなく捕らえられ、床へうつぶせに押さえつけられる。
それでも暴れる奏に総師長が怒鳴りつけた。
「じっとしていなさい!」
「いや!! 離して!!」
「最近の子は本当にうるさいわね。話が通じない子ばかりで疲れるわ」
誰かが笑いをこらえて言った。
「総師長、聖課長の娘は特別ッスよ」
「そうなの?」
「離して!! 私はそんなものにならない!! 直人のところに帰るの!!」
奏は全力で身をよじり、腕をひねる。注射針はじっとしていない奏をなかなか刺せないようだ。
押さえつけている医師が面倒くさそうに言った。
「あきらめなよ。言っておくけど、あんたの弟はシグマになって、今頃は戦闘試験中だ」
「そうなんだよなあ。くそ、生で見たかったぜ。相手は真田家だろ」
「シグマと真田家、どっちが勝つかな」
「体力差で真田家だと思うね。死なないし」
「まあな。でもシグマもなかなか良い動きするらしいぞ。知ってるか、部隊を全滅させた話」
奏は耳を疑った。シグマ、死なない真田家……まさか。
動きを止めた隙に腕を押さえられ、注射針が突きたてられた。
「いやあ!!」
注入される液体の冷たさを感じながら、奏は泣きそうになる。
「いや……直人……っ」
針が引き抜かれ、医師たちの手からも解放された。逃げなきゃ。すこしでも遠くへ。
起きようとしたが、あえなく床に倒れる。身体は鉛のように重く、意識もぼやけてきた。
「やっとおとなしくなったわね。じゃあストレッチャーを」
「はい」
涙すら出ない。視線すら動かせない。医師達の薄ら笑いを見ながら、総師長の声を聞いているだけ。
私、このまま直人に会えずに死ぬの? うそでしょ。直人、うそだよね……。
乱暴にドアが開いた。
「来た来た……って。おい、ストレッチャーは?」
「見ない顔だな。新人か。迷子になったのか? 入ってくるんじゃない」
「ここは今取り込み中だ、戻りなさい!」
なんだろう。部外者が来たんだろうか。
「邪魔」
女の子の、かわいらしくも冷たく吐き捨てた言葉のあと、医師達の叫び声が病室に響く。銃声も上がったけど、すぐに止んだ。
なにが起こってるんだろう。目を開けたいけど、まぶたは上げられそうにない。だめだ、眠い……。
静かになったあと、女の子が耳元でささやいた。
「常川奏か」
奏はかろうじて目を開けた。
たくさんの赤い糸が目の前に垂れている。 まぶたは落ちてしまったが、あの糸に似た物をよく知っている。
身体を糸のようなものでしゅるしゅる包まれていくのを感じながら、奏は眠りに落ちた。
来てくれたの? 姉ちゃんを髪で守ってくれるの? 直人……。
腕に針が刺さったような感覚に、奏は意識を取りもどした。なにかが注入され、引き抜かれる。なにを注射されたのか興味すら浮かばない。それくらい思考は動かなかった。
ここはどこだろう。消毒薬の匂いがする。重いまぶたをこじあけた時、あの赤い糸が側から離れようとしていた。
「直人……!」
奏は全身で、一束の糸に飛びついた。といっても、片手で髪を追うことが精いっぱいだったが。
「覚醒したか」
そっけない少女の声に、奏は驚き、すこし落胆した。直人じゃない。
「解毒剤を注射した。まだ寝ていろ」
「……誰」
目を開けて、奏は目をぱちくりとさせた。
看護師姿の少女だ。しかし普通の少女ではない。
直人のように赤く長い髪を揺らしていたのだ。直人以外に赤くて動く髪を持つ子がいるとは思わなかった。よく見ると目元や鼻、口の形まで直人に似ている。直人が女の子だったら、きっとこういう子になるだろう。
直人と決定的に違うのは、髪が何度か波打つとセミロングくらいにまで短くなり、同時に黒く変化して落ち着いたことだった。奏はぽかんと見つめる。
「髪……」
「コンディションを確認していただけだ」
無表情でぶっきらぼうに答えるのも、直人と大違いだった。
奏が寝かされている所は小さな医務室らしい。窓もない無機質な空間で、病院のベッドと薬品棚しかない。身を起こそうとすると、めまいと頭痛に吐きそうになった。ひどい二日酔いみたい。奏はあきらめて横たわっていることにした。
助かったのだろうか。それとも献体になるために連れてこられたのだろうか。どちらにしろ、まだ家には帰れなさそうだ。
「確認する。お前の名前は」
直人似の少女に問われ、奏はすこしむっとした。
「そっちが先に言えば」
「私のことはどうでもいい。お前の名前を聞いている」
「言いたくないって言ったら?」
「人違いと見なして、殺す」
「……常川奏」
少女の髪が首元へ伸びてきたので、どこか安心していた心は消し飛んだ。やっぱり直人と大違いだ。
髪は元の位置に戻り、少女はひとつうなずく。
「歳は。家族構成も言え」
「……歳は二十六。家族は二人、いや、三人ね」
「家族構成がおかしいな。監禁中に記憶障害を起こしたか、それとも」
彼女の鋭い視線にあわてた。
「ちょっと待って、人違いじゃないわよ! 戸籍上は直人と二人よ。でも今は一輝くんが居候してるから、まとめて三人って言ったの」
「それならそうと言え。じゃあ今は西暦何年何月だ」
奏は息をつくと、質問に答えていった。ここまで真面目すぎるのも困ったもんだわ。
しばらくして、少女は腕組みしてパイプイスに腰をおろした。冷たくて偉そうな態度はまったく崩れない。店ではお客さんの心境を態度から読み取れていたが、彼女がなにを考えているのか読み取れそうにない。
「お前を常川奏と認識する」
「どうも」
「常川奏。お前はここにいろ」
奏は少女をにらんだ。
「ここって言うけど、ここはどこなの。それに私は献体とかいうのになっちゃうんでしょう。それはいつ? やるならいつやるか教えてよ、覚悟決めるから」
自分で献体と言って、ふるえが走った。今にもここで殺されるような気がしてくる。
しかし少女の答えは、奏の想像と大きく違っていた。
「ここはマスターの医務室だ。常川奏は献体にならない。ここで保護となる」
奏はほっとしつつ信じられない思いで、少女を見つめる。
「私、助かったの?」
「助かったかどうかは知らない」
「でも今、保護って」
「ああ保護した。そして、逃げようとしたら殺す」
「保護しておいて殺しちゃうの?」
「常川奏がここにいることは極秘だ。情報が漏れる前に殺す」
「わかった。わかったから何度も殺すって言わないで。逃げないから。あなたの言うとおり、おとなしくここに居ます。確実に献体になって死ぬより、監禁されていたほうが多少はマシかもしれないし」
「そうしろ」
「ねえ、トイレとかご飯は?」
「トイレはそこだ。食事は知らない。マスターが指示するだろう」
「マスターって」
「マスターはマスターだ」
どうも話が通じにくい。聞いたことだけ答える、まるでロボットを相手にしてるみたいだ。
奏は頭をかきながら、ひとつ聞きたかったことを思いついた。
「ねえ。あなたの名前は?」
「ファイ」
「ファイちゃん、か」
ファイは怪訝顔で奏を見つめ返した。
「なんだ、その敬称は」
「女の子ならちゃん、でしょ。ファイさんっていう感じもしないし、ファイ太郎とかファイ子ちゃんとかはイマイチだし。うん、やっぱりファイちゃんって感じ」
「……好きに呼べ」
ファイの眉間にシワをつくって目を反らす仕草に、奏は胸がいっぱいになった。なつかしい。直人が機嫌をそこねた時も眉間にシワをつくって目を反らしていた。
「ファイちゃんって直人に似てるね」
「シグマと似てるだと? 嫌なことを言うな!」
冷静そうだった彼女はとたんに髪を赤く伸ばし、乱雑に波打たせた。まるで直人が怒ったときのように。
‘姉ちゃん!’
奏はくすくす笑った。
「ごめんごめん。ホント、直人が居るみたいなんだもん」
「シグマはここにはいない。真田一輝と戦闘演習中だ」
奏は聞きたくない言葉に硬直した。ふたりがなにやらと戦っていることには変わりないらしい。
「ねえ、ファイちゃん。シグマって直人のことでしょ。直人と一輝くんが戦ってるって、どういうこと?」
「言葉どおりだ。シグマは今、真田一輝を相手に演習室で戦闘している。真田一輝が倒れたら、次は私がシグマの戦闘相手と管理担当から言われた。しかしこれは決定ではなく」
ファイが話を止め、左袖に耳を傾けたあと、小さく返答して腕を下ろし、立ち上がる。
「マスターの命令が入った。私は行くが、常川奏はここから出るな」
「なに、どうしたの。まさか戦闘……」
「違う。いいな、ここから絶対に出るなよ。出たら殺す」
奏はおとなしくうなずいた。
「行ってらっしゃい、ファイちゃん。気をつけてね」
ファイは扉を閉める寸前、顔を出した。
「行ってらっしゃいとはなんだ。なにかの暗号か」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます