アフターグロウ レベル2 深淵

羽風草

1 ステージ

 遠野はやせぎすの身体に鞭を打って、第一戦闘演習場データ集計室へ飛び込み、入り口付近で足を止めた。狭い一室は聖室長自慢のタイプHをひと目見ようとする研究員でいっぱいだった。だが遠野を認めるなり自然と割れた。聖の隣に続く道を、遠野はいやいやながらも通っていく。贔屓に対して羨望や嫉妬の言葉をささやかれながら。

「遠野さあん、遅いじゃないですかあ」

「アナウンス聞いてなかったんですか、もう開始五分前ですよ」

「さあ早く、早く。室長はずっとあなたを待っていたんですから」

 聞きながら、遠野はひそかに歯噛みする。聖は同期という理由で、なにかにつけ自分を呼び出していた。贔屓の目的は能力の差を見せつけるためだと、ここにいるうち何人が知っているだろう。

 今回もそうだ。本来は自分がシグマを手にすることを、聖も知っていたはずだ。それなのにまんまと先手を打たれた。

 計画では、常川直人を交通事故に遭わせてシグマを覚醒させ、そのまま自分の管轄下に置くはずだった。だが事故はおろか怪我さえ負わせることもできず、失敗を室長の聖に責められた。頭を冷やせと短期の出張に出されたが、戻りしだい計画を立て直すつもりだった。

 廊下にいた常川直人をどうして引き留めなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。あの場で躊躇することは、聖に取られるという最悪な結果までわかっていたはずなのに。考えるたびに行動できない自分が情けなく、恨めしい。

 遠野はひとり椅子に腰掛けている聖の隣に立った。聖は興味なさげに見やるだけ。

「遅かったな」

「すみません。出張報告書を書いてました」

「渡せ」

 聖の助手から投げるように渡されたプリントには、今回の戦闘演習に使われるタイプHの経歴が書かれている。遠野は読みながらあらためて悔やむ。

 家族を使っておびき出し、銃撃により覚醒に成功。その後、薬剤投与と洗脳を施行、同時に最低限の戦闘教育を施し、一クール修了。この間七日とは、あまりにも短すぎる。それも期間が自分の出張期間にはまっていた。聖が自分の不在時にすべてのカタをつけようとしたのはあきらかだった。どこまでも自分が優位だと見せつけるためにほかならない。

「言っておくが、シグマのマスターはほかでもない、この私だ。ここまで長かったよ。シグマが消えた時から私はずっとこの時を待っていたんだ。……遠野君と同じくらいにね」

 遠野は聖の胸ぐらをつかみかかったが、聖の助手に遮られた。

「遠野さん、落ち着いてください。戦闘演習を見ないつもりですか?」

「く……っ」

 強制退去させられるのはごめんだった。遠野は怒りに震える身をかろうじて抑える。

 聖は悠然とほほえみ、話を切り替えた。

「そうそう。お前のファイが出せないと聞いて残念だったよ。調節中だと?」

 遠野は頭を下げる。シグマを取られた今、ファイを聖の前に出す気はまったくなかった。

「申し訳ありません。ぎりぎりまで調整してみましたが、出せる段階には達しませんでした」

「指示を出したはずだ。小林の開発したD-XKがあるだろう。使え」

「無理です、できません。精神異常をきたす恐れがあるうえ、よくて廃人、最悪即死しますよ」

「そうか? シグマは耐えたぞ」

 遠野は信じられない思いで聖を見る。あのきつい薬をシグマに使ったのか。

「多少意識は混濁したが、おかげでかなり早く完成した。ファイにも投与しろ」

「できないんです。シグマと同一体でもファイは神経系が格段に弱く、出張先で行った遠心実験にすら七分で意識を失いました。D-XKなど投与したら心肺停止を起こします。商品価値が下がるのは確実でしょう」

「七分とはずいぶんなさけない結果だな。担当者に似てるのか。仕方ない、殺しては元も子もない。戦えるレベルになったらすぐ報告しろ。シグマと戦わせる。対ともいえる同一体だぞ、どちらが強いか見たいと思わないか」

「あいにく私はそういったことに興味ありません。室長命令ならばしかたないですが」

「ふん、本音はどうだか」

 遠野は視線をはずし、演習場を見た。ひろがる屋内グラウンドにはなにもなく、むき出しの土が煌々とライトに照らされていた。

 インターホンが鳴った。

「入れろ」

 聖の声に応えて演習場隅の扉が開き、警備ロボット‘キング’にはさまれた一人の男が現れた。細身でうす茶色の髪をした彼は、肩まである手袋と手錠をかけられている。グラウンドのほぼ中央に立たされ、集計室からはかろうじて表情が読み取れた。遠野は彼を見て、緊張した。だいたいの試験体は怯えの色を見せるのが常だが、彼は静かに、かつ毅然としていた。

 シグマの対戦相手、真田一輝。

 聖がスイッチを入れた。集計室天井隅に設置されている液晶ディスプレイが彼を映す。

「若い連中は特によく見ておけよ、かなり稀少種だ。……あれが現代に生きる吸血一族、真田家だ。こいつは実質二百歳を超えている。しかし注目すべきは肉体の再生能力だ。足を斬っても数日経てば元に戻る。首だけでも一年以上保つ」

 拘束が外され、きゃしゃともいえる手があらわれる。細い線、青白い肌、どこを見ても殴られたら倒れそうな外観だった。

「室長、なんか貧血で倒れそうですよお。あれじゃあ、シグマが来る前に倒れちゃいますって。血ぃ足りてないんじゃないですかあ?」

 誰かの軽口に集計室がどっと沸く。

「まあな。しかしかなりの筋力を持つぞ。門に居たキングの頭を片手で引きちぎったんだからな」

「じゃあ連れてきた室長はキングより強そうだなあ」

 また笑いが起こった。

「私は単に運が良かったんだよ。じつはあいつに会うのは二度目でね。元は坂井教授の研究素材だったのさ」

「あの坂井名誉教授ですよね」

「そう。十五年前、教授を壁に叩き潰して助手の私の目も潰し、研究室を半壊して逃亡したのはあいつだ。今回、見つけた時はうれしかったね。今度は私の手でていねいに研究してやるつもりだ。真田家の心臓が体外でどのくらい拍動を続けるか、おもしろいと思わないかね」

「いいですねえ、室長! ぜひとも日数を賭けようじゃないですか」

 盛り上がる取り巻きたちに構わず、遠野はひとり黙ってグラウンドを見てやり過ごしていた。聖の残虐度合は昔から変わらない。人の手足部分に馬やサルの足を移植したり、人の脳を動物に移植したりするのが好きなのだ。それも精神部分の研究だと言って人の意識を保たせる。研究そのものがすでに正気の沙汰じゃない。だからシグマを渡したくなかったんだが――。

 ふたたびインターホンが鳴った。研究員達が一斉に開く扉を注目する。

 現れたのは、聖の部下に両肩を支えられた赤い髪の少年だった。試験体用の簡素な濃緑色の服を着ているので、足下まで伸びている赤い髪がひときわ目立って見える。表情は青ざめやつれており、目は据わっていた。

 真田一輝から五メートルほど離して立たせたが、薬が効きすぎているのだろう、支えがなくなると足下をふらつかせる。

 ざわめく中のひとりが聞いた。

「本当に戦闘できるんですか、室長」

「朦朧としているだけで、精神は安定している。マスターの声で目覚める」

 あれがタイプH、コードネームはシグマ。

「シグマ……」

 遠野はこみあげる想いをディスプレイに問う。映っている姿からは、廊下で会ったときの生き生きとした面影はない。お姉さんを捜していたけれど、人でいられたうちに会えたかい? それとも、もう人であることも忘れてしまったか?

 聖がマイクに向かった。

「シグマ。聞こえるか」

 全員、その瞬間を見た。聖の声にはっきりと覚醒するシグマを。

 足はしっかり地を踏みしめ、髪を波打たせながらあたりを見渡す。なにかを捜しているのだ。

「シグマ、大丈夫だ。私はここからお前を見ている。さあ、前を見ろ」

 言われたとおりに目をやる。正面に立つ真田一輝は、興味なさげにシグマを見返している。

「あれが、今回のお前のターゲットだ。私の敵、お前のマスターの敵だ」

 うつろな瞳がみるみる意志を持つ。

「――命令だ。私の敵を殺せ」

 赤い髪が音もなく揺れて広がり、見事なアゲハ蝶が羽化した。そして、聖にも似た殺戮者の表情で笑った。覚醒した時と同じ笑顔で。


 赤い触手がターゲットを絡め取ろうと襲いかかった。ターゲットは寸前で転がり、止まったと思えばとびすさった。髪の触手はさらに土煙を上げて右に左にと追いすがり地面を突き刺していくが、なかなか捕らえることができない。あっという間にあたりは土煙で視界を奪われる。

 シグマがあたりを見渡していると、突然延髄に手刀を当てられて膝を折った。しかしその腕に髪をからめて締め上げ、真田は苦痛に声を漏らした。

 聖が叫ぶ。

「行け! そのまま腕をちぎり取れ!」

 真田の白いシャツに血がにじみだした。触手はさらに胸や首に巻きついていく。苦しみにあえぐ顔をシグマがのぞき込んだ時、真田が鼻先に頭突きを食らわせる。

 髪の束縛がゆるんだ隙に、真田は腕をかばいながら身を引く。シグマも右腕に一束巻きつけて槍のように尖らせ、体制を整える。互いに眼はにらみあったまままだ。

 同時に駆け出した。シグマは真田の顔面を突き刺そうとしたが寸前でかわされ、逆に髪をつかまれかける。とっさに髪を退きつつみぞおちに蹴り入れようとしたが、これもかわされて空を蹴る。そこを背後に回られ、背中に衝撃を食らって転んだ。横に転がり拳を避けて立ち上がる。

「シグマ、お前の武器を使え!」

 指示が出るなり一束の髪が蛇のように動き、獲物を打ち据えようとしなった。胴を斬りつけ足下の土をうがつ。避けようとする真田の手首を捕らえ、同時に別の束が横面を打った。ふらついたところを足払いし、あおむけに倒れた真田の腹を突き刺す。しかし横にかわされ、捕らえたはずの手にそのまま引っ張られて、体制を崩す前に髪をほどいた。勝負がつかないまま、またふたりは離れた。

 研究員たちも詰めていた息を吐く。

「いやあ、どちらもなかなか」

「どっちが勝つと思う」

「最後はやはりシグマがやるね。真田は丸腰だ」

「終わるまで時間かかるぞ」

「さあ今度はどう出るか。ほら、動いたぞ」

「――あ」

 集計室に緊張が走った。

 突然真田が向きを変え、集計室に向かって駆けてきたのだ。どこに隠し持っていたのか、ナイフを突きつけて。

 迷いなく見据える紫の瞳ににらまれ、遠野は身体がすくみあがった。狭い室内で研究員たちが逃げまどう中、聖だけが挑むように立っていた。

 来る。

 衝撃と同時に聖の眼前にナイフが突き刺さり、強化ガラスにヒビがが入った。真田がナイフを残して鮮やかに身をひるがえし、窓から離れたと思ったら、遅れてガラス全面に赤い髪が襲いかかってきた。研究員たちの悲鳴が上がる。髪は怒りに歯を剥くシグマと共にそこから離れ、主人の仇を討ちに立ち向かう番犬さながら獲物を追っていった。

 緊張がゆるんだ屋内で、聖ひとりがくすくす笑う。

「せっかく渡した得物を置いていくか。元に戻った時が最後だというのに。これだから愚かだと言うんだ」

 遠野は残されたナイフと聖のつぶやきが気になった。

 彼にとって必要な武器のはずだ。それを眼前の敵ではなく聖に向けて残していくとは、それほど聖が憎いか。

 それとも、別の目的があってのことか。シグマになった常川直人を取り戻す、とか。

 常川直人の生活環境状況は自分でも調べていたが、同居人の真田一輝が真田家の人間とまでは知らなかった。それも、人間を嫌う真田家が人間を守るなど、想像もつかない。気が向けば幼い子供もひねり殺す、それがあの一族だ。

 しかし彼はナイフを置いていった。

 思い起こすと、彼はまだシグマに致命傷はおろか腕の一本も折っていない。

 そして聖のつぶやき。

‘元に戻った時が最後だ’

 もしかしたら、これは。

「室長、ひとつ質問してもいいでしょうか」

「遠野から質問なんてめずらしいな。言ってみろ」

「真田はシグマの前形態だった常川直人と同居していたと聞いてますが、ひょっとして彼らの親密度はかなり――」

「遠野は誰よりもわかっているようで、うれしいよ。さすが私の理解者だ」

 聖は声を弾ませる。

「そう。あのふたりはそれこそ家族同然という間柄だったようだ。私も真田と話すまで信じられなかったが、常川直人について興味を示し、なんと常川奏の身も案じていた。あいつはこの機会にシグマを前形態に戻そうとするだろう」

「だとしたらこの演習は、はじめからシグマの仕上げに……!?」

「遠野は本当に私をわかっているね」

 含んだ笑いを浮かべる聖を、遠野は恐怖した。

 洗脳は抵抗されるほど難しく、完璧から遠くなる。だからマインドコントロールで自立心を奪い、より洗脳しやすい状況に陥れるのがいい。最も強力な方法は親しい者をその手で殺させること。殺害した記憶は罪悪感を呼び起こして自暴自棄になりやすく、誘導しやすい。薬を使って意識混濁している時はより効果的だ。

 聖はそれを狙っているのだ。真田一輝は常川直人の肉体に致命傷を与えられない。それを逆手に取ったのだ。かすかに残る常川直人の記憶を呼び起こし、家族同然の真田一輝を殺害させる。それにより常川直人の意識は罪悪感で崩壊するだろう。その時、シグマが完全に覚醒する。

 なんてことだ。

 遠野は茫然とディスプレイを見上げた。カメラはふたりの姿を淡々と映している。シグマの髪先が真田の額を切りつけ、血がわずかに飛ぶ。真田はとっさに打ちはらってシグマにつかみかかるが、髪のガードで届かない。

 集計室は異様な熱気に包まれていた。研究員たちは本来の目的を忘れ、戦いに一喜一憂し声援を送る者までいる。聖でさえいつもの冷淡さはなく、目の色を変え声を張り上げる。

「シグマ、そこだ! 奴の手足を折れ! 動きを封じろ!」

 皆、戦闘演習に釘付けだった。遠野が袖口のマイクになにかをささやく姿が目に入っても、誰かの歓声に遮られ、どうでもいいとすぐ忘れたことだろう。

 遠野は突き刺さったナイフを見つめ、祈るように目を伏せる。わずかに貫いた一刀はするどく、確かな鈍色の光を発していた。


 一輝はシグマから離れ、拳をかまえた。自分はシャツのあちこちが裂かれて血が滲んでいる。額から流れる血を拭った。大きく裂けていた傷は塞がりつつある。

 やりあってわかる、直人との違い。以前は試すために何度か喧嘩をしかけたが、直人は髪を使わなかった。使えても自在に操れることはなく、むやみに物を壊しただけ。その代わり喧嘩はそれなりに心得ているらしく、反応は良い。

 シグマは逆に髪を駆使するのが上手い。鞭になり、槍になり、針になって襲いかかり、つかもうとすればするりと逃げる。しかしシグマ自身は戦闘に不慣れで、先読みができておらず挑発にもすぐ乗る。髪を操っている本体を潰せば、この戦いは終わる。骨を折って動きを止めるか、生気を吸い上げて気絶させるか、いっそ首を折って殺すか。

 直人の部分が残っているかもしれないのに?

 己のかすかなためらいが戦闘を長引かせているのはわかっていた。

 姉が出かけているときにかぎって、姉のことをうれしそうに話していた直人。いつか自分も調理師免許を取ると言っていた。姉ちゃんと一緒に店をやっていくんだと照れ混じりで話していたのはいつだったか。その風景に自分はいないだろうと言ったら、しょうがねぇから居させてやるとふてくされた。ひとつ所に長居しない俺だったが、いつかふたりを看取るまで居てもいいかと思った。

 あの直人はいないのか。聖の言うとおり戻らないのか。あの時語った未来は二度と手に入れられないというのか。

 それでいいのか、直人!

 かつて直人だった者は足下まで伸ばしている髪をゆらめかせながら、こちらのようすを伺っている。

「とどめをさす前に、お前に聞きたいことがある」

 この場で見極めると決めていた。直人の部分がなければ殺してやると。それを確かめるには、あの時の記憶しかない。

「直人。俺との約束を忘れたわけじゃないだろうな」

 髪の動きが、止まった。

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