8 聖なる者

 人間ではとうてい聞き取れないかすかな機械音に、一輝は意識が戻った。あれは監視カメラが稼働している音だろう。

 瞼も上げず、自分の置かれている状況を真っ先に把握する。四肢の先まで感覚はあった。額を中心に肌がこわばっているのは、出血が乾いたせいだろう。逃がした直人の背中を確認した瞬間、聖に心臓と頭を撃ち抜かれたのだから。

 そこではじめて、目を開けた。どうやら狭い留置所に放り込まれているらしい。冷たく湿気った檻の中で、拘束衣を着せられて、コンクリ剥き出しの床に転がされていた。普通なら実験台に乗っている頃だが、聖は違う。一瞬の隙も逃さず俺を殺し、死体になった所で拘束衣を着せ、留置所に放り込んだといったところか。

 あの時に撃たれなかったら、聖を殺して直人を追っていた。俺の行動パターンをよく知っている聖だからこそ、一瞬の隙をついて殺したのだ。抜け目がない。だからこそ先に直人を逃がしたのだ。

 寝返りをうち、息を吐いた。拘束衣は生気を使えば引きちぎるくらいできそうだが、鷺宮にいる今、むやみに体力を消耗したくない。ただでさえ一度死んだのだ、生気もかなり消耗しているだろう。飲まず食わずでも完全復帰に三日はかかる。さてどうする。

 考えていると、足音が近づいてきた。三つ、いや四つ。

 看守に導かれて姿を見せたのは、聖と部下らしき二名だった。ノートパソコンを手にして聖の背後にひかえ、聖は檻の前に立ち、完全勝利者の笑みを見せた。

「おはよう、真田くん。怪我の具合はどうだね」

 どうせ監視カメラで生体反応を確認してから来たのだろう。一輝はそっけなく答える。

「診たいなら勝手に診ろ」

「それもそうだな。おい、横川。真田がどんなものか興味があるんだろう。いい機会だ、私の代わりに診てくるといい」

「いいんですか!? じゃあ、やらせていただきますっ!」

 選ばれなかったひとりの舌打ちを背に、研究員は嬉々として檻の中に入った。一輝は身動きせず、聖もなにも言わずに見守る。

 研究員に見覚えがあると思ったら、直人をエレベーターに誘導した本人だった。地下で待つ聖の元へ誘導した彼は今、診察すべく拘束衣のベルトをゆるめはじめる。一瞬で一輝は研究員の首を捕らえ、全生気を吸いあげた。あわれにも研究員は声すら上げずに事切れた。

 死体を無造作に放り投げて拘束衣を脱ぎだすと、檻の向こう側から拍手が起こった。生き残った研究員と看守が青ざめている手前で、聖ひとりが拍手を贈っていた。

「見事だ。隙あらば捕らえて殺す。さすがは真田家、すばらしい」

 一輝は黙って洗面所脇のタオルを手に取り、顔面の血を拭う。檻を破壊して聖を殺してもいいが、聖の出方を見ることにした。自慢話の好きなクズだ、直人の手がかりくらい吐くだろう。

 案の定、聖は話しはじめた。

「キミがいなくなってから十五年も経つか。あれから真田家はひとりも出なかったよ。かなり探したんだがね。きっとキミが最後の真田家だろう。どうだ、以前のように仲間が見つかるまでここにいないか。そのほうが、真田家の繁栄にも役立つんじゃないかね」

 ベッドに腰をおろし顔をそむけ、無言で返答する。

 聖は、そうかねとうなずいた。

「十五年。私も歳をとった。二百年以上生きるキミには一瞬だろうがね。あの頃にくらべて、ここも大きく変わった……。まずはキミが殺していった所長と課長の後任だが、これがまたもめてね。人事異動が激しくて、名前と肩書きを一致させるのに一苦労さ。これもやっと落ち着きを見せてきたところだ。あの頃新人だった私もね」

 聖は語る。当時新人だった自分は上司の研究を引き継ぎ、ひとりで開発した新商品が大当たりしたこと。今では室長にまで昇進したこと。そして思い出したように、一輝が忘れかけていたことを口走った。

「そうそう。私の真里亜が世話になったようだね」

 聖真里亜。いなくなったという奏の女友達の名前にほかならない。一輝はやっと返事をした。

「やはり、お前の娘だったのか」

「ああ。真里亜がキミに会ったと教えてくれたんだよ」

 一輝は舌打ちした。

「私が散々探しても見つけられなかった真田家を見つけるとは、真里亜は本当に出来の良い娘だ。父親として鼻が高い」

「自慢の娘は失踪してると聞いたぞ」

 しかし聖は悲しむどころか楽しそうに肩をゆらす。

「そうか、失踪になっているのか。あいかわらず世間は適当に人を判断している。真里亜は失踪なんかしてない。ちゃんと生きて、父親とともにここにいる。研究員としてではないが、それ以上に役に立ってくれているよ」

「素材にしたのか」

 一輝ははじめて顔をあげた。目の前にいる真里亜の父親は、苦笑して首をふる。

「人聞きの悪い。血の繋がった娘だぞ、素材なんてできるわけないだろう。真里亜はもっと重要なことに役立ってくれている。私たちの研究に欠かすことのできないモノであり、真里亜にしかできないことで、ね」

 怪訝顔の一輝に、聖は顎をしゃくる。

「言わないと理解できないのかね。研究に欠かせず、雌しか持っていない物と言えばわかるかな。そう、卵子だ。真里亜は卵子と子宮を提供してくれているんだよ。今は開発したばかりの遺伝子を持つ受精卵を温めてくれている。植物状態だから苦痛も感じない」

 一輝は胸悪くなった。鷺宮のやることに興味はなくても、嫌悪感は沸き上がる。

「生きた人間の胎内を試験管代わりにするのか。最低だな、吐き気がする」

「有効利用と言っていただきたいね。あの女もいずれそうなる予定だ。常川、奏といったかな」

「――聖、貴様!!」

 怒りに立ちあがる一輝に、聖は銃口を向けた。

「動くな。死体になってもう一度縛られたいか。今度は餌もそう簡単には与えないぞ」

 一輝は歯噛みした。診察と称して騙した研究員を餌と言いきったあたりから推測できた。入手した素材の状態観察と、同時に自分にとっての邪魔者を殺したのだ。このクズのこういったところは十五年前となにひとつ変わっていない。利用すべき物は利用し、邪魔者は容赦なく消すことも、浮かべている薄ら笑いも、なにひとつ。

「人間に情が移ったか。たかが女ひとりがいなくなるだけなのに、キミにそんな一面があるなんて、まったくもって意外だ。人間はすべて害虫じゃなかったのか」

「黙れ!!」

 聖は顎をなでながら目の色を変えた。

「怒るか。そうか、そうなのか。ははは。安心したまえ、今は診断結果待ちだ。状態優良とわかったら手足を落として脳死施術するつもりだったが、キミを見て気が変わった。施術はすこし待ってもいい」

 一輝は怒りを押し殺して聞き返す。

「なにが言いたい」

「あの女は私の管轄下にある。私が携帯で指示を出せば、優秀な部下たちがすぐにでも施術するだろう。女に無事でいてほしいなら、おとなしくここにいたまえ」

「おとなしくしていると思っているのか」

「あの女は肌が白くて、手足もほそくて美しいかたちをしていたな。きれいな腕を切り落とすのはもったいないが、その時はしかたない。いいか、キミがこの檻に触れたら女の腕をそこに転がす。真田くん、条件を飲むなら、そう怖い顔しないで座りたまえ。短気は起こさないほうがいいぞ」

 間をおいて一輝は腰を下ろし、聖も銃口をおろした。取引は成立したのだ。

「そう、おとなしくしていたまえ。シグマの後でゆっくり研究してやる。私の手で直々にな。真田家がどうして水を受けつけないのか解明しようじゃないか。生気を吸い上げる能力の解明も途中だったな。あの時剥いだてのひらの皮はすでに風化してしまってね、新しいのがほしいと思っていたんだよ。ああ楽しみだな、真田くん」

 どこまでも虫酸が走ったが、一輝はシグマのことを口にした事実に意識を集中する。聖の話し方から、どうやら既につかまったようだ。

「直人をどうした」

 聖は満足気にうなずく。

「そのことを言いたくてここに来たんだよ。準備しろ」

 聖は看守に指示し、檻の手前に椅子を置かせて、その上にノートパソコンを置いた。研究員が一輝に怯えながらも、液晶ディスプレイに画像を流す準備を始める。

「シグマを誘導してくれてごくろうだったね、真田くん。おかげで貴重なタイプHを傷ひとつつけずに入手できたよ」

 一輝は拳をにぎる。

「御礼に、シグマが覚醒した時の映像を見せよう。キミも気になるだろう。せっかく逃がしてやった常川直人がどうなったのか。これは隠しカメラの映像だ。よく見ておけ。滅多に見られない貴重な映像だぞ」


 そこに映し出されていたのは一方的な殺戮だった。

 ひとりに対しオーバーすぎる人数の特殊部隊がかもしだす緊張感も、ひとりに狙いをつけたいくつもの銃口も、愕然と立ち尽くす直人もよくわかった。

 硝煙を上げて銃弾が発射された時、直人は顔を反らしたと思ったら髪が一瞬で伸び、マントのように己の身体を包みこんだ。

 それでも銃は直人を撃ち続ける。赤い塊はわずかに微動しており、全弾命中しているのがわかった。

 銃が下ろされ硝煙がおさまった中で、髪一本崩れることなく立ったままのそれはどこか不気味だった。

 二人の隊員が、毅然とした足どりで近づいていく。

 先頭の隊員が手を伸ばした。

 その手首に一束の髪が巻きついた。つき従っていた隊員は腹に巻きつかれた。

 ふたりの隊員は抵抗する暇もなく、髪の束にそれぞれ手と胴体を分断された。

 動揺が走る間もなく銃口が向けられ、また容赦ない銃撃が再開する。

 しかし目標物は捕らえたままの隊員を盾にした。肉の盾はあっという間に蜂巣と化した。

 あわてたように銃撃が止むと、髪は死体を落とした。

 赤いマントがゆらぎ、中に潜んでいた者が姿を見せた。

 立っていたのは、直人のようで直人ではないように見えた。うつろで寝起きのような表情で、両手は力なく下げられている。驚いたことに、あれほど銃撃されたのに傷ひとつないようだった。

 足元まで伸びた赤い髪は左右に広がり、蝶の羽のように分かれ、一度あおいだ。足元に、雨のごとく銃弾が落ちるのが見える。

 特殊部隊に動揺がひろがった。

 応えるように、直人に似た少年が、にんまり笑った。

 とたんに過半数の隊員たちがあわてふためき、ライフルを捨てて、我先にと逃げだした。

 殺戮者も走りだし、ライフルを拾うやいなや、すぐ手前にいた隊員のうなじを撃ち抜いた。髪を伸ばして足をすくい、転んだところに引き金を引く。髪で首を落とされ、胸や背中を貫かれる者もいた。

 中には殺戮者に立ち向かう隊員もいたが、どの攻撃も寸前でかわされた。髪に手足を取られて動けなくなった者は、髪の羽先で左右からはさまれ、全身を髪に貫かれて絶命した。

 直人に似た者は、死体を落とすと、顔に返り血を浴びてもかまわずに、そのままなにかを探しはじめた。

 誰も動く者がいないように見えたが、ふりかえって視線を止める。硬直したように動けなかったのか、死体の中でひとりだけ、腰を抜かしたまま後ずさる隊員がいた。

 殺戮者はライフルを拾うと、隊員の足元を撃った。男は腰をひく。また撃たれる。今度は這いつくばる。尻を蹴りつけられて転ぶ。恐れ怯えきった顔が振り返ったとき、その顔面に銃弾が撃ちこまれ、原型さえわからなくなった。

 血と死体で埋まった廊下で、唯一立っている赤い髪の少年は、返り血でも体中赤く染まっていた。持っていたライフルでそこらの死体を適当に撃ちまくり、弾が切れたら、飽きたように銃を捨てた。

 立ちあがっていた髪がふわりと落ちた。疲れたように壁に手をつき、白い壁には赤い手形が残る。

 ふいにこちらを見上げた。カメラに気づいたのだろう。血に染まった顔はどこかぼんやりとして、目は焦点が合っていない。

 直人に似たそいつは、映像越しに一輝をにらんで、不快そうに一瞥した。

 とたんに一束の髪が蛇のように画面に向かって襲いかかる。

 そこで映像は途切れた。

 一輝は最後まで目を反らさずに見ていた。


 パソコンがしまわれ、椅子も元の位置に戻される。聖は自慢のおもちゃがうれしくてたまらないようすだ。

「どうだ、見ただろう。これがシグマだ。常川直人の人格の裏に、風化もせずにしっかり組み込まれていたのだよ! このあと催涙ガスでシグマを保護したんだが、麻酔を打つまで何人死んだかな。知っているか。シグマに潰されたあの小隊は、対クラスA級の高レベル精鋭部隊だったんだぞ。それをあいつはひとりで潰したんだ! 怪我ひとつ負わずに! 訓練もせずに、あそこまでの戦闘能力を見せるとはな。遺伝子に組み込まれている証拠だ。すばらしい、まさに人類が生み出した奇蹟の兵器、人類の最高峰たる存在だ!」

 一輝は冷たくあしらう。

「くだらん。SFXと同じだ。所詮人工的に造った化け物なだけだ」

「いいや、違うね。あれは本物だ。人類の進化した形のひとつだよ。シグマは最高だ。……あれは私の物だ。私の物なんだ! 遠野の腰抜けになど渡すものか! シグマはこの私の手で、最高傑作に造り上げるのだ!!」

 檻の向こう側で興奮しきっている聖から目をそらし、重々しく息をつく。

 戦闘、殺戮を好む、髪を駆使する人間兵器――シグマ。直人がシグマだと確信していたとはいえ、真実を目の当たりにすると、苦い想いがわきあがる。直人は殺人事件のニュースでさえ毛嫌いしていたのに、シグマは虐殺を楽しんでいた。真逆の姿は、もしかしたら直人は無意識にシグマを抑えていたのかもしれない……。

「まだ完成には遠いが、それも気にならん」

 一輝は顔を上げた。

「しばらくかかるような言い方だな。すぐにでもここから出してもらえると思っていたが」

「私もまったくもって残念だよ。覚醒したばかりだ、シグマが安定するまで一ヶ月はかかるだろう。今までの記憶を完全に消すのは時間がかかる」

「直人の部分があるのか」

 問いに聖は困ったようにうなずいた。

「ああ。記憶というものはやっかいでね。意外な部分に潜んでいたりするんだよ。ひとつを完全に消去するのがなかなか骨が折れる」

「じゃあ、元に戻ることもある、と?」

 聖はきっぱりと言った。

「いいや。一度覚醒したからには二度と元には戻れない。記憶は常に塗り替えられる。それと同じだ。だから、常川直人には戻らない」

 言っておくが、と聖はつけたす。

「覚醒はいつか起こることだったのだよ、真田くん。事故にでも遭ったり、ショックなことがあったり、ちょっとしたきっかけがあれば覚醒しただろう。つまりは、シグマである事実に変わりないということだ」

 一輝は目を伏せる。覚醒はいつか起こりうる事だったのだ。

「常川直人は自然淘汰され、シグマという新人類に進化した。進化したモノは退行できない。人は猿に戻れない」

「そうか……」

 しかし、まだ直人の部分があるなら希望はある。戻る可能性もあるかもしれない。

 一輝は聖に話を持ちかけた。

「聖。シグマに会ってみたいんだが」

 聖は冷たく返した。

「断る。シグマは私の物だ。今は私の研究室で調整中だが、安定したらより完璧を目指すべく様々な教育もしないとならん。不安定な状態のシグマとは、そうたやすく会わせられない」

 聖はなにかに気づいたように言葉を切った。

「そうそう、常川直人に会いたいという事なら問題外だぞ。その人格は完全に崩壊したと思え。わずかに残った記憶もすぐに消えるだろうし、お前と話したところで戻らない」

「会話なんかしなくていい。ただ見てみたいだけだ」

「そこまで執着する理由はなんだ」

「旧友の顔を見たいだけだ」

「旧友、ね」

 聞いて聖は考え直したようだ。

「私はまだ真田家の研究を捨ててはいない。そのためにはキミの存在が必要不可欠だ」

「それこそ、十五年経っても執着する貴様の理由はなんだ。しつこいにもほどがある。不毛な研究など時間の無駄と見限って捨てろ」

「ああ、しつこいさ。科学者は執拗に真実を追うものだ。私は真田家に興味がある。キミはシグマに興味がある。シグマは私の物だ。真田くんも私に快く協力してくれるというなら会えないこともないだろうが」

「断る」

「交渉決裂だな」

 一輝は話を切り替えた。

「じゃあ条件を変える。シグマと戦わせろ。どうせ戦闘演習するんだろう、その相手になってやる。結果、こちらが勝てば私を解放しろ。負けたらこの身体を好きにしたらいい」

「ほう」

「こちらの目的はシグマをどうこうしたいわけじゃない。生きている姿を見たいだけだ。どうだ、いい話だと思うが?」

 聖は目を輝かせた。

「真田家と戦わせる、か。おもしろい。おもしろいぞ。それはおもしろい」

「ただし一週間以内だ。延びるようなら適した食事を出せ。こちらも体力が落ちる」

「わかった。三日待ってもらおう。生気は手配する」

「交渉成立だな」

「その日までおとなしく待っていたまえ。変な考えは捨てろよ。その時は」

「わかっている。彼女が無事ならそれでいい」

「準備が整い次第、連絡する。シグマと真田の戦闘演習か、記録に残さねばな。実に楽しみだ!」

 聖は豪快な笑い声を残して出ていった。

 遠のく足音に、ひとり残った一輝はにやりとする。

 そして、どこかほっとしていた。

 これでまた直人に会える。いや、直人だった者というべきか……。

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