7 呼び名
一輝は大丈夫だ、大丈夫なんだ。だから今は姉ちゃんを見つけて帰るんだ。
前もって言われていたとはいえ、怪我をした一輝を置いてきた罪悪感が頭から離れないけど、それでも言われたとおりにするしかない。逃げて、奏を捜しださないと。
「どこだよ、くそっ」
直人は乗ってきたエレベーターを目指して走っていたつもりが、つきあたった取っ手のないドアを殴って唇を噛んだ。オートロックは蹴っても壊れそうにない。
まてよ。オートロックなら、奥になにかありそうだ。もしかしたらこの奥に姉ちゃんがいるかもしれない。
キーに触れると、番号が脳裏に浮かぶ。物は試しと直感のとおりに押すと、驚くことにロックが外れた。
「やった」
いけるかもしれない。きっとこの向こうに居る。オレを待ってる。直人ははやる心を抑えられず、ドアが開ききらないうちにくぐった。
そして、足を止めた。
「あれ。ここは……」
はじめて来た場所なのに、右手にある壁の傷に見覚えがある。
嫌な予感がして、ふるえる足どりで、ゆっくり進んだ。見るな、進むな、やめろ。心のどこかで叫んでも、目に飛び込んでくるひとつひとつを止めることはできなかった。
確かここはレントゲン室だ。その隣には水槽室、さらに奥には鎖のかかった重そうな扉があって、そこからいつもモーターの音がしていて……。
手探りの記憶とおりにそれらはあった。プレートにはそれぞれレントゲン室、水槽室、冷却実験室と書かれていて、錆びた鎖がさがる扉からは低いうなり声を感じ取れる。
直人は鎖にかまわず、扉に背中をつけて座りこんだ。
「なんだよ、ここ」
口でそう言っても、答えはわかっていた。夢で見たとかじゃなく、確かにオレはここを知ってる。
名前は第一ラボ。何度も連れてこられた。いやだった。コードにつながれ、電流みたいなのを流されて、痛くていやだと叫んでも痺れる痛さは止まらなかった。水槽室では溺れそうになったこともあった。口と鼻の奥に水が入ってきて、すごく苦しくて死ぬかと思った。
直人は手で顔を覆う。
なんで。どうして苦痛をなめらかに思い出せるんだ。なにも経験していないのに、昨日まで続いていた日常よりも、こっちのほうが肌で知っている気がするのはなぜだ。ここがおかしいのかオレがおかしいのか、誰かに聞きたくても誰もいない。さっきまで隣にいた一輝さえも――。
別れる前に、一輝が見せたこともない怪訝顔で変なことをつぶやいていた。
‘妙な違和感を感じてしかたないんだ’
一輝。オレはいったいどっちなんだ?
その時。
――シグマ!!
「うあっ!!」
いきなり男に怒鳴られ、直人は声を上げた。
見渡したが、人影やスピーカーなど見当たらない。なのに、声ははっきりと聞こえてきた。
――シグマシグマシグマー!
――あんたなんか嫌いよ! 来ないで、見たくもない! どこか行ってよ! でなければ殺してやる!!
――へえ、これがシグマ? ただのガキじゃないか。俺のデータを使うと聞いて鷺宮の想像力に期待したが、とんだ期待はずれだな。
子供の叫びと、女の罵声と、男の嘲笑。どれもはじめて聞く声だ。耳に直接聞こえてくる好き勝手な声たちに、直人は空中に怒鳴りかえした。相手が見えないからしかたない。
「オレはシグマじゃない!!」
子供が甲高い声でけたたましく否定の声を上げる。
――うそうそうそ!! うそ!! シグマ、うそ!!
――嘘をつくな。今、動揺して赤い髪を揺らしてるのがわかる。赤い髪を動かせる、それがシグマだと証明しているんだよ。
実際髪がざわついていたので、直人は寒気を覚えた。見てるのか。じゃあどこから見てるというんだ。
男は答える。
――見えているわけじゃない。イメージで伝わるんだ。マンガでもあるだろう、テレパシーというやつだ。気持ち悪いか。しかしこれは、元はといえばお前のせい。シグマにつける能力のひとつとして、試験的に俺たちにつけられたモノだ。
――それだけじゃないけどね。私たちをこんなふうにしたのも、そもそもシグマのためだったのよ。そのくせ結局使われなくて、やられ損もいいとこだわ。でも、テレパシーが通じるみたいですごく嬉しいわ。あいつらには聞こえなくても、シグマに通じるならそれで充分よ。私は、私をこんなふうにしたヤツをずっと待ってた。シグマ、今すぐあんたの脳細胞を破壊して殺してやる!
「やめろ!!」
直人は耳を押さえて叫んだ。
「オレは違う!」
――違うってなによ。試験体と完成体じゃ違うって意味?
「そうじゃない! オレはシグマじゃない!」
――じゃあなんだって言うのよ。言い訳なんかできる立場じゃないわよ。巡査、はやくこいつを締めて殺して!
――まあ、
――もう。いいわ、巡査殿におまかせする。でも話が終わったら、はやく殺して。こんなヤツ見たくもない。
――じゃあ意識を閉じてるんだな。さて。おい、お前。シグマじゃなければ誰だ。実験体ならIDコードくらいあるんだろ。コードはなんだ。外部の人間だとか一般人だとか、見え見えの嘘はやめとけよ。テレパシーってのは恐くてな、通話中は相手が思ってることも全部わかるんだ。腹の底までこっちはお見通しなんだよ。シグマじゃないならお前は誰だ。答えろ。
「名前は常川直人! 高校二年!」
――普通の学生ってことか?
――どうせ嘘に決まってるわ。そんな頭で高校に通えるわけないでしょう。もし普通の子がここにいるとしたら、とっくに実験体になってるわよ。
女は聞く耳持たないといった口調だ。奏とは全然違う。
――奏って誰だか知らないけど、外で暮らしてるヤツと比べないでほしいわね。
直人はぎくりとした。そういえば全部わかるって言ってたっけ。
――だいたいねえ、普通だとしても、あんたのその髪は天然だっていうの? 両親もそんな髪だったらともかく。
「違う。オレの両親も姉ちゃんも黒くて普通の髪。オレ、捨てられてたのを拾われたから。家族だけど……オレだけ、どこも似てない」
――捨て子?
男の問いにうなずく。
「姉ちゃんがオレを拾ってくれたんだ。そん時は一歳くらいだったって聞いたけど」
女が打ってかわって静かに尋ねてきた。
――ちょっとシグマ。今、いくつ。
「直人だって言ってるだろ!」
――いいから。あんた何歳?
「十七!」
男女の声が揺らいだ。
――シグマが消えたのは確か十五年くらい前だぞ。破棄なのか売られたかは不明だが。
――最後に見たのは赤ん坊の頃よね。無事に成長してるなら年齢はだいたい合うわ。
――鷺宮にいたとしても、普通の子どもに変わりない反応だしな。もし本当に拾われて育っていたとしたら、つじつまは合う。仮定だがな。
――ちょっと巡査。子どもの言い訳を信用するの?
――でも嘘が上手い年齢でもないだろう。上手い言い訳ならいくらでもあるのに。ああくそっ、ソラが起きてたらこいつの思考スキャンしてもらったのに。
――ソラちゃんは巡査の隣で寝っぱなし?
――ああ。寝たら何しても起きないからな、こいつは。
――残念ね。せっかくシグマが戻ってきたってのに。小猿ちゃんもおとなしいけど、寝ちゃったのかしら。
――今は静かにしてもらいたいからな、ちょっと寝てもらった。シグマ。外に居たなら、どうしてラボに戻ってきた? 帰巣本能か?
直人は首を横にふる。
「シグマじゃない、直人だ。それに、戻ってきたんじゃない。姉ちゃんを取り返しに来たんだ。それまでラボなんか知らなかったし」
――なにも知らないのに、ここまで来れるわけないでしょう。
――シグマ、いや直人か。お前はオートロックを一発で入力できたよな。毎日入力していたら間違えもしないだろうが、知らないくせに、キーをひとつも間違えずに解除した。十桁もあるのに。偶然にしちゃおかしいと思わないか。
「オレはこんな所、本当に知らないんだよ! だけど押したら開いたんだ、それだけだ!」
そう、知らなかったんだ。それなのに記憶の隅で、ここを知っているとささやくしこりがある。
直人は泣きたくなってきた。
「オレは直人だ、シグマじゃない」
――いいや、お前はシグマだ。
「違う!」
――シグマだ。認めたくないかもしれないが、それは事実だ。
「うるさいっ! やめろ!」
――詳しく知りたいならここへ来い。培養室といえばわかるだろう。俺たちはここから出られない身の上なのでな。テレパシーも直人がラボに来た時に通じるようになっただけで、常に通じるわけではないようだし。
――そうね。培養室に来たほうが話は早いわ。生かすか殺すか、その時に決めましょう。シグマなら問答無用で殺してるところだけど、常川直人って子には興味あるわ。じゃ、そのまま培養室に来て。
「培養室……」
培養室。名前を聞いただけですぐわかった自分が憎い。確かにそこは自分がいた所だ。暗くて汚くて冷たくて寒くて、人とも獣とも判断つかない声がする、連れ出されては戻されていた場所。
「もう、やめろ!!」
直人は逃げるように廊下を駆けだした。
ここにオレはどこにも存在しない。昨日までのオレが消えて、シグマに染まってしまいそうだ。
会いたい。姉ちゃんと一輝に会いたい。会ってオレの名前を言ってほしい。お前は直人だと。でないと気が狂いそうだ。
いくつか廊下を折れ、自分でも知らない所に出た。記憶の呪縛から逃れて、張りつめた気持ちがゆるむ。
しかしホッとしたのも束の間、はるか先の誰かが叫んだ。
「シグマか!!」
聞き慣れない女の子の声に、身体の芯からざわついた。近寄ってはいけない声だと本能が叫び、髪先まで嫌悪に揺れて、きつく縛っていたゴムがはじけ飛んだ。
グレーのパンツスーツを着た彼女は向こうから全速力で走ってくる。肩にかかるほどの黒髪がみるみる赤く変色し、おおきくひろがった。
あれは。
直人の髪も少女と同じようにひろがるのを感じた。理性がぜんぶ吹っ飛んで、止められなかった。なぜかわからないけど、立ち向かってくる存在にいなくなってほしかった。理由なんかない、こいつだけはこの世から消したい。
拳をにぎって構える。来るなら来い、八つ裂きにしてやる。そう思わせる彼女がなんなのかわからないけど。憎しみの形相で駆けてくる少女も同じ事を考えていると感じた。オレと同じこと考えてんだ。
目前に迫った敵に直人は叫ぶ。
「なんだよ、お前!!」
「シグマこそなんだ!!」
少女の伸ばされた手が拳に届く寸前。
「リセット!!」
「う、くっ」
男の声に、彼女は停止した。くやしさに顔をゆがめ、直人をにらみつける。
なにが起こったのかわからず、直人も身体を止めた。
声は再度、叫ぶ。
「ファイ、リセット! 起立!」
「……イエス、マスター」
彼女はそうつぶやくと、髪がすばやく元の状態に戻り、姿勢も起立した。
あらためて見ると、同じくらいの身長で同い歳くらい。どこかで見たような顔つきで、今は目を伏せている。
ひとつの足音があわただしく近づいてきた。
白髪交じりの短髪に頬がこけた、細くて背の高い男だ。スーツ姿で肩で息をしながら、彼女の肩に手を置いたまま咳き込む。
「出張から戻った早々暴走して、どうしたんだ。そっちも誰だかわからないが」
男が肩越しに直人をのぞきこみ、目を見開いた。
「シグマ!?」
青ざめた表情で、彼女を押しのけて直人の両肩をつかむと、激しくゆさぶる。
「なぜここにいるんだ!? 外でなにかあったのか!?」
「離せ!! ここに来いって言ったのはそっちだろ! 姉ちゃんを返せよ!!」
「お姉さん? 返せって――まさか」
男はなにかに気づいたのか、少女をかえり見る。彼女は直人を殺すような視線でにらんでいた。
「ファイ、命令だ」
男の言葉に少女が姿勢を正して視線をうつす。
今だ。
直人は男を突き飛ばした。
「どけよ!」
「直人くん!?」
名前を呼ばれたにもかかわらず、直人はふたたび逃げた。このわけがわからない現状から、はやく逃げたかった。
「わけわかんねえ。なんなんだよ、ちくしょう」
次から次へといったいなんなんだ、ここは。
直人は今度こそ誰もいない廊下で、壁によりかかって息を整えた。つかれた。ものすごくつかれた。走りすぎて足はふるえているし、頭もくらくらしているし、眠りたい。髪も肩にかかったままだから、首がむれて熱い。
なんだか頭の中のずっと奥のあたりから、変な感じもしてきた。ずっとこんな所にいるからだ。耳もおかしくなったらしく、ラジオのノイズみたいな音まで聞こえてくる。
“……け”
ノイズが声をかたどり、直人は背筋が寒くなった。
頭の奥にある異物感はしだいにはっきりとして、ノイズはさらに強くなって、おおきなうねりとなった。
“ど、け”
低くざらついた悪魔のような嫌悪感たっぷりの声に、直人は恐くて身がすくんだ。それになんだよ、どけって。いや、これは耳鳴りだ。もしかしたらテレパシーかもしれない。あいつらとはぜんぜん違うけど。
悪魔の声はさらに大きくなる。
“ジャマ、だ。……どけ”
「なんだって」
聞き返そうとしたとき、左右からたくさんの足音が近づいてきた。
自衛隊、いや、特殊部隊とかいうやつだ。黒いヘルメットと戦闘服、盾の間から見える銃はなんていったっけ、アサルトなんとかっていったような。彼らが数メートル離れた先で、左右にびっしりと立つ。はさまれた直人に逃げ道はない。
「目標、シグマ! 構え!」
きりっとした号令に合わせ、彼らは整然と銃を構える。銃口をすべてひとりに向けて。
標的にされているのに、直人は指一本動かせず、かえってぽかんとしていた。映画のロケを見ているようで、現実感が感じられない。このままではヤバイと頭ではわかっているのに。
“どけ”
なにが。
急に頭の奥でなにかが顔を上げた。そいつは嫌な笑いを浮かべ、ノイズのうなり声をあげた。
“オマエはいらない。ソコをどけ”
「撃て!!」
直人は急に意識が遠くなった。ノイズと銃声を聞きながら、最後に見たのは一面の赤い色だった。
姉ちゃん……。
「いやあああっ!!」
暗い部屋で、奏は叫びながら身を起こした。
鼓動が痛いほど胸を打ち、全身は汗でじっとり濡れていた。
嫌な夢だった。直人の夢だったのに、本当に嫌な夢だった。なにもない暗い所に立っている直人がいて、そこから戻ってきてもらいたくて、必死で止めようとしていた。直人、そこはとても危ないの。こっちへ来て。早く。直人も自分のほうへ手を伸ばしてきた。とたんに直人の足元が崩れ、弟はそのまま闇に落ちてしまったのだ。
見ると、時計は四時を指していた。あれからまだ数時間か……。
奏は暗い部屋の中で、ふいに浮かんだ予感に身をふるわせた。
近づいてくる。
なにかわからないけれど、近づいてくる……そんな気がした。
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