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 奏はふと時計を見た。

「二時……」

 ベッド脇の窓から見える夜空は暗く星もない。地上一五階なら、すこしは見えてもいいと思うんだけど。ふたたび枕に頭を沈めると、枕元にナースコールがあることに気づいた。いくら立派な部屋でもここは病室なんだわ。

 灯りも点けずに身を起こした。シングルベッドに机、液晶テレビ、ポット、小型冷蔵庫に電子レンジもあった。快適なホテルの一室みたいでも、外から鍵がかけられているなら豪華な牢獄にすぎない。

 すごくだるい。今日はいろいろありすぎた。

 一輝くんと別れたあと、車は郊外まで走っていき、そこで後ろ手に手錠と目隠しまでされた。その後あちこち連れ回されて、目隠しと手錠がはずされたら、ここだった。

 目の前で若い看護師が笑顔をうかべて立っていて、目隠しと手錠をポケットにしまいながら、奏の置かれた状況を説明してくれたのだ。

「こんにちは、常川奏さんですね。私があなたの担当です。これからすぐに人間ドックの一泊二日コースを受けてもらいますので、私が案内していきます。最後まで、よろしくお願いしますね」

 奏は聞き返した。拉致された先が人間ドックなんて、どう考えてもつながらない。

「人間ドックって、どうして? 捕まえておいて、なんで健康診断なんかするの」

「必要だからです」

「必要って」

「常川さんのように健康そうな女性でも、年齢や疲労によってになにか疾患があるかもしれませんから。それで教えてほしいんですが、生理は順調ですか? 妊娠の可能性は?」

 ぶしつけな質問に奏は怒りが沸き上がる。

「いきなり、なによそれ。答えたくない!」

「教えてもらわないと、よけいな検査をして痛い目に遭いますよ。それでも教えてもらえませんか?」

 一転して彼女の冷たい口調に、奏は思わず一歩下がる。やさしい口調が氷のようにつめたくなった人間は、ついさっきまで一緒にいた。その男とイメージが重なったとたん、彼女にも抵抗できなくなってしまった。

「わかったわよ、ちゃんと答えるから。……それでいいでしょう」

 看護師は満足気にうなずいた。

 指定のパジャマに着替えている間も、いくつか質問されていった。病歴のほかに一日のタイムスケジュールなんかも聞かれた。そのあとは看護師に誘導されて、レントゲンや心電図など検査室を巡っていった。婦人科だけは生理的に嫌で拒否したが、脅しに負けて診察を受ける羽目になった。注射一本で死ねる薬がここにはたくさんあるんですよ、と耳元で言われると、屈するしかない。死にたくなかった。

 検査室を巡る隙に逃げたかったが、逃げられるような扉はどこにもない。非常口前には恐い顔の警備員がいて奏をにらんでいたし、廊下は窓すらなかった。喋らない検査技師、看護師は彼女だけ、患者は自分だけ。あちこちまわるほど、ここの異常さにふるえた。

 この部屋に戻ってきた時は、時計は午後九時だと教えていた。看護師が冷蔵庫からトレイに乗った夕飯を出して、レンジで手際よくあたためていく。

「一応言っておきますが、部屋から出ないでください。この部屋はなんでも揃っているので、出る必要もありませんけど。洗面所に下着もありますから、どうぞ使ってくださいね。それと、ここは一五階で、窓は強化ガラスです。監視カメラもついていますから、変な行動をしてもすぐにわかります。私が言いたいことは、わかりますね」

 奏は返事のかわりに、ベッドに座りこんだ。

「では常川さん、おつかれさまでした。おやすみなさい」

「いつまでいるの。まさか死ぬまで?」

「結果が出るまでです」

 看護師はトレイを机に置くと、さっさと出ていった。施錠の音を聞きながら、奏はベッドに身体を横たえる。なにも考えたくなかった。考えられないくらい疲れていた。


 それからずっと奏はベッドにいた。用意された食事は食べる気になれず、横になったまま窓から空を見ていた。

 直人、どうしてるかな。怒ってるかな。怒ってるだろうな。ごめん、直人。一輝くんも、ごめん。がんばって助けにきてもらったのに、私がいたから、脅されて言いなりになって。

 直人の言うとおり、私がぼんやりしてたから、こんなことになったんだ。いつもやってるように、セールスお断りって追い出してたら良かったのに。全部私のせいだ。ごめん、ごめんね。何度謝っても謝りきれない。

 だけど、ここで謝っても遅いよね。私はここに閉じ込められてしまって、またふたりに会えるかどうかもわからないし。直人を呼ぶって言ってたけど、本当なのかもあやしい。

「喉かわいた……」

 空調で乾燥してるのだろう、さっきから喉がひりひりする。冷蔵庫になにかあるかな。

 ふらつく身体で冷蔵庫にたどりつき、ペットボトルを手にした。ふと机に置かれたトレイが目についた。あいかわらず食欲は湧かないが、食事をつくる仕事をしてるだけに内容が気になる。

「どれどれ。ちょっと見せてよ」

 夕飯は使い捨ての食器に盛られてて、まるで豪華な機内食だ。昔から出された物は全部食べる主義だったけど、箸を持つ気も起きないわ。

「エビチリ、サラダ、煮物に卵スープに」

 麻婆豆腐に目がとまったとたん、奏の記憶がはじけた。

 はじめて麻婆豆腐を作った時だ。

 あの頃はまだ両親がいて、食卓はいつも姉弟ふたり。私がつくった夕飯を、直人といっしょに食べていた。本を見ながら作った麻婆豆腐は、写真のようにおいしそうには見えなかったけど、直人は夢中になって食べてくれたんだ。

‘ごちそうさまでした! 姉ちゃんの麻婆豆腐すっげぇうまかった!!’

‘でしょ? なんとかできて良かった。そんなにおいしかった?’

‘うんうん。すっげぇうまいよ! 明日もコレがいい’

‘えー、やだよ。明日はイカの煮物って決めてるんだから’

‘いいだろ、だって姉ちゃんの作ったやつ、母ちゃんのよりうまいんだもん。姉ちゃん、いいだろ。また明日!’

 明日――。

 涙がほほを伝った。奏はトレイを押しやってベッドに潜りこんだ。もう見たくない。

 あの頃、続くと思っていた明日は、もう二度と来ない。元気だった両親は事故で死に、いつも隣にいた直人も、ここにいない。

 涙はあふれて止まらず、嗚咽が漏れる。直人を思い浮かべると、まっすぐな瞳をして、胸に飛び込んできそうな笑顔を見せた。

 姉ちゃん大丈夫だって、心配すんなよ。な。

 こんなにはっきり思い出せるのに、赤い髪にさわれないのがせつない。

 奏はふとんの中で涙をぬぐって自分を抱きしめた。

 直人。心で名前を呼ぶだけで、こんなに苦しい。最後に声を聞いたのは電話の向こうだった。すぐに来るって言ってたけど、本当に来てくれる? また会える? 私のせいで大変なことになっても、姉ちゃんって呼んでくれる?

 姉ちゃん、帰りたい。昨日のように、お店開けて、一輝くんと三人で笑って過ごす日々に帰りたい。直人と離れ離れになって、わけわからない所に閉じこめられてそれっきりなんて、ぜったいイヤだよ。

 私は出られないけど、ここにいるから。だからはやく来て、直人。今すぐ目の前に来て、私を呼んで。でなければ、夢に出てきて。お願い、直人――。


 直人は雑草を踏む足を止めて顔を上げた。自分のすぐ隣にそびえる建物は細く高く、塔みたいだ。何階建てだろう。そもそも、なんだこれ。

「なあ、ここ病院なんだよな。じゃあこれも全部病室なのかな」

「知るか。早く来い」

 一輝が先に行ったので、直人はあわてて背中を追った。

 街はずれの林のなかに君臨する白い建物群。名を心仁(しんじん)大学医学部付属病院といい、夜中でも建物の灯りは消えることなく、周辺の木々を照らしている。思っていたよりずっと明るく、身を隠すべく物影をさがして歩くほうが大変だった。真夜中に病院の敷地内で人がうろついていたら、誰でも通報するだろう。人を呼ばれたら最後、鷺宮はそのまま姿を消す。同時に奏ともそれきりになりかねない。

 案内人が足を止めたので、直人も足を止める。

「病院の裏でドアにバイオハザード。あれだな」

「冗談だろ」

 思わず声を上げ、一輝から静かにしろとにらみつけられた。悪い、と頭をさげつつ、でも仕方ないだろと見返す。

 数メートル先にあるのは、年季の入ったきたない二階建ての倉庫だった。車庫の上に一室乗せて倉庫に作り替えた物で、一階と二階の不格好なつぎはぎが情けなさをにじませる。コンクリート剥き出しの壁にはヒビが入り、蔦まで這っている。鉄の扉は錆とほこりで元の色すらわからないが、一輝の言うとおり、バイオハザードのマークが扉一面使って大きく描かれていた。だがしかし。

「どこが研究所なんだよ。どう見たってただのボロ倉庫じゃん」

 あきれる直人に、一輝は確信もって説明する。

「俺もそう思う。だけどな、それが鷺宮の狙いだ。なにもないように見せて、実は隠れている。一般人の目は意外とするどいからな。潜入に夜を待ったのも、ひと目を避けるためだ」

「夜でも、夜中だぞ。出てきたのは二時すぎだし。ったく、もっと早く来れただろ。姉ちゃんになにかあったらどうすんだよ。だいたい、オレはすぐに来たかったのに、聡美ちゃんち寄ったりして」

「すこしは考えろ、ガキ。あのままやみくもに飛び込んでいって、無駄に暴れてみろ。疲れきったところで奴らにつかまって、それきりだ」

 直人は黙りこんだ。確かにそのとおりだった。行きすがら木材でもひろって鷺宮に飛び込む気でいただけに、一輝の言葉が突き刺さる。

「聡美の家に寄った理由は言ったよな。俺もお前も昼間から鷺宮にふり回されて、疲れていたからだ。奏さんのことは俺も気になっていたが、頭を冷やす時間も必要だ。お前もすこし寝たおかげで、多少は落ち着いただろうが。それに、もう目の前だ」

 捕らえられた姉は、きっと目の前にいる。

「こちらの目的は奏さんの救出でも、鷺宮の目的は直人だ。お前は絶対につかまるな。戦うのは俺にまかせて、直人は逃げながら奏さんを救い出せ」

「わかってるって」

「失敗は許されない。最悪、俺になにかあってもお前は逃げろ。間違っても助けに戻ってくるな。奏さんとふたりで、先に脱出しろ。いいな」

「おい。先にって」

 そんなことできるかと言いかけて、やめた。一輝の目が本気だと言っていた。だけど。

「そう言っても、一輝ばっか損してないか。喧嘩して、残るとか言って。オレにはダメ出ししたくせに」

「気にするな。俺は鷺宮を潰したいだけだ。やられた借りは返す主義だからな」

 深い怒りを持った瞳に呑まれそうになったが、直人はあえて流すようにした。

「わかった。そういうわけなら、喧嘩のほうは頼んだぜ。オレも姉ちゃんを助けるほうが先だし、一輝の邪魔になりたくないからな」

 直人は言葉を切った。

「一輝。もしオレたちが先に出たとしても、ちゃんと帰ってくるんだろ」

「帰るつもりだ。今はあそこが俺の家だ。それに、直人には一生かけてでも約束を果たしてもらう」

「お前、本気でしつこいぞ」

 直人の言葉に、一輝の視線がやわらいだ。

「行くぞ」


 錆びた扉の前に立つと、描かれているマークが縦に割れた。音もなくゆっくりと左右にわかれ、ひとがひとり通れるくらいの幅で止まる。

 向こう側は暗くて見えず、直人はためらった。しかし一輝がかまわずに入っていくので、あわてて追いかける。

 扉は背中で閉じ、遅れてまぶしいほどのライトが屋内を照らした。

 直人は目をまるくした。外観から想像もつかなかったが、そこはエレベーターのフロアだった。灰色のエレベーターが一基、稼働ボタンは下向きのみ。床には、鷺がSの字を象るマーク。

「なんだ、ここ」

「常川直人さまと真田一輝さまですね。所持品をお預かります」

 直人の斜め後ろから声がして、かぶっていたキャップが取られた。飛びあがって目をやると、屈強な警備員がキャップを手にしている袋につっこんだ。取り返そうとしたがすばやくかわされ、袋にすら届かない。

「おい、返せよ!」

「お帰りの際にお返しします」

 警備員はかるく頭を下げた。

「不快でしょうが、どのようなお客様でも、入室の際は所持品すべて、ここでお預かりしています。時計、携帯電話、ボールペンなどあれば出してください。それと軽く身体検査をしますので、両手を上げてください」

「一輝、どうする」

「もちろん」

 一輝は当然といった顔で両手を挙げた。警備員はまた頭を下げ、きまじめな顔で手をのばした。

 その時、一輝が動いた。

 挙げた手を組んで軽く跳んだかと思いきや、一気にふりおろす。その先には膝頭があり、警備員は一撃をもろに食らって膝をついた。しかしこれで済むことはなく、一輝はいつのまにか引き抜いた警棒で後頭部を数回殴りつけた。

 警備員はあっという間に床に倒れ、身体にけいれんを走らせた。顔面あたりから流れる血は、鼻か、それとも口か。

 直人は一輝の所業を前に、立ち尽くしていた。警棒を振りおろす手を止められなかった時点で、一輝を止めることはできなかっただろう。一輝の言っていた喧嘩は、普通よりも荒っぽいものだと思っていた。ただ物を壊すだけで、容赦なく相手を殺す事じゃないと。

 当人はおもむろに男の頭をわしづかみした。首を引きちぎろうというのだ。そこまでするのか。

「やめろ!!」

 直人の制止にかまわず、一輝は胴体から頭をちぎり取った。

 いや。取れた。

 首の付け根から数本のコードが伸びてちぎれ、身体のけいれんも停止する。直人は突然のことに声も出ない。

 一輝の持っている首は、白目を剥いて、口と鼻から血をしたたらせている。コードがなければ人間の頭としか思えない。

 一輝はロボットの首をフロア中央にあるマークの上に置いて、足でこづく。

「眼球にはカメラ、耳にはマイク。こっちは五感だけは鋭いからな、モーター音とオイルの匂いですぐわかった。出迎え方も擬態パターンも、なにも変わっていない。ちょっとは賢くなったかと思ったが、進歩ないな、お前らは。なあ、聞いてるんだろう、聖!」

 警棒の一撃。フロア中に破壊音が響きわたり、血と灰色のかたまりと、ネジと鉄板が派手に散る。

「待たせたな。行くぞ、直人」

「あ、ああ」

 これは宣戦布告だ。

 直人はエレベーターの扉が閉じるまで、残骸から目が離せなかった。


 エレベーターは地下三階までしかなく、まず地下一階を目指すことにした。ふたりを収めた箱は、静かに降りていく。

「キャップ、取り返してくるの忘れたな」

 一輝に言われて、はじめて気づいた。外出中はあれほど気にしていたのに、すっかり忘れている自分にも驚いた。

「ああクソッ。受験の時に使ったヤツだったのに」

「そんなに大事な物だったのか。貴重品は置いていけと言っただろう。しょうがない、鷺宮にくれてやれ」

 直人は舌打ちして、肩を落とした。

「一輝。鷺宮って、ああいうのばっかなのか」

「どういう意味だ」

「あの警備員みたいなロボットばかりなのかって。オレ、生で人が死ぬところなんか見たくない」

 振り下ろされる警棒、流れる血、一輝の冷たい横顔。どれも恐かった。足がふるえた。見たくなくて、やめてくれと叫んだ。人じゃないとわかった時は、心底ほっとした。

 ああ、と一輝は納得顔になる。

「まあな。だけど、人間でも俺は殺した」

 直人は声を荒げた。

「一輝、もう誰かを殺すのはやめろよ! いいか、絶対にやめろ!」

 一輝は迷惑顔で答える。

「ことわる。やらなければやられる、ここはそういう所だ。直人は変なところで人が良すぎるぞ。それで命を落としかねない。特にここでは腹をくくれ」

「そうかもしれないけど、動けなくなってるのに何回も殴ったりすることないだろ。リンチじゃないんだぞ。それにあっさり殺すとか言ったりして、一輝は恐くないのかよ」

「恐くもなんともないね。俺が殺されたいくらいだ。そもそも自分の身が危ないなら、相手を倒すのは当然だろう。じゃあ聞くが、自分がどんなに酷いことをされても、そいつを殺すなとか言うのか」

「そう、どんな理由でも、誰かを殺すのはダメだ!」

 一歩も引かない顔に、息ひとつ。

「わかった。どこまでも甘いお前に合わせる気はないが、こっちも無駄に殺す気はない。だけどあきらかにお前や俺を殺そうとするヤツがいたら、容赦なく殺す。これだけは譲れない。殺しが見たくないなら目を閉じてろ」

 直人はしかたなくうなずいた。

 小さい頃から映画でもなんでも、人が殺されるシーンは嫌いだったせいもあるが、ほかにも理由がある。奏の涙を見たからだ。奏は両親の葬儀の間ずっと泣かなかったのに、全部終わって誰もいなくなった時、仏壇の前で泣いていた。その後は一緒に泣いて、直人だけは死なないでと何回も言われて。オレはまだ小学生だったから何も言えなくて、ひたすら何度もうなずいたんだ。

 自分が死ぬのはもちろん、誰かを殺すなんてもってのほかだ。奏のように泣く人がいるなら、なおさら。そう言ったらこいつは人を殺すことを止めてくれるだろうか。

 一輝は直人の気持ちも知らず、警棒をもてあそんでいる。

「ここにいた時、倒れない兵隊と戦闘演習でやりあったことがある」

「ロボットの」

「いや、人間だ。無痛処理して闘争心を植えつけられてるんだ。手足が折れてもかまわずに歩き、銃を撃つ。武器がなければ噛みつく。意識を失うまで、這ってでも戦う」

「うげ。ゾンビみたい」

「一見よくできているように思えたが、こいつらは自分以外の人間すべて倒そうとした。結果、互いに殺し合って自滅」

「わははは」

 直人は無理矢理笑った。顔がひきつったけど、そうでもしなければ、こみあげる吐き気を抑えられそうになかった。

「ここは移植や生物兵器が専門だ。脳をいじったり、わけのわからないものに移植された輩もいる。場所からして、心仁(しんじん)も協力していそうだな」

「心仁って」

「さっき通ってきた病院だ。あそこは臓器移植で有名な病院だからな。上から材料を調達できるシステムなんだろう。なかなか合理的といえるな」

 直人は今度は笑えなかった。狭い空間で聞かされる話は陰鬱で、すっかり気持ち悪くなっていた。

「鷺宮はそういうところだ。覚悟しておけ」

 一輝の言葉は直人の心に重く響く。

 エレベーターはなかなか到達しない。奏はおかしいヤツに囲まれていないだろうか。

「まだかよ。すいぶん深いな」

「それだけのことをしてるんだろ。悪いやつほど深く隠れる」

「一輝。姉ちゃんは大丈夫だよな。ああ見えてけっこうツイてるほうだもんな。こないだも懸賞に当たって商品券ゲットしてたし、出そびれたら、その先でトラブルあって免れたとかあるし。大丈夫だよな。無事だよな、変なことされてないよな。なあ、一輝もそう思うだろ?」

 一輝は目を反らしたまま、つぶやいた。

「そうだな」

 エレベーターはどこまでも深く落ちていく。底なんかないと思わせるほど。本当に戻ってこれるんだろうか。

 だけど、この先で、奏が助けを待ってる。行くんだ。

 直人が決意に顔を上げると、エレベーターがゆっくり停止した。

 いよいよ、来たのだ。


 同時に、どこかで誰かが顔を上げた。

 ――シグマだ。

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