ぼくの仮面がとれた時

かくぞう

ぼくの仮面がとれた時

 ○○を装う、猫を被る。歯に衣を着せる。かのシェークスピアはそれを役として例え、またある人はそれを演出と呼ぶ。中学で使った国語の教科書に書かれてた小説にもあったように、仮面は本来の気持ちを隠すネガティブなものとして描かれがちだ。しかし僕にとってはそうではない。それは決して害悪でないどころか、日常を過ごすに当たって必要不可欠なものでさえある。感情をある程度コントロールすることにより、話題のより優先された点を選択して進めたりもできる。またこの仮面は着脱が容易で、スイッチのように切り替えができたり、一つ被せた上にさらに被せたりなどカスタムも自在にできる優れモノだ。最も、僕がいま言っている仮面とは実際に手に持てる仮面のことではなく、もっと気持ちとしての建前、精神的なものに近くはなってしまうのだが。

 義務教育では決して教えてくれないものの一つなくせに、一部の大人は我が物顔で使いこなしているのは恐れ入る。ただそれは逆に、それだけこの仮面は”使える”という示唆の証明でもあるのだ。



 ぽろりぽろり、ぽろぱらり。



 この注目すべき点を教えてくれたのは当時中学2年生だった僕の実家にある16型ブラウン管カラーテレビだった。朝七時、朝食を食べに自室から起きてきた際、居間に設置してあるそのテレビでは朝のワイドショーが流れており、そこでは一人の中学生が知り合いの小学生を殺害したというニュースが扱われていた。画面には見慣れたコメンテーターの顔が映し出されている。

 寝ぼけ眼で手に取った味噌汁を口に運んだところで、僕の耳に半笑いで出されたその言葉が届いてきた。

『いや~最近の若者は危ないですねえ』

 ああそうか、と思った。テレビの中にいる彼らの表情は朗らかで被害者の家族にも同情をたたえたものだったが、口から出てきたそれは最近の若者全般を、関係ない僕をも巻き込む範囲の代物だった。しかしそのコメンテーターの隣に座るキャスターは「そうですよねー」と笑顔で相槌を打ち、滞りなくテロップは切り替わり、そこから更に検証映像へと画面は映る。カメラに映るスタジオの中に違和感を感じた様子を見せる大人は一人としていなかったし、僕と一緒に食べていた姉や母親も特には反応もしなかった。そこが重要だった。その扱いに対して批難めいた気持ちが一通り沸き上がった後、ふと僕はそこに上手い生き方のコツのようなものを発見したのだ。それが仮面だった。彼らは被害に遭う可能性のある国民として、弱い国民として、正しい側の社会人の代表として仮面を被っていた。それは良く出来たものだと素直に関心もしたし、だからこそ先の発言もさして問題とはされなかったのだろう。

 慣れないながらも僕は仮面を少しずつ使い始めた。中学を卒業する頃にはある程度使い分けはできはじめていて、高校に入ってからは日常生活の中でより実践し始めた。実際、仮面があるとないとでは慌てる比率が変わるし、使い込むほど仮面がよく馴染んでいき、また精神的にも落ち着きを得ることができるのだった。より多くの反応と精度を得るため交友関係を拡げはじめ、部活動にも入った。その頃には仮面は自分に馴染んできていて、そのうち授業の間、クラスにいる間、学校にいる間と徐々に装着する時間も増え、しまいには24時間付け続けてることに特に違和感が感じなくなっていた。また馴染む一方、仮面を外す状態に意味を見出せなくなってきてるようにも感じた。

 テルアキ、大村照明と出会ったのはその作業の真っ最中だった高校三年の新学期の頃だった。彼の歯に衣を着せぬ喋りと言葉を裏切れない実直な性格は仮面の実践にも都合がよく、趣味などに興味があるフリをして練習相手にしていたのだが、そのうちに何が原因か、いつの間にか親友と呼べる間柄に近いものになってしまっていた。ちなみにこの出会いが無ければ僕の今後は大分変わったのではないかと今では思う。



 それから4年後。東京、江古田にある大学のカフェテラスに僕と照明、そして川平陽子は座っていた。僕と照明は同じ大学に進み、陽子は学部の歓迎会で知り合って以降よくつるんでいる仲だ。僕は二人と一緒にいる時だけ”素直”の仮面を被っていた。特に関心のない話題が出ても、わざと反対する意見を出してじゃれついてみたり、おどけてみたりする。照明がそこをやり返してきたり、陽子も参加してきたりする。二人は風通しのいい性格をしていた。そこに込み入った意図や隠し事はほぼなく、かつ適度のラインをお互いに守っている。勿論ラインを踏み越えてしまう場合が無いわけでない。ただそれでも話をやめることだけはしなかった、そうして保たれるこの三人の距離感が僕にはなんとも心地良く、最後に密かにだが、僕はこの陽子と呼ばれる快活な女性に少なからず想いを寄せていた。

「ごめん、お待たせ」

 陽子、照明以外の声が聞こえて振り返った。テラスの向こうから歩いてくる女性を認めて、僕は無意識に”平静”を重ねる。色素の薄い黒髪を肩まで伸ばし、軽やかに歩いてくるその人物に陽子が話しかけた。

「八重、荷物置いとくから先に買ってきなよ」

 高木八重。初めて知りあったのは4年に上がった僕らが学部交流会に参加した時だ。飲まされすぎて酔っぱらってしまった照明を介抱するのに手伝ってもらって以降、こうして4人でいることが多くなっている。それは僕の望むところではなかったのだが、照明や陽子が親しんでいるのを無下にはできないと、例外で黙っていたのだった。

 交流会で初めて見た時彼女は同じ机だったのだが、匂いとでもいうのだろうか、話をしつつ観察を続けていると、そのリアクションまでの間や話題との距離感、表情の使い方などが自分に近いものを持っているように思えた。他に、自分よりも上手くさりげなくソレを使いこなしている事がまた目に付いた。笑いかけながら嫌悪に近い対抗心を燃やす。八重の方も軽い笑いのまま、静かに返した。八重自身はそれほど表立って自分から行動するといったわけではないが、相手に合わせる、また複数になった時のバランスのとれた立ち方が絶妙に上手かった。実際そのせいか、八重には男女の隔てなく、親しみを持って話しかけたり絡んでいる人はいたし、年齢にしては若干大人びた雰囲気と整った顔立ちのためか、初めて会うようなメンバーでも少しやり取りさえすれば殆どが好感を持つ様子だった。それもまた気に喰わないのだった。

 照明を自宅の洗面台に連れていく間、八重は陽子と話が弾んでおり、何を気に入ったのか陽子と連絡先を交換していて、それから後日、はたと僕らのところに彼女が来た時ほど面食らった時はないと思う。やはり軽い笑顔をたたえて僕らのところまで来た八重を見ながら、僕はより慎重に仮面を重ねる必要があるなと心に誓った。ただこの時、僕はもっと別の点に気付いておくべきだったのかもしれない。



 ぽろりぽろり、ぽろぱらり。



「私達、付き合う事にしたんだ」

 昼休みの人がいなくなった講義室内で陽子の声が軽く反響した。この言葉を聞いて、会話の途中で笑っていた顔が固まったのを自分でも自覚できた。言葉の内容を噛み砕く前に固まってしまった表情を崩そうと、口元が見えないように手で隠し、ゆっくりと息を吐いていた。いまの僕は”素直”の仮面の上に”平静”を被ってはいるが、珍しいことにこの瞬間”平静”が薄くなり、仮面の奥から元々の感情が押し出てきている動きが起こっていた。どうしてだろう?

 隣に座っている八重は穏やかに驚いた風な表情を作り、二人に言葉を継いでいる。いつからなの?つい一週間前くらいからかな。そうなの?全然わからなかった、でもおめでとう、二人ともお似合いだと思うよ。そうかな?うんありがとう。

 その間に胃の中の空気を全て吐き出し、5秒ほど息を止めた。ある程度もとに戻ったのを確認すると、僕は二人に何だよ早く言えよ、とおどけつつも、祝いと羨みの言葉を投げかけた。ただその間も被っていた仮面はすぐに固まろうとしてしまい、隣でふと気付いたようにじっと八重が見てるのをわかっていながらも何回も被ろうとしていた。同時に、自分が今まで使っていた仮面が脆弱だったか、どれだけお遊びにすぎない物だったのか、ただのカッコつけとさほど変わらない代物だったのかを思い知らされもしていた。しかし道化と分かっていても、やめられなかった。

 告白された話題について一段落したところで、何かと用事があるフリをして三人と別れた。外へ出て構内の庭をぶらぶらどこへともなく歩き始めていると、無意識に二人の顔が脳裏に浮かんだ。照れた陽子の笑顔がゴリゴリ胸の内側を削ってくるような感触があった。照明の赤くなった顔が眩しかった。二人に言った言葉は嘘じゃなかった。これ以上ないくらいに二人は似合っていた。照明と陽子ならきっと上手くいくだろう、幸せにもなって欲しい。と頭ではわかっているが、こうして言葉に出してもどこか無性に間違っていてほしいと思う自分がいるのも確かだった。無性にこの溜まってしまった黒いエネルギーを発散したかった。よし、と決めて棟にもどった僕はすぐに飲み会があるという知人を探しだし、照明と陽子には黙ったまま飲み会に参加することにした。とはいえそれは後ほど後悔することになるんだが。



 飲み会に参加するメンバーはてっきり教室に集まっていた数人だけだと思っていたが、それは宴会場に来て間違いだったと理解した。参加するメンバーは他のサークルや違う学部の知人にも声をかけていて、規模としては10人以上と割と大所帯になっていた。まあそれだけだったら大した問題はない。厄介だったのは、その呼ばれた中に八重がいたことだった。

 乾杯の音頭が取られ、宴会は始まった。価格も安めのチェーン店で、座敷席にしては少し狭苦しくもあるが、周りは気にせずドリンクの注文をする。俺と八重とは長机を挟んだ対角線上の反対同士になっていたのは助かった。今だけはいつもの三人を意識するのはできるだけやめたかったからだ。なるべくそっちを見ないようにし、隣の野郎とバカ騒ぎに興じ、杯を重ねた。段々と熱を帯び思考がぼんやりしてきたが、それでも酒は足りないように思えてビールを口に運ぶ。一気飲みの音頭をとる。どこかスリルのある冒険に対し夢中になっているような感覚だった。楽しかった。

数時間後、二次会の予約が出来たとの合図を筆頭に、座敷部屋の中にいたメンバーはぞろぞろと部屋を出始めた。俺はそれを見送りながら、今は気分が悪いから後で行くと伝えた。周りはそこで無理に連れ出すでもなく、なら来るならここに連絡して、と携帯電話の番号を渡して離れていった。そこまで親しすぎない間柄というのはこういう時便利だな、と酒のまわった頭で思った。

 数分後、部屋の中にいたメンバーは俺と片づけをするホール係を除いて誰もいなくなっていた。僕は無理を言って店員にもう一杯新しく水割りを注文し、それから重力に従うように上半身を畳に預けた。揺らぐ木製の天井を眺めながら、このまま何もかも曖昧になって忘れてしまえればいいのにと思った。この状態がずっと続いてくれればいいとも思った。次第に、瞼の重さに耐えるのも疲れたし、酒が届くまで少しだけ目をつぶり、ちょっとだけ眠ってしまおうと考えた。



 どのくらいの時間が経ったのか、ふと頭が持ち上げられ、後頭部が何か温かいものに乗ったところで意識を取り戻した。柔らかさからすると誰かの太もものようだった。ゆっくりと瞼を開けると、座敷部屋の奥へ続く壁と天井、そして視界の端に色素の薄めな黒髪が見えた。目を動かすと八重のじっとこっちを見下ろす顔が見える。酒が抜けていないためか、その場面になっても特に慌てる気持ちもおこらなかった。ただ礼やら何か言葉に出そうとは思うのだが、まだどうしても譫言のようになり、舌が動かない。仕方ないか、と思ったところで八重の声が静かに聞こえてきた。

「修ちゃんさ、どうして残ったの」

 八重が自分から話しかけてくる珍しさに驚きつつも、口から出てくるのは相槌めいた呻きしか出なかった。しばらくの間があった後、八重がまた口を開いた。

「ごめんね」

 それは静かでかすれた、落ち着いた声だった。

「陽子じゃなくて」

 気付けば眼を見開いて八重を睨みつけていた。八重はさも慈悲の籠った顔で僕を見下ろしている。生えそろった細い眉が微かに歪んでいるが、それも対照的にかつ綺麗に揃えられていて、まるで八重の性格を表しているように思えた。何か言い返してやりたいところだが、内面を見透かされているのはわかりきっている。せめてもの抵抗として黙って顔を腕で覆った。涙が少し出てきていた。それでふと、自分が顔を隠したのは悲しみに暮れるのを見られたかったからではなく、仮面が外れたこの顔を見られたくなかったためなんだと思い当った。惨めだった。

 居酒屋を出た後、僕は八重に先の振る舞いを謝りつつも、やはり帰ると伝えて別れた。その時でも八重の表情はさして変わらず、穏やかな表情を浮かべていた。この時いつもは嫌悪感が先に出るものだったが、それよりも別の、何か胸をくすぐられるような気まずさが湧き上がり、それが水と油のように嫌悪感と入り混じるのだった。そして、それは以降も続くことになった。警戒した僕は、仮面をより一層厚くさせようと努めはじめたのだった。



 僕らは四人とも無事就職でき、大学をあとにした。僕はブロック関連の会社に就職し、大きな出世こそ期待はできないものの、辞めなければならないような場所でもない、それなりに安定した職場に就くことができた。照明、陽子もそれぞれ問題なく働けているようだし大丈夫だろう。八重はあの能力があればどこでも上手くやれるのはわかっていた。

 その頃には仮面はより強度を増しており、より安定した使用を可能としていた。ただしその分、以降の照明と陽子に対し、どこか離れたような気持ちでのぞむようになってしまい、それがやりきれなくも思えた。一応卒業してからも顔なじみの卒業生は時々会ってはいたし、その中でも照明達は一番よく顔を合せてはいたものの、それは以前と同じくするようなものではなくなっていた。まるで互いの持つ関係の性質の一部が変わってしまったようでもあった。また眼には見えないけれども仮面は確実に厚くなっており、厚さに比例して物事や人間関係に対する距離も開いてきているようだった。ただし一人だけ例外がいた。

 そこまであからさまではないけども、僕はあれから八重を避けるようになっていた。彼女の方では特に気にする素振りを見せたことはなかったのだが、気の付いた時にはほぼ毎回あのむず痒い感覚が起こりはじめて、その度何かしらの動揺を表しそうになるからだった。一緒の時であっても上手くすれば起こらない場合はあるのだが、ふと何かを意識したりする時には思い出したように、そのわからないモノが湧き上がってくるのだった。

 そうした状態でのある日、僕の元に照明と陽子から一通の手紙が届いたのだった。



 その結婚式会場はちんまりとした、ログハウスを改造した建物だった。細かい箇所にスペイン様式を取り入れており、ドアや扉周りの壁、鉄柵、庭の置物に到るまで装飾を施している。それは規模こそ小さいものの、知ってる人なら知っている隠れ家のような雰囲気を演出していた。扉を開けて入ると既に数人のスタッフがアットホームな内装と受付の準備を進めている。一番近いスタッフに声をかけ名前を告げると、その女性スタッフはにこやかに奥に案内をしてくれた。会場までの通路から一旦外れた裏道の先にある部屋に入ると、衣装を着た照明と陽子が目に入った。声をかけると、二人は歓声をあげ振り向く。

「やあ、修!」

「修やん!」

「よぅ、久しぶり」

 大学を卒業して二年目の年、僕は照明と陽子が結婚する旨を聞かされた。元々そんなような話を以前集まった際などに聞いていたので大した驚きもなかった。そして今日は結婚する二人のためにカメラマン役を任された、ついでに受付係も。いや、別にスタッフがいないわけでもないらしいが、これも雰囲気作りの一環らしい。ほんとか?

 受付には僕の他にあと二人、大学の同期のメンバーが来る予定だったが一人遅れるらしかった。空きはスタッフについて貰えるが、式が始まる前には離れなければならないという。そんな予定をスタッフや照明達と話しつつ、僕は二人の衣装が似合ってることをこれ以上なく褒め称えることができた。”親しみ”の仮面はブレずに安定したままだった。ちなみに八重は用事があるため、後で友人たちと一緒に来るらしい。

受付の開始時間が始まる前には既に照明と陽子の知人や友人、家族が集まってきていた。ちょうど事前に聞いていたメンバーとも合流し受付を開始した。やり方の説明は事前に受けているのではじめは難なくこなせてはいたのだが、徐々に人が集まってきた段階でトラブルが起こった。どうやら内装に支障が出来てしまったらしく、受付にいたスタッフが抜けなければならなくなってしまった。一人減ったところで訪問数はピークの様相だし、元々受付を出している廊下が狭いのもあり、周りがあっという間に受付待ちの塊で囲まれてしまった。僕は別に平気だったが、隣の同期が軽くパニックに陥ってしまっていた。ともあれ、これを解消させるのは二人では足りなかった。

「あれ、修くんじゃない」

 声がして顔を上げると女性グループの中に見慣れた顔がいた。

「八重か、久しぶり」

 うん、と八重は返事をすると周囲を振り返り、手伝おうか?と聞いてきた。

「・・・説明できる暇ないけど大丈夫?」

「いいよ、前やったことあるし」

 と言って素早く授受簿の余りを横にひろげた。八重と一緒にいたグループは一瞬驚いていたようだったが、八重がフォローの旨を伝えたら安心して動き出した。人員が加わったのと、八重が慣れていたのもあってか、数分経ったあとには混雑は解消していた。列が切れたので一息ついて隣を見てみた。

 久しぶりに見た八重は伸ばした髪を束ねており、身体の線が出やすいふわりとした生地の服を身にまとっていた。元々端正だった顔に深みがましており、動作にもより手慣れた落ち着きが宿っていた。それがまた彼女の魅力を惹きたてているように見えた。開宴時間が近付いてくると、八重はスタッフに呼ばれて中に入って行った。僕達もある程度整理をし、スタッフに引き継いだ後に会場内に入った。

 部屋の中では既に披露宴が始まっており、始めの紹介はもう終えたのか、次の友人のスピーチに入っていた。薄暗くなった中、ライトが当てられたその場所には八重が代表として立っており、主役の二人についての思い出話を語っている。

 照明も陽子も、そして周りも八重の声に静かに聞き入っていた。前からそうだったが、八重の抑揚を派手にしすぎない、少し抑えた感じのハスキーな声は人に落ち着きを与える効果があった。僕もその声を聞きながら扉の端に背を預け、しばらくじっと聞き入っていた。



 ぽろりぽろり、ぽろぱらり。



 無事式は終わり、帰りの来客がほぼいなくなった中、片付けの進む会場内で僕と八重、そして主役の二人は談笑を交わしていた。互いに働き始めている中、こうして4人で揃って会うのは珍しい。今ならまだいいけれども、いずれ子供ができたらそっちにかかりっきりになってしまうだろうし、またそのための準備もある。それを4人ともわかってるからこそ離れ難いものがあるのだった。とはいえ、やはり衣装の返却や二人の後片付けなどの時間が迫ってきたため、惜しがりながらも僕らは別れたのだった。

 八重と二人で会場を後にしたところで、僕は手伝ってもらった礼として帰りを車で送ろうかと聞いてみた。自分から八重にこうした提案をするのは初めてだったが、八重は笑って提案を受け入れてくれた。

 自家用のミニクーパーに乗ってエンジンをかけたところで、そういえば、と八重とある場所を伝えてきた。そこは昔、よく遠足や写生大会などで行った事のある、山あいの寂れた遊園地のすぐ近くにある場所だった。

「たぶん今のタイミングだったらちょうど良いかも。行ってみない?」

 結婚式会場から約20分、斜面に建てられた住宅地内にある急勾配を上がりきったところにその高台はあった。元々敷地内にあった施設が撤去され、そのまま土地に買い手が付かなくなったのか、そこは割れたコンクリート地で出来ただだっ広い空地と化していた。ところどころにできた隙間から生えた立ち枯れた雑草が時間の経過を表している。奥の大きく開いた二本の樹の間からちょうどT市の遠景が覗いていた。この時、胸のざわつきが徐々に大きくなり始めているのを感じた。

「懐かしいなー。ここ、前に来たことがあって。それから時々来る場所なんだ」

「初めに来たのはいつ?」

「小学校の遠足の時」

 ここ、一旦グループから抜け出しでもしないと見つけられないんじゃないか、と言ったら「そうかも」と笑って彼女は歩き始めた。髪を解くのを後ろから見ながらそのまま僕もついていく。八重が立ち止った辺りでコンクリートは切れていて、そこから先は剥き出しの土と藪がなだらかな傾斜となって眼下へと続いていた。そこで目を上げると、視界いっぱいに街の景色が拡がった。遠く望んだその街は、夕焼けに照らされ、まるで橙と黄でできた海のように見える。そのまま内側に振り向くと、風にそよぐ髪を手で抑える八重と目が合った。

 太陽の光で金色と朱に染まった髪、そして彼女の表情を見た時、僕は以前から続いているこの胸のざわつきの正体がどんな言葉で呼ばれてるものか、わかりつつあるのを感じた。しかし同時に、知ってはいけない予感が急にしてくる。既に”平静”は重ねていたが、以前に照明達からの告白を聞いた際に近い、仮面が脆くなるような感覚に襲われてきていた。ただし全く同じではなく、何か小さな一点が違うようにも感じた。気をそらすために1時間前の照明と陽子の姿を思い浮かべようとするも、相変わらず八重からは目を離せなかった。



 ぽろりぽろり、ぽろぱらり。



 旅客機が頭上を通り過ぎ、次第に音はかすれ、聞こえなくなっていった。その間も八重の控え目な顔と、気だるさが残るむっつりとした僕の表情には変化がなく、互いにただ黙って見つめ合ったままだった。

「修君は、私のこと好き?」

 不意に、八重が口を開いた。黒い瞳がキラッと輝き、まるで好奇心真っ盛りの子供みたいに覗き込んでくる。初めて見る表情だった。

「まあ、人並みには」

 目線は外さないまま、自動人形のように僕は口を動かす。それを受けて、八重は微笑むように目を細めた。次にゆったりと彼女の口が開く。

「嫌いじゃないの?」

「どうだろ。気に入らないとこは幾つかあるけど」

 先程から、口に出す前の言葉が浮かばないまま喋っているような、装着している仮面にそのまま任せているような具合になってしまっている。どうも考える機能が何かのせいでショートしてしまったらしい。

「そう」

 と言って、八重は笑う。別に褒めたわけでもないのに楽しそうだ。唇の間から覗く白い犬歯がどこか挑発してるように見え、それを見てると腹のどこかがくすぐられるような気がしてくる。それでも表では穏やかに微笑む表情にシフトしつつ、この不可思議な事態について考えていた。

「八重はどうなのさ」

 間を埋めるつもりではなかったのだが、今度はこっちが口を開いていた。えー、と言って視線を上に泳がし八重は返した。

「嫌いよ」

 続けてくすくす笑いながら。

「大っ嫌い」

「それは嘘だよ。嫌いな相手にこんな良い場所を教えてくれるはずがない」

「今日はたまたまって言ったら?それに此処、そこまで好きな場所じゃないし」

「それも嘘じゃない?」

「どうかしら」

 そうして八重はまた笑う。この時ぼくは、不思議な高揚感に包まれていた。同時に、自分がいつの間にか仮面の中身を見られるのを極度に恐れるようになってしまっていたという事実にも。でも今はどうでもよくなりつつあった。というより、仮面を付ける事も、取り外すことも、相手の仮面を剥がすことも、どれも含めて楽しみはじめている自分がいた。初めての感覚だった。

「じゃあ僕も嫌いだ」

「そうなの。大丈夫?顔、変えれてないけど。いつも思うけど、修くんそういう切り替えのタイミングが少し遅れたりする癖あるよね」

「八重だって酒が入ると、突っ込み入れられた時とかは切り替え遅くなったりするじゃん」

「お酒だから仕方ないもの。それにそんな今思いついたような嘘、全然効果ないんじゃないかなー」

「さあ。でも八重のことが昔から嫌いだったのは本当だよ」

「ふうん・・・なら気が合うじゃない。あら、でもそしたら何で車で送るような誘いをしてきたの?」

「どうだろ。時間もあったし。単なる暇つぶしだよ」

 声を立てて笑う八重を見るのは珍しいと思いつつも、不機嫌になった表情を作ったまま両手をあげる。どことなく懐かしみのあるやり取りだった。僕らは話しながらゆっくりと車に戻り始めていた。クーパーの近くには着いたものの、そのまま中には入らず、僕は黙ってボンネットに寄りかかった。

「ところで」

 と八重はゆっくりと言った。

「ねえ・・・結局、どっちなの?」

 しばらく黙って、ぼくは答えた。

「どっちがいい?言う方に合わせるから」

 すると、

「どっちでも?」

 彼女の口元が小狡く歪んでいる。

 それがたまらなく可愛くて。頭が沸騰しそうになるのを抑えるために僕は咄嗟に顔を逸らして目を閉じた。数秒後、右側の腕と背中に何か柔らかく、温かいものの圧がかかり、耳元であのかすれて、落ち着いた声が耳を揺らした。

「嘘じゃない?」

 何も答えられない。彼女の声は、耳からの神経を通じて全身を狂わせた。目を閉じてるとより耳に注意が向くのをすっかり忘れていた。空気の揺れと共に、彼女の使っている香水ー透明感のある花の匂いが鼻へ伝う。今まで重ねていた沢山の仮面が堪えつつも、内側からパラパラと崩れ落ちていくような心地に襲われてきていた。その奥底では怖さと期待が回る太極図のように高速で巡って低い唸りをあげている。早くなった鼓動が肩から伝わらないように、静かに震えた息を吐き、ゆっくりと目を開けると、八重の柔らかな顎のラインと首元の白い肌、紅味の差した薄い唇が視界に入った。

 目の前には彼女がいた。

「…私はね」

 そのまま僕と喋りかけた八重の顔が対面する構図になっていた。お互いに軽くうつむき、前髪があと数ミリで触れ合おうとするくらいの距離だった。八重の顔は初めて見るような・・・生き生きとした血が波打っている人のそれに見え、その瞳の輝きを見て思わずきつく抱きしめようとする自分自身を無理やり抑えつけた。そして、もうこの時には胸をざわつかせる言葉の正体が一つの単語であり、また二音節で出来た単語でもあるのを知っていた。それは安易に言えば一瞬で失う危険のあるものだった。しかし言葉は今か今かと、この喉元から外へ出ようと暴れまわっているのだ。言葉を控える舌先がカラカラに乾いているのを、口の裏側で感じ取ることができた。

 僕は言葉を待っていた。でも彼女の口からは言葉が出てこない。何故だかそれが本当に辛そうで、でも可愛くて、愛おしくて、この胸の辺りが熱いフォークで掻き続けられてるようになる。

 ねえ八重、その顔は本当なの?それとも嘘?

 僕はそれを言いたいのだ。その二音節の言葉を伝えたいのだ。しかし言ってしまった瞬間、離れてしまうかもしれない、これがたまらなく怖くて言えないのだ。おまけに僕が望んで作ったわけでもない”意地”という仮面が僕を抑えようとしていた。いくらこの仮面を外そう、外そうとしても上手くいかないのだ。悔しかった。

 更に二人の顔が近付いた。いまや僕らは顔を上げ、正面で向い合せる形となっていた。いま仮面はどのくらい残っているのだろう?鼻の頭に吐き出された八重の息の熱を感じながら僕は思った。もはや自分自身、いま付けている仮面がはたして何枚目なのか、またそもそも仮面などとっくにドロドロに溶けてしまい、とうに無くなっているのでは、といった感覚に陥っていた。同時に、今更さして重要なものではないもののようにも感じた。それよりも、何より目の前が重要だった。目の前には八重がいた。それで十分だった。僕は彼女を見た。八重も僕を見ていた。僕と八重との視線は互いに絡み尽くし、やがて探るように交わしていた二つのそれははじめ遠慮がちに、次には驚きと不安と期待で、そして最後は深い歓びで結ばれた。時は満ちていた。僕は口を開き、八重に言葉をそっと伝えた。

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