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 部室となるあの空き教室を訪れたリンが見たのは、麗の姿だけだった。

「あれ……ジンはどうしたアル?」

「勧誘」

 紙に向かって何かを書いていた麗は、顔を上げることなく、手を止めることすらなく短く淡々とした返事だけを返す。

 ここ二日ほどで見た仁への態度よりも少し素っ気ないくらいだが、恐らくは人見知りの範疇なのだろうと思い流すようにしている。

 素っ気ない上に上から目線の横柄な態度だが、話しかければ言葉を返してくれる。リンからしてみれば、社会を知らない子供の可愛らしい一面に過ぎない。

 いや、シンガーソングライターとしてデビューしている以上、本来は「社会を知らない」なんて言い訳は効かないのだが、リンにとって麗はあくまで「子供」だった。

「そだ、レイ。昨日貰った虎の巻、全部目を通してきたアル。同居人が少し音楽のこと知ってるから、教えてもらったりとか」

 言えば、麗はぴたりと手を止める。顔を上げリンを見て、にやりと笑った。

「へぇ……真面目なんだ」

 素人向けとは言え、それなりにハイペースで教え込もうとしていた所だった。真面目な性格はありがたい。

「今年の文化祭で軽音部の時間も取ってもらう予定なんだし」

「文化祭……半年もねーアルな」

「そ。だからスパルタになるっつったの」

 なるほど、とリンは頷く。

 教本の中の日程は、ちゃんと専攻科の看護実習の日程も計算に入れられ、組まれていた。だから尚更なのか、素人目にも一般人には厳しそうな予定だった。

 まずは楽譜の読み方を覚え、音感を身に付け、ピアノを覚え、そして歌まで歌えるように。

 期間は半年も無いあと数ヵ月。看護実習にひと月以上取られることも考えなければならない。その間にそれだけのことをしろと言うのだから、才能や努力を求められている。

 逆を言えば、半年弱あればそれだけのことが出来るものには出来るということなのだろう。きっと麗は、そういう『人間の限界』を分かっているのだ。

 まだ高校生だというのに、恐ろしい子だ。

「じゃあ早速、どこまで予習出来たかから確認するよ」

「分かったアル」

 鞄の中から、教本を出す。

 その時、外から何かの音が聴こえてきた。二人分の足音と話し声だ。

「ジンと……?」

 一方は仁の声。もう一方は、先程麗が言っていた、仁が勧誘してきた誰かだろうか。

 リンのその言葉に、麗も出入り口の方に目を向ける。

 だがガラリと開いた引き戸の向こうには、仁一人の姿しか確認出来なかった。

「日野香は?」

「ああ、連れて来たぜ。ほら!」

 言って仁が振り返る。彼の手を辿って、二人はその少年を視認した。

「あ、あの……はじめまして……」

 か細い声で言った少年――香は恐る恐る顔を上げて、麗を見るなり口をあんぐりと開く。

「や……ヤッチー!?」

 今や巷で大人気の有名人、八千草麗の姿。こんな身近で見られる人物ではない、雲の上の人、といった存在だった。

 勿論リンも知っている。むしろ知らない人は余程世間に疎いのだろうと思う程。

 そんなことよりリンには、他のことが気になっていた。

(ヒノ……?)

 聞き覚えの有る姓。いや、日本では珍しくもないのかも知れない。だとすれば過剰反応だ。

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