第48話 俺と『浅野井』


 雫の誕生日を迎えた。

 参加者は、俺と雫に邦志はもちろん、赤羽一家に佐藤一家、そしてあかりちゃん一家も集まるという盛大なものになった。川瀬も参加しないかと誘ってみたが断られている。


 佐藤パパとは初対面だったが、想像していたより大人しい人だった。それは佐藤ママも同様だ。おそらく紅葉おばさんたちがいたおかげだろう。普通の大人として振舞ってて助かった。


 塾の帰りには霞ヶ丘も来た。さらに、いつの間にか幹夫先生もあがりこんでおり、パパ連中と楽しげに酒を酌み交わしていた。ママ連中は育児の話で盛り上がり、俺たちは子供たちの世話をしつつピザ作りに勤しんだ。


 カオスの中で誕生会は進行し、盛況のうちに終わった。あかりちゃんの誕生日にも是非何かやらせて欲しいと頼んでみたが、あかりちゃんはあかりパパの実家で誕生会をやるらしくて、断念した。





 そして、その翌日。つまりは今日、俺は雫と邦志を連れて、節子さんに会いに向かった。


 『浅野井』は熱海市にある。伊豆半島の入り口だからそう遠くはない。新幹線で2時間もあれば着く。



「仁くーん。こっちこっち」



 熱海駅で降りて待ち合わせの『家康の湯』に向かっているときに、見覚えのある女性が大きく手を振ってきた。尾堂先生がお見合い相手である利樹さんの母親だ。俺の親戚であり、『浅野井』で事務をしている人でもある。


 どうもといいつつ歩み寄ったら、抱きしめられた。紅葉おばさんや百合もそうだが、女性陣のスキンシップはとにかく激しい。もはや家系だと思って諦めている今日この頃だ。



「会いたかったわ」

「ご無沙汰してます」

「いいのいいの」



 スミレさんは快活に笑い、俺を開放した後で雫と俺の後ろに隠れている邦志を眩しそうに見つめた。



「雫ちゃんと邦志くんね」

「雫です。よろしくお願いします」



 雫が礼儀正しく、ぺこりと頭を下げた。川瀬のおかげで雫の髪は艶やかだ。赤いリボンで後ろを縛っている。


 あらあ、とスミレさんが目を輝かせた。「いい子ねえ」といって、雫を抱きしめた。一度は抱きしめないと気が済まないらしい。


 雫が困惑した眼差しを向けてきた。こらえてくれ、と目で伝えた。どうやら伝わったらしい。雫が諦めたようにこっそりとため息をついた。


 雫のおばさん化は着々と進行していた。



「ほら、邦志もご挨拶しなさい」



 恥ずかしがり屋の邦志を前に出して、挨拶をさせた。舌足らずで「こんちゃ」としかいえていないが上出来だ。というか悩殺ものだった。


 そして、スミレさんの脳も溶かしたらしい。ぐわしと邦志に抱き着いて頬釣りし始めた。


 どこかで見た光景だ。と思ったら、いつも俺がやっていることだった。


 もしかしたら、俺も赤羽家の遺伝子を色濃く受けついているのではあるまいか……。


 そんなはずはない。少なくとも俺は雫と邦志以外は抱きしめないからな。うん。絶対に違う。


 ふと、雫が目に留まった。雫のスミレさんに向けている呆れたような、あるいは諦めたような眼差しに、子供とは思えないものを感じて、少し寂しく気分になった。



「それじゃあ行きましょうか」



“それじゃあ”の“じゃあ”とはなんぞや。抱きしめたことで満足したという意味だろうか。


 まあ、気持ちはわかる。スミレさんに先を取られたせいで抱きしめる機会を逃してしまったが、俺も同じことをしそうになったんだ。わからないはずがない。


 ワインレッドのボディに『浅野井』と黒字で書かれてあるミニバンの後部座席に乗り込んだ。雫を奥に座らせて、間に俺が入り、邦志も窓側に座らせた。雫と邦志のシートベルを絞めてやる。


 準備完了。スミレさんに声をかけようとしたときに、旅行客と思われる人たちが視界に入った。物珍しそうにこっちを見ている。


 まあ、だろうなという感じだ。『浅野井』は一見いちげんさんお断りで、政治家の密談場所としても有名な老舗旅館だ。そこの送迎車に子供が乗り込んでいる。となれば注目を浴びないはずがない。



「最近は節子さんも落ち着きなくてね。そうとう楽しみにしていたみたいよ」


 運転しながらスミレさんがいった。


「そうなんですか?」

「あんな節子さんを見るのは、ほんと久しぶりよ。昨日なんて一日店に出てこなかったもの。店の子たちなんて、節子さんがいないとか騒いじゃってね、自宅まで押しかけて大変だったんだから。いつもはマシーンだなんだっていってるのに、やっぱり心配なのよね」

「死んでるんじゃないかと思ったんじゃないですか」



『浅野井』の名前を見たら嫌な思い出がよみがえってしまい、言葉に配慮を欠いてしまった。ただ、出した言葉は正直な疑問だった。



「節子さんが死んだら『浅野井』は終わりね」


 スミレさんは怒るどころか、快活に笑った。


「スミレおばさんが継げばいいんじゃないですか?」

「無理に決まってるでしょ。それに節子さんの跡なんてごめんだわ」

「でもおばさんも『浅野井』に勤めて長いんですよね?」

「長いといっても裏方だもの。おばさんがやってるのは、『浅野井』の財政面の管理だけ。給料の計算とか管理費の支払いとか、そういうことをやってるの。現場は畑違い。できるわけないのよ」

「じゃあ節子さんは現場監督ってわけですか」

「総監督といったほうがしっくりくるわね。『浅野井』は全体を取り仕切っているから普通の女将とは違うのよ。あ、もしかして仁くん誤解してるでしょ?」


 スミレさんとルームミラー越しにちらりと目が合った。目元に含むような笑みを浮かべていた。


「何がですか?」

「うちの子たちが節子さんのことをマシーンと呼んでいる、その本当の意味よ」

「本当の? 冷たいとか、冷酷とか、そういう意味じゃないんですか?」

「やっぱりね。節子さんもマシーンと呼ばれていることにそういう意味があると思っているみたいだけど、実はそうじゃないのよ。元々は聖徳太子と呼ばれていたのよ?」

「10人の話を同時に聞き取ったとかいう、あの聖徳太子ですか?」

「そう、その人」


 いやいや。そんな知り合いみたいにいわれても……。なんだかツッコんだら負けのような気がして聞き流した。


「記憶力もいいし、あっちにもこっちにも目を配ってて、処理能力というの? そういうのがとにかく異常なのよね。それで昔は聖徳太子と呼ばれてたんだけど、実は聖徳太子を越えているんじゃないかという話になって、マシーンと呼ばれるようになった、というわけよ」

「へえ」


 でも聖徳太子を越えたって、どういうことだよと思わないでもないが、ツッコんであげない。


「でもマシーンと聞くと逆の意味に聞こえちゃいますけど、いいんですか?」

「はじめはいろいろあったのよ。CPUっていうの? そういうのとか、ウィンドウズとかマザーボードとかマッキントッシュとか、いろいろね」



『浅野井』はいったいどうなっとんじゃ。ウィンドウズはOSで、マッキントッシュはブランド名、CPUとマザーボードにいたってはパソコンの部品だ。


 おそらくスミレさんはその違いを理解していないと見える。だが、説明が面倒くさいからツッコんであげない。へえ、と相槌を打っておいた。



「それぞれが勝手に呼んでいるうちにマシーンに落ち着いた、というわけよ。ただ節子さんは仕事に関しては厳しいから揶揄する気持ちが混ざってないとはいえないんだけど、でも節子さんを心から嫌ってる子はいないわね」

「ふうん。したわれているんですね」

「そうねえ。みんな口で何といってるけど、いざとなったときに頼るのは、やっぱり節子さんだもの。新人の時はみんな節子さんに守ってもらってるから余計かもしれないけど」

「そうなんですか?」

「あら? それも知らなかった?」


 ルームミラー越しにスミレさんの目を見て、首を振った。意外な話でちょっと驚きだった。


「節子さんはね、赤羽家に嫁いできて、しゅうとめからさんざん厭味をいわれてイジメられてきたの。姑というのは前の女将のことね」

「俺の曾祖母そうそぼですね」

「そうそう。あの方は愛のない厳しさっていうのかしら……いったらなんだけど、怖いだけの人だったわね。私は嫌いだったんだけど、節子さんは責任感も強くて、嫁入りしてすぐに姑を見て、この人に任せておいたら旅館が潰れると思ったらしいの。これは信三さんから聞いた話だけど━━あ、信三さんは節子さんの旦那さんね。仁くんのおじいちゃんのこと」

「はあ」

「信三さんは節子さんとは正反対で、奔放というか自由というか、とにかくダメな人だったんだけど、ただ一つだけ、誰にも負けないところがあったわ」

「特技ということですか?」

「そうじゃなくて……。節子さんのことを心の底から愛していたのよ」


 のろけかよ。肩透かしを食らって、がっくりと肩が落ちてしまった。

 雫と邦志は楽しそうに車の窓から外を見ている。


「えっと、それで祖父がどうかしたんですか」

「節子さんが好きなあまりに女将を、つまり自分の母親を追い出したのよ」

「……え?」

「『浅野井』から追い出したの」

「マジですか」

「マジもマジよ。節子さんは反対したし、うちの親や親戚が集まって抗議したみたいだけど、信三さんったら怒り心頭って感じだったみたい。もちろん感情だけで母親を追い出したわけじゃないのよ。あのときは姑があまりにひどかったから従業員も長続きしなくて、ピンチだったみたいなのよね」

「そんなにひどかったんですか?」

「おばさんも当時は子供だったからよくは知らないけど、結構どころか、かなり危なかったみたいよ? それで余計におばさまもカリカリしてたんでしょうけど、それが巡り巡って旅館全体の雰囲気を暗くしちゃってた、ってわけ」

「へえ……」



 てっきり、昔ながらの経営で昔馴染みの客に支えられているだけの古い宿だとばかり思っていたが、天下の『浅野井』にそんな歴史があったとは。



「ということは、夫婦で立て直したってことですね」

「節子さんが、立て直したのよ」

「えっと、祖父は何を?」

「釣り三昧で忙しそうだったわね」



 典型的なダメ人間じゃん。まあ、『浅野井』は釣り好きにはたまらんロケーションではあろうけど、働けよと思わないでもない。まあ、故人にいってもしょうがないか。



「誤解しないでね。信三さんは節子さんにのびのびやってもらうために口を出さないようにしていただけなのよ。問題が起こったら信三さんが真っ先に動いていたから、たぶんそういうことなの。あの夫婦はそれでよかったのよね、きっと。それに節子さんは『浅野井』を潰してもいいと信三さんからいわれていたみたいだし」

「そうなんですか?」

「信三さんは、本当は節子さんを『浅野井』に縛りたくなかったんだって。のびのびと好きなことをやってほしいと思っていたけど、節子さんは、きっと自分のせいで信三さんが親戚から非難されるところを見たくなかったのね。それで『浅野井』と心中する覚悟で働いて働いて、一生懸命働いて、今の『浅野井』を作り上げようとしているときに……そのときに生まれたのが、アレよ」

「……俺を産んだ人、ですね」

「そう、それ」


 スミレさんは唾でも吐きそうな口調でいった。


「たしかに可哀そうな子ではあったかもしれないわよ。節子さんは普通の母親と比べたら満足に子育てをしていたとはいえないものね。アレとか紅葉ちゃんが寂しい思いをしていることは、ちゃんと節子さんはわかってたの。そのことで苦しんでもいた。でもね、空いた時間は全部子供たちのために使ってたのよ。自分の時間を全部子供たちのために使っていたのに、それなのに……」



 そういって、悔しそうにスミレさんは唇を噛んだ。


 スミレさんには親戚という意識がある。他人の目線で節子さんを見てはいないと思う。それでも節子さんのことを想っていることは伝わってきた。それだけで来てよかったと思えた。



「スミレおばさんから見て、節子さんはどんな人ですか」


 思い切って、尋ねてみた。ルームミラー越しに俺を見て、スミレさんは表情を和らげた。


「お茶目な人よ」

「……その答えは想像もしてませんでした」

「あら? どうして?」

「だって表情は動かないし、口調は他人行儀だし、いうことは一方的だし」

「それは照れてるときの癖よ」

「……そうきたか。あのですね、俺、真面目に訊いてるんですけど」

「だから真面目に答えてるじゃない」

「じゃあ、何でちらちら鏡越しに俺を見て笑ってるんですか」

「だって、信三さんにそっくりなんだもの」

「えっと……聞き違いでしょうか。今何といいました?」

「信三さんよ。仁くんのおじいさん。真剣な目つきとか大げさな仕草とか、そっくり」

「ぜんっぜん嬉しくないんですけど」

「そう? でも信三さんって格好よかったのよ? 姿はすらっとしてて、性格は無邪気で、良く笑う人だったわね。おばさんの憧れのお兄さん、というより、初恋の人なんだけどね。だから仁くんを見てるとなんだかウキウキしちゃって、若返ったみたい」

「いや、そんなこといわれても知りませんよ。祖父に会ったこともないし。だいたい初恋の人とかいわれても俺はどうすればいいんですか。たしかにおばさんはお姉さんといってもいいほど魅力で溢れてますけど、だからって、それじゃあデートしましょうともいえませんよね」

「仁くんなら喜んで誘いに乗っちゃうわよ?」

「……なんだ、これ。それは家系ですか。赤羽家の呪いですか。百合ゆりみたいなことをいわないでくださいよ」

「百合? 紅葉ちゃんの娘さんのこと?」

「そう、それです。あいつも大概酷いんですけど、あれは遺伝だったんだなあと実感しました」



 前のめりだった身体を背もたれに預けて、腕を組んだ。スミレさんは笑いながらウインカーを出した。左に曲がると、正面に海が見えた。雫と邦志が前の座席にしがみつくようにして身を乗り出した。だがシートベルトが邪魔をして立てずにいる。



「にいちゃ」


 邦志がベルトを外してくれと催促してきた。


「だめだ。あとから海に連れて行ってやるから待ってろ」

「にいちゃ……」

「だめだ。雫もあんまり身を乗り出すなよ?」

「うん」



 いい子の雫の頭を撫でた。日頃のお手入れの成果で、髪が川瀬化してきている。


 だが、まだ足りない。川瀬の髪は、もっとさらさらだ。

 しかしまあ、それも時間の問題だろう。なんたって、俺は極意を掴んだのだから。


 髪を洗うコツは、頭皮の洗い方にある。頭を洗う前に十分に頭皮を温めてから、髪ではなく頭皮を洗うのだ。そうすることで丈夫で健康な髪が育つらしい。


 もちろん、使用するシャンプーは天然素材の物に限る。



「ほら、見えて来たわよ」



 前方に海岸を隠すように生い茂っている松の木が見えた。あれらすべてが『浅野井』だ。


 松の森を割るように伸びている道を横目に、さらに直進して、従業員専用と書かれてある看板の奥を曲がった。松の木に囲まれた道を進み、突き当りの従業員専用の駐車場に入った。正面に海が見える。


 車が停車するのを待っていたように邦志が騒ぎ出した。これは要警戒だ。めっ、と叱ってからシートベルト外して、ドアを開けた。


 と、邦志が飛び出そうとしたから、後ろから抱きかかえて車を降りた。怒られてしょんぼりしていたのは演技だったのかと思うほど、元気だ。それは大いに結構なんだが……。


 邦志をおろして、しゃがみ、目線を合わせた。



「駐車場で遊んだらダメだといったはずだぞ」



 邦志が口を閉じて、「うー」と唸った。口答えしたいのだろうが、前に叱ったことを覚えているから何もいえないくて、語彙力もないため言葉に出来ず、こういうふうに抗議してくるようになった。


 いわゆる、『4歳児の反抗期』というやつだ。それが出てきているのだろうと思う。雫のときもあった。



「にいちゃ」

「ダメなものはダメだ」

「うー……」



 あー、これは泣く。良くも悪くも、最近は体力もついてきており、泣き方もパワフルになってきている。


 保育園の先生がいうには、男の子場合は暴れる子もいるらしいが、邦志はそういうことはない。ただ、延々と際限なく泣くのだ。


 こんなときは必殺技だ。脇を抱え上げて、ぐるぐると回った。こんなことを毎回していたら味を覚えて、泣きまくるだろうから滅多にしないが、今日は特別だ。途端に、邦志がきゃっきゃと騒ぎ始めた。


 だが、10回と決めている。それ以上はしない。

 邦志をおろして、大人びたあきれ顔をしていた雫の頭を撫で、車から荷物を取り出した。



「にいちゃ。もう一回」

「よしよし。あとでな」


 聞き流して、バッグを左右の肩にひとつずつスポーツバッグをかけた。


「お待たせしました」


 待っていてくれたスミレさんに謝った。


「いいのいいの。━━ほんと、なんだか懐かしい気分になっちゃった。うちの子に比べたら可愛いものだけど」

利樹としきさんって、そんなにひどかったんですか」

「それはもう、物は投げるし泣くし、手がつけられなかったわよ。今ではどうしようもないガラクタになっちゃったけど、どうしてあーなっちゃったのかしら」


 スミレさんは俺のズボンを引っ張っている邦志を見つめたまま、頬に手を添えて首を傾げた。


「でも基本的にうちの家系って、男の子はダメな子が多いのよね」

「……なんでそこで俺を見るんですか」

「あ、ごめんなさいね。なんだか雰囲気が信三さんに似ているものだから、つい」

「勘弁してくださいよ、ほんと」

「まあまあ、いいじゃないの」

「ちっともよくありませんから」

「あらあら。仁くんも反抗期かしら」

「……なぜそうなる」



 じっとスミレさんの目を見つめた。

 見えた。目の奥で笑ってやがる。まあ、表情も笑みで溢れてるけど……。


 なんだかなあ……。



「暑いし、さっさと行きましょうよ」

「あ、そうね。こっちこっち。案内するからついてきて」



 スミレさんの案内で、『浅野井』の離れにある家屋に向かった。そこが俺を産んだ人と紅葉おばさんの生家だという話は前に来たときにスミレさんから聞いている。入るのは初めてだ。


 築ウン十年の木造だが、古民家というよりもアンティークチックな雰囲気が漂っている。いかにも日本家屋という感じだ。周囲には草も生えておらず、大事にされているのがわかった。それに、広そうだ。


 玄関先に着物姿の節子さんが立っていた。先にスミレさんから節子さんの話を聞いたせいで、色無地の淡いピンク色の着物が節子さんの今の心情を表しているように感じた。


 節子さんが今日を楽しみにしていたという話だ。なんだか、照れくさくなってしまった。もう、いっそのこと開き直って、初っ端にハグでもしてぶちかましてやろうかしら。今なら血筋ということで許される気がする。



「お久しぶりです、節子さん。お世話になります」



 雫たちの前でハグなどできるはずもなく、節子さんの前に立ち、丁寧に礼をした。



「お久しぶりです。雫さんと邦志さんも、よくいらしてくれました」


 節子さんは相変わらずの能面ぶりで挨拶をして、スミレさんに視線を向けた。


「スミレさんもお疲れ様でした。どうぞお仕事にお戻りください」



 おいおい。そりゃないだろうと思ったが、スミレさんは「あらあら」と笑いながら、「これは照れてる証拠よ」と耳打ちしてきた。節子さんが冷めた目でスミレさんを見た。


「スミレさん。聞こえておりますよ」

「あらあら、まあ。やだわ」



 節子さんに冷眼を向けられてもスミレさんはたいしてこたえた様子も見せず、風を送るように手を上下させた。


「もう、おばさまったら。そういうときは聞こえないふりをするものよ」

「……お仕事にお戻りなさい」

「はいはい。それじゃあ、お邪魔虫はお仕事に戻らせていただきます。仁くんたちもゆっくりしてらっしゃいね」

「はい。ありがとうございました」



 お邪魔虫なんて言葉を聞くのは本当に久しぶりだが、あえて触れずにスルーしておいた。


 しばらくスミレさんの去り行く背中を見送り、節子さんのほうに顔を戻した。なんだろう。節子さんの表情は相変わらずなのに、表情が戻った、という感じがした。もしかしたら、さっきまで微笑んでいたのではあるまいか。そんな気がする。



「お部屋に案内します」



 抑揚のない声でいい、節子さんは振り返った。俺を挟むように立っている雫と邦志を見た。惚けたように節子さんの背中を視線で追っている。


 どうやら、俺の気のせいではなかったようだ。


 間違いなく、節子さんは俺が見ていないときに笑みを浮かべていた。雫と邦志の惚けた雰囲気は、俺が節子さんの笑みを見たときと酷似しているから間違いない。


 よし、決めた。ここにいる間に、もう一度節子さんのあの微笑を見せてもらう。これが目標だ。

 雫と邦志を先に家にあがらせて、靴を揃えて置き、節子さんの後に続いた。


 さらっと見たところ和室しかない。というか、家の中に庭がある。正確には、廊下に囲まれる形で庭がある。


 その庭は遊ぶための庭ではない。愛でる庭とでもいうのか、京都にありそうな砂紋のある石庭だ。枯山水ともいう。大きめの岩が1つと小さい石が4つほど置かれてある。それらの岩や石に特別な意味があるようには思えない。本音をいえば適当に転がしたとしか思えなかった。


 なんかあれだな。「どうだ!」と押しつけられているようで、正直見てられない。


 綺麗に磨かれたガラス戸があるから外気は入ってこないが、夏の熱だけは感じる。夏は暑く、冬は寒い。何とも風流な家だった。


 節子さんが立ち止まり、襖を開けた。12畳の和室に、黒塗りのテーブルと座布団が置かれてある。テレビと冷暖房も完備されている。これで冷蔵庫があれば、完璧、旅館って感じだな。



「こちらのお部屋をお使いください。お手洗いとお風呂は廊下の奥にあります」



 台所はどこだの、茶の間はどこだのといいながら、節子さんは手で方向を指した。

 指ではなく手だ。


 それはまあいいとして、あまりにも事務的なしゃべりかたをするものだから、本当は迷惑がっているのではないかと勘繰った。スミレさんから話を聞いていなかったら、迷いなく断定しただろうが、幸いにも聞いていたから疑うだけで済んでいる。


 で、説明を聞いた後で「迷惑ではなかったですか?」と訊いてみた。

 節子さんは表情を変えることなく、「なぜですか」と反対に訊いてきた。



「いえ、忙しい時期でしょうし、あまり歓迎されていないのかなと思ったからですけど」

「そのようなことはございません。どうぞ、おくつろぎください」

「はあ……」



 そんな不愛想にされて、くつろげるやつがいるなら連れてこいって話だ。


 まあ、いるか。紅葉おばさんは別としても百合とかスミレさんとか、赤羽家の血を引く女性陣はかまわずくつろぐだろうと思う。


 だが、俺はあそこまで図太くない。それをいったところで節子さんは顔色を変えることはないんだろうなあ。ちょっと気に食わないが、まあいい。



「それならいいんですけど……」



 雫と邦志はすでに部屋に入っている。暴れるなよと声をかけて、改めて節子さんを見つめた。やっぱり、実年齢よりも若く見える。そして、綺麗だ。



「節子さんは今日もお仕事ですよね? 話したいことがあるんですが、都合のいい時間を教えてもらえると助かります」

「本日はお休みをとっておりますのでいつでも結構です。明日は午後に大切なお客様をお迎えいたしますので、夜まで戻りません。明後日は」


 手の平を出して、止めた。


「でしたらこれから一緒に海に行きませんか」

「……海?」


 ふっ、やったぜ。節子さんを困惑させてやった。


「はい、海です。海水浴です。紅葉おばさんから聞いたんですけど、向かいの浜辺は泳げるんですよね? 屋台もあると聞いてます」

「ええ、たしかにありますけど……」

「じゃあ、一緒に行きましょう。準備をしてからなので30分後でどうですか」

「……そうですね」

「ではそういうことで」



 勝手に決めて、部屋に入った。節子さんは廊下でしばし立ち尽くしていたが、表情を戻して「わかりました」と答えて去っていった。

 小さくガッツポーズを決めて、さっそく聖和にメールした。


『だしぬけに節子さんを海水浴に誘った。言葉を詰まらせてやった。困惑した表情を見た。次は笑った顔を見る予定』


 スマートフォンをテーブルに置き、雫と邦志の水着を出した。



「ほら、着替えろ。海に行くぞ」

「海ッ。行く」


 と、雫が弾けたように叫んだ。


「行く」


 邦志も続き、服を脱ぎ出した。邦志も自分で着ようとしている。

 ならば、俺もお着換えタイムだ。襖を締めて、海水パンツをはいた。


 はしゃぐ2人に待ったをかけて、脱ぎ散らかされた服をたたむ。雫がスポーツバッグを漁って浮輪を出した。



「お兄ちゃん、空気入れは?」

「問題ない。兄ちゃんに任せとけ」

「……本当?」

「その疑いの眼差しはなんだ。楽勝だぞ。本当だぞ。いいか、見とけよ?」



 畳んだ服をテーブルの下に入れて、バッグからストローとゴミ袋を取り出した。


 まず浮輪の栓にストローを差し込む。次に町内指定のゴミ袋に空気を溜める。最後に、ゴミ袋の口を手で押さえてストローを差し込み、空気を溜めたゴミ袋を脇に挟んで空気を押し出す。


「わ、わあ」と雫が感激の声を上げた。


 何度も練習しといてよかったあ。ゴミ袋の空気を絞り切ったときには、浮輪はドーナツ形でぷっくりと膨れていた。仕上げに軽く口で空気を入れれば、一丁上がりだ。



「どうだ」


 胸を張って雫を見た。邦志も尊敬のまなざしを向けてきている。


「お兄ちゃん、すごい」


 雫が拍手喝采の賛辞を送ってきた。


「ふふん。いったとおりだろ?」

「うん。いっぱい練習したんだね」

「……う、うん」


 それはいわないお約束なんだけど……。可愛いから許す。


「よくがんばりました」


 おませな雫に頭をよしよしと撫でられた。

 まさか、雫に行動を読まれるとは思わなかった。衝撃だった。雫の成長を間に当たりにして、嬉しいやら寂しいやらで涙が出て来た。

 ぐわし、と雫を抱きしめた。


「まだお嫁には行かないでくれよ」

「雫はお兄ちゃんのお嫁さんになるもん」

「うんうん。そうだな」



 しっかりと抱きしめて、ついでに邦志も抱きしめて、ひとしきり泣いた。ふと視線を感じて廊下側を見たら、節子さんが呆れた顔で俺を見ていた。


 これはこれで新しい節子さんを見た気分にはなったが、この表情は見たくなかった。


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