第47話 俺とハプニング


 聖和が座ったまま振り返り、川瀬を見た後で呆れた顔を作った。



「今度は川瀬さんか。おまえは何人連れ込めば気が済むんだ」

「やかましいわ、この裏切りもんが」

「裏切り者?」


 聖和が眉間にしわを寄せた。


「それは聞き捨てならないな」

「二度も誘ったのに断りやがって。なのに、ここで何してやがるんだよ、おまえは」

「いったはずだ。僕とおまえが一緒に行ったところで、まともなプレゼントが買えるとは思えないとな」

「だが心細さは解消される」

「なるほど。寂しかったわけか」

「あほかっ。んなわけねえだろうが」



 厳重に抗議して、川瀬に食卓の椅子に座ってもらった。買い物袋をその食卓に乗せて、台所に回った。


 外は真夏の陽気だったが、家の中は風が抜けてひんやりと涼しい。聖和が窓を開けてくれていたおかげだ。


 手を洗いながら川瀬に何を飲むか尋ねた。



「麦茶があるならそれでいいよ」


 川瀬はツンケンとした口調でいった。


「あるけど、遠慮はいらんぞ。コーヒーとか紅茶とか、ほかにも━━」

「麦茶でいい。まあ熱いお茶でもいいけどさ」

「そうか」

「僕はコーヒーで頼む」

「おまえは自分でやれ」

「……なるほど。話し合う必要があるようだな」

「残念ながら、そんな必要はどこにもない」



 コップを二つ用意して、冷凍庫を開けた。トングで氷を摘まみ上げてコップに入れて、麦茶を注ぐ。コップを持ってリビングに出た。


 川瀬の前にコップを置き、彼女の向かいに座った。



「まあ聖和がこなかったおかげで川瀬と会えたし、自転車も買えたし、まけてもらったし、結果的におまえが来なくて正解だったよ」

「まけてもらった?」


 聖和が問うような眼差しを向けてきた。


「それは、川瀬さんと何か関係があるのか?」



 ぎくりとした。川瀬もコップを持ったまま固まっている。俺と川瀬の間に微妙な空気が流れた。


 聖和という男は、こういったゴシップ的な空気にやたらと敏感だったりする。



「やはり、話し合う必要があるようだ」



 そういってコーヒーカップを片手に移動してきた。俺の横に立つと、川瀬の隣の席を指さした。向こうに座れということだろう。



「断る」



 断固反対した。聖和は驚いた表情を浮かべた直後に、にやりとした。



「しょうがない。川瀬さんに移動してもらおう」

「ちっ。わかったよ」


 立ち上がった。


「おまえは何がしたいんだよ」

「二人の表情を観察しながら話をしたいだけだ」

「物好きなことだな」



 川瀬の隣に座り、置いてきた麦茶を手元に引き寄せた。聖和が俺のいた場所に座った。



「さて、聞こうか」

「何をだよ」

「何があったのかを、だ」

「繁華街で川瀬と会った。で、買い物に付き合ってもらった。店では男女ペアでプレゼントを買いに来た客には2割引きで提供するという謎の制度があった。そういうことだ」

「ほう。そんな制度があったのか」

「ああ。だからおまえじゃなくて正解だったんだよ」

「しかし、なぜ川瀬さんはひとりであの繁華街にいたんだ。あそこはデートスポットなのだが」

「……そうなのか?」


 初耳だった。聖和が深々と頷いた。


「専門の飲食店が多かったはずだ」



 いわれてみれば、たしかに多かった。中華飯店とかイタリア料理とか、少し高そうな飲食店がならんでいた。



「高校生が行くような場所ではないが、社会人ならばあそこに行けば食べ物に困らない。それに近くには海に面した公園や水族館、夜景を楽しめる高台もある。高校生の女の子がひとりで行く場所ではないと思うのだが……」



 聖和は俺を見ながら説明したが、その意識が俺の横に向かっていることはわかっている。


 いつもの川瀬なら勝気にやり返しているはずだが、今は俯いて小さくなっている。



「ふうん、そうなのか。でも残念ながら川瀬はひとりでそこに行ってるぞ」



 ほう、と聖和が驚きの声を上げた。テーブルに置いていた袋を指さした。



「あそこにオーガニック素材を使ったシャンプーなんかを売ってる場所があるんだよ。川瀬の髪は、そこで買ったもので手入れをしているらしい。で、会ったついでに教えてもらって川瀬が使っているものと同じものを買ってきた」

「そうなのか」



 あてが外れてがっかりしたのか、聖和の声は沈んでいた。なぜ、と思わないでもないが、昔からこういうやつだった。



「前に川瀬に、髪の手入れのやり方を教えてくれと頼んでいたんだよ。そういうことだ。わかったか」

「なるほど。筋は通っている」

「筋ってなんだよ。それがすべてなんだから、含みのある言い方するな」

「さて、どうだろうな」



 聖和が川瀬を見た。聖和にしゃべらせてはいけない。そんな匂いがした。

「待て」と声をかけた。聖和は俺を一瞥した後で、切り出した。



「あなたは仁が繁華街に現れることを知っていたんじゃないですか」


 川瀬の細い方が小さく跳ねた。


「佐藤さんから聞いていた。そうですね」

「え、そうなの?」



 俺も知らなかったことだ。川瀬は答えない。俯いたままだ。

 構わずに聖和は続けた。



「僕の想像だが、佐藤さんと霞ヶ丘さんが仁と一緒に行けないことを知り、あなたは仁を待つことにした。佐藤さんに頼まれたのか、あるいはそうではないのか。さて、どうかな」



 いつもの聖和らしくない発言だった。訊くにしても、俺のいないところで確認を取るだけだ。


 何が気に入らないのかは知らないが、この物言いはあまりにも不躾だった。



「いい加減にしとけよ」


 直接諫めたが、聖和は澄ました顔を向けてきた。


「ただの推理だ」

「だとしても、ここでいう必要はないだろうが。おまえらしくねえぞ」

「仁には関係のないことだ」


 フンと鼻を鳴らして、川瀬を見た。


「関係あるからいってんだよ」


 語調を強めて、聖和の意識を引いた。


「ほう」


 聖和が細めた目を向けてきた。


「どう関係があるというんだ」

「好きな人を侮辱されて許せるのか? これ以上の説明が必要だとしたら、おまえとの付き合い方を考えさせてもらう」



 聖和が目を見開いた。心底驚いたといった表情をしている。なんか笑えた。



「聖和がどう思っていようと、どう推理したとしてもそれはおまえの勝手だ。だがな、たとえおまえでも、彼女の心を踏みにじることは許さん」



 聖和が驚いた顔を川瀬に向けた。

 俺も川瀬に見られていることはわかっている。だが今さら好きな人ではなく、知り合いといいなおすことはできなかった。


 ここはスルーが一番。ということで、気づかないふりをするしかなかった。

 聖和が眉間に深いしわを寄せた。



「これはいったいどうなっている」



 それはこっちの台詞だ。うちのクラスの委員長様に議長をやってもらいたいくらいに混乱している。



「状況を整理するぞ」



 聖和が苦しげにいった。

 頷いて賛同の意を示した。



「仁は川瀬さんのことが好き、と。好きの度合いや意味には触れないが、異性として川瀬さんを見ていることは間違いなさそうだ」



 そうだな、と訊かれた。どんな羞恥プレイだと思わないでもなかったが、川瀬の熱視線をひしひしと感じているのに違うなんていえるわけがない。男らしく頷いておいた。


 家に帰る前に川瀬とはいろいろと話をした。もちろん、自転車屋でのキスのことについてもちゃんと話し合っている。


 事故だからなかったことにする、というのは俺の美徳に反する。忘れることはできないと断言したのだが、川瀬は忘れろの一点張りで言い合いになった。互いに引かず、デッドヒートしたが俺はまったく後悔していないとはっきりいってやったら、川瀬が折れた。ただ、キスのことは二人だけの秘密ということになっている。


 聖和がふむと頷き、腕を組んだ。



「川瀬さんも満更ではなさそうだから追及はやめておこう」

「何いってんだよ、おまえは」

「ふむ。仁は相変わらずということだな。それならそれで好都合だ。それよりも」


 聖和は真面目腐った顔を川瀬に向けた。


「佐藤さんのことはどうするつもりですか」



 なぜにここで佐藤が出てくるのだろう。深い謎ではあったが、俺が何かをいっていい感じではない。静観した。



「あんたには関係ないでしょ」


 川瀬は俯いたまま消えそうな声でいった。


「なるほど。たしかに直接的には関係はない。誰の肩を持つつもりもない。川瀬さんと佐藤さんの関係について口を出すつもりもない。ただ、僕が心配しているのは仁のことだ」



 なんだろう。意味不明なのに、聖和の真っ直ぐな言葉にキュンと来てしまった。



「あなたは、佐藤さんと霞ヶ丘さんが守ってきたパワーバランスを壊そうとしている。もっとも、それはそれでよかったと思う。だが、正直にいえばやり方が気に入らない」

「なっ……」



 川瀬が立ち上がった。ガタンと椅子が倒れた。

 噴火間近だ。しかし聖和は澄ましたものだった。



「あなたと佐藤さんの仲が険悪になった場合に仁がこうむる被害について、あなたは考えが及んでいない」

「何も知らないくせに、適当なことをいうんじゃねえよっ」



 はい、噴火しました。立ち上がって、どうどうと川瀬の肩を叩いた。



「聖和の手口だ。挑発に乗るな」

「挑発しているつもりはない」とやけに冷静に聖和がいった。もはや溶岩に水をかけたようなものだ。これを挑発しているといわずしてなんというのだろうか。


 案の定、川瀬が激高してテーブルを叩いた。


「あたしだってわかってんだよ。でも、しょうがねえだろう。キスする気なんてあたしだってなかったんだよ」

「……キス? 仁、どういうことだ」



 川瀬が、あっという顔をした。何がどうなっているのかさっぱりだが、こうなった以上はちゃんと説明するしかない。


 椅子を起こして、川瀬を座らせた。コップを持ち、麦茶を飲ませる。川瀬の世話をしていると心が和んできた。


 よし。俺は冷静だ。川瀬のほうも多少は落ち着きを取り戻したらしい。ただし、申し訳なさそうに上目で俺を見ている。なんだか川瀬が可愛く見えた。



「しゃべったのものはしょうがない。川瀬? 話すぞ?」

「ごめん。あたし……」

「いいって。気にすんな。それに知られて恥ずかしいことなんて何一つない。後悔もしちゃいない。相手が川瀬でよかったとさえ思っている。川瀬も後悔はしてないっていったろ?」

「それはそうだけど……」

「だったら堂々としてりゃいい」

「ごめん」



 川瀬が怖がるようにうつむいた。その頭を一撫でしてから聖和を見た。



「じゃあ、事情を説明する」

「それはさっき聞いたはずだが」


 聖和が不機嫌さ全開で厭味をいってきた。


「さっきのは簡易的な話で、今度は詳細な話だ」



 そう断ってから、川瀬と会ったときのことから順を追って説明した。重点的に話したのは、自転車屋の店員さんに煽られたところだ。そこだけは、俺や川瀬がどういったことを考えたのかも話した。


 すべてを聞き、聖和は納得したように頷いた。



「つまり、事故か」

「まあそういうことだ。というか、なんでおまえはそんなに偉そうなんだよ」

「気にするな」



 このやろう。優雅にコーヒーをすすってる場合か。説明しろってんだ。



「だいたいなんで川瀬と佐藤さんが仲違いするなんてことを心配してんだよ」

「誤解するな。僕が心配しているのは、ふたりの間に挟まれた仁のことだ」

「……このやろう。恥ずかしいことを平然といいやがって」

「おまえが苦しんでいる姿はさんざん見てきた。もうあんな姿は見たくない。そう思うことが恥ずかしいことなのか」

「そういう意味じゃねえよ。っていうか、話がずれてるな」

「……たしかに。キスの話だったか」

「違う。なぜ佐藤さんが出てくるのかだ」

「その件については片づいている」

「あほか。とっちらかったままだってんだ」

「仁にとってはそうだろう。だが僕たちの間では片づいていることだ。ここで殊更に取り上げる問題ではない。あとは自分で考えろ」

「こんのやろう……」



 睨みつけてやったが、聖和はふんと鼻を鳴らして残り少なかった白色に近いコーヒーを飲みほした。



「事情は把握した。問題は仁と川瀬さんの今後だな。付き合うつもりならば早めに告知したほうがいい」

「告知って……。病気じゃねえんだからさ、言葉を選べよ」

「ならば宣告か」

「それも微妙に違うな。そもそも誰にいうんだよ」

「決まっている。佐藤さんと霞ヶ丘さんにだ」

「いわないで」


 川瀬が懇願するように聖和に向かっていった。


「お願いだからこのことはいわないで」

「付き合うつもりなら、だ。そうでないのならばいう必要はないだろう。もっとも、知られた場合にどうなるかは考えたくないがな」

「そのときはあたしが責任をとる。だから━━」

「ちょい待て」


 川瀬の発言は聞き逃せなかった。割って入った。


「責任を取るとか取らないとか、そういう話じゃない。あれは事故ではあるが、なぜに佐藤さんが出てくるんだよ。俺にはそこが理解できてないんだが」

「おまえは掃除でもしていろ」



 このやろう……。立ち上がってテーブルを叩いた。



「片手間で掃除ができるかっ。掃除をなめんな!」

「……そうだな」



 愕然とした。

 気迫のこもった雄叫びだと思ったのに、聖和の口調はとても冷めていた。



「なぜ冷静に切り返せたんだ?」

「すまない。僕には、おまえが掃除のことでそこまで真剣になれる気持ちがわからない」

「なん、だと?」


 いや、そうじゃない。


「話を戻そうか」


 座りなおした。


「キスのことだが、本当は聖和にだっていう必要はなかったと俺は思っている。だからといって隠すことでもないとも思っている。でも俺と佐藤たちはただの友達だ。なぜ責任うんぬんという話になるんだよ」



 返答はなかった。川瀬も聖和も、口を閉じてしまっている。



「おい、違うのかよ」


 二人を交互に見たが、うんともすんともいいやしない。


「その反応は何なんだよ。おまえら、もしかして佐藤さんと霞ヶ丘さんが俺に惚れているとでも思っているのか?」


 川瀬と聖和が視線を交差させて、同時に憐憫の眼差しを向けてきた。


「ばかめ。俺はちゃんとわかってんだよ。あいつらが好きなのは俺ではない。それはありえねえんだよ」

「そうか。よかったな」


 聖和はそういって立ち上がった。


「よかったとは何だ。おい、ちゃんと説明しろ」


 追いかけようとしたが、立つ前に川瀬に握っていた手を引かれた。


「やめておけ」

「そうはいうけどな━━」


 川瀬が首を小さく横に振った。


「あたしにいう資格はないかもしれないけど、やっぱりこういうのは本人の意思が大事だと思う。つゆみたちがいわないうちは、あたしらにいえることはないよ」

「いや、何の話だよ」

「いいんだ。あんたはそのままでいい。悪いのはあたしなんだ」

「またおまえはそういうことを……」



 謙遜は美徳だが、卑屈は面倒だ。なぜにこうまで川瀬は自分に自信が持てないだろうか。さっぱりわからない。



「何がどうなってるのかさっぱりだが、川瀬のことはわかっているつもりだ」



 川瀬が伏せていた目をあげた。真意を探るような目だ。

 いくらでも覗いてくれというつもりで、その瞳を見つめ返した。



「川瀬は佐藤さんのことを気にしてるんだよな」

「うん」


 と、川瀬は素直にうなづいた。その仕草に心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。


 うっかりと抱きしめたい衝動に駆られた。

 これがギャップ効果というものなのだろうか。それにしては、可愛すぎだろう。


 しかし、あまりよろしくない兆候だ。きっと、あのキスが原因だな。感情の抑制がうまくできていない。

 吐息をついて、心を沈めた。


 よし。俺は冷静だ。



「何が原因かは知らないが、川瀬とは唇を重ね合った仲だからな」

「唇……」


 川瀬の顔色が爆発した。


「ばか。思い出させるな」

「事故だろうとキスしたのは本当だからなあ」

「やめろってば。あたしだって初めてでどうしていいのかわかんなかったんだからな」

「でも本当のことだし」

「やめろっていってんだろ」



 川瀬が真っ赤な顔で睨んできた。だが刺々しさはない。恥じらいが前面に出ていて、そういうところもまたいい感じだった。



「なんか、悪い。こんなことをいうつもりじゃなかったんだが」

「別にいいよ」

「そ、そうか」



 ああ、顔が熱い。なんだか変な汗まで出てきやがった。川瀬の手を放して、額の汗をぬぐった。


 視線を感じてソファーのほうを見たら、聖和が呆れの表情を向けてきていた。どうにもいたたまれない気分になった。



「まあとにかく、原因が何であれ、俺が川瀬を嫌うことはないということをいいたかったんだ」


 川瀬が雨に打たれている子犬のような目で見つめてきた。


「本当に?」

「何を今さら。あたりまえだ」

「もし、つゆみがあんたを好きだとしてもか」

「どんな仮定だよ」

「答えろよ。どうなんだよ。あたしは、つゆみに反対してたんだ。そのときはあんたのことなんて全然意識してなかった。単純につゆみの心配をしてたんだ。それなのにあたしがあんたとあんなことになって……」


 唇を嚙み、川瀬は何かをこらえるようにうつむいた。


「そうだとしてもだ」


 はっきりと口にした。川瀬が驚いたように顔をあげた。


「何をいいたいのかさっぱりわからんが、理由なんてどうでもいい。とにかく俺は川瀬の味方で居続ける。それだけ覚えておいてくれたらいい」

「あんたは……」


 川瀬が諦めたように目を閉じてもたれかかってきた。


「ばか。重いんだよ」

「逃げたくなったら遠慮なくいってくれ。追いはしない。ただ戻ってきたくなったら戻ってくればいい。俺にしてやれることなんて、待つことだけだからな」



 ふと、時計が目に入った。14時を回っている。あと1時間もしたら雫が学校から帰ってくる。



「まあ、そういうことだ。イラついたら俺にあたればいい。辛かったら話を聞いてやる。寂しかったらだから甘えてくればいい。俺が全力で受け止めてやるさ」


 今の想いを込めて、肩に乗っている川瀬の頭を撫でた。


「だから、安心しろ」


 これですべてだ。俺の気持ちはすべて話した。


「ばか」



 しなだれかかったまま川瀬は大人びた優しい声でそういった。その肩に腕を回して、長く垂れた髪を指で梳いた。さらさらだった。


 ついうっかりと、どうにかしてこの髪の毛でかつらを作れないだろうかと考えてしまった。やはり、俺は最低の男なのかもしれない。痛切にそう思わずにいられなかった。


 しかし、この可愛い子はいったいどこの川瀬だろうと思わないでもない。


 勝ってパンツのゴムを締めよとはよくいったものだ。もしも、この場に聖和がいなかったら危なかったかもしれない。それほど甘い空気に流されそうになった。


 でも仕方がないとも思う。男の子だもの。


 今回の教訓はあれだな。本当に制御すべきは感情ではなく本能だった、ということだ。


 愛が先か、セックスが先かと問われたら、愛が先だと俺は答える。しかし、口では「愛する人は生涯にひとりでいい」なんて格好いいことをいいながら、実際のところ、やはり俺はあの父親の血を受け継いでいるのだろうと思う。口から先に生まれて来たとは思いたくない。となると、やることはひとつだ。


 有言実行━━それしかない。約束した以上は守る。それが俺の指標としようと思う。


 気合と根性でどうにか甘い空気を断ち切り、川瀬から髪のお手入れのやり方を教わった。だが、最初の実験台は聖和だった。


 この期に及んで川瀬がしぶったのだ。なぜだなぜだと迫ったが、すったもんだの末に俺も理解した。


 そもそも俺は致命的な思い違いをしていたのだ。というか想定が甘かった。川瀬に実演してもらうといっても、背中の中ほどまである長い髪を洗うには服と共に羞恥心を脱いでもらうしかなかったのだ。


 代案として、俺のシャツを着てもらい実演してもらうということも提案したが却下されて、どうせもう夏だし水着を買いにいこうと提案してみたが、これも強烈に反対された。


 で、聖和にシャツを脱いでもらい試した。


 もちろん下は脱いでいない。俺のジャージを貸して穿いてもらった。あいつの一物なんぞ見たくないし、あいつとしても裸になれといわれても困るだろう。


 ましてや川瀬がいるんだ。全裸の男を前にしたら暴れまくるに決まっている。逆に聖和の一物を見て興奮されたら、それはそれでなんか嫌だが……。ついでに川瀬にも俺の服を貸して着替えてもらった。


 何が悲しくて、聖和の髪を艶やかにしなきゃならんのだとは思いつつ、これも雫のためだと思い、一から教わった。


 ただ風呂場に至るまでが遠かった。一難去ってまた一難の連続で、俺だって本当をいえば川瀬で試したいんだということを川瀬本人に訴えて、聖和を実験台にどうにか教えを受けた。


 そして、雫があかりちゃんを連れて戻ってきたときに、2人をお風呂に入れた。ただし、雫はまだしも、あかりちゃんが全裸になったらいろいろと問題がある。


 というわけで、あかりちゃんには、雫の海水浴用の水着を着てもらった。雫はスクール水着だ。


 どっちがどっちの担当をするかで少し悩んだが、川瀬に雫を担当してもらい、あかりちゃんの髪は俺が洗った。


 川瀬のほうが髪の手入れには慣れている。しかし、この場合に考慮すべきは、子供の相手に慣れているか否かだ。さすがに人様の大事な娘を他人に預けることに躊躇があった。


 なんたって、雫とあかりちゃんは小学二年生だ。大人しく洗わせてくれるとは限らない。実際に途中で興味をなくしてふたりして水遊びを始めた。そのたびに俺が大人しくさせて、実験を続けた。


 終わったときには川瀬は全身ぬれぬれの状態で、非常に興奮した。聖和たちがいなかったら風呂場が濡れ場に変わるところだったのだ。今後はパンツを紐で縛っておこうと誓った。そんな一日だった。

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