第46話 俺と川瀬



 四天王寺高校の夏休みは18日からだが、普通はその翌週まで学校がある。つまり、雫の夏休みは25日からということだ。邦志の保育園も同じくだ。


 保育園によっては、保護者が仕事で休みのときは保育園を休ませて子供と一緒にいることを勧めるところもあるようだが、邦志の通っている保育園は、反対に親が休みでも預けてくださいといっている。子供同士で遊ぶことも大切だと考えているらしい。


 というわけで、土日の明けた20日から24日まで、日中は家に独りぼっちということになった。


 この機会を逃すわけにはいかない。普段は手の届かない排水溝の掃除や換気扇のお手入れなど、やることは山とあるのだ。


 しかし、その前に済ませておかねばならないことがある。

 雫の誕生日プレゼントだ。これだけは絶対に外せない。


 本来ならば雫と邦志を聖和に預けなければならないところを、2人で買いに行くことができる。こんな機会はめったにないというのに、聖和のやつは「プレゼント音痴が二人そろってもどうしようもない」と拒否しやがり、勉強をするとかぬかして家に引きこもっている。


 雫と勉強とどっちが大事なんだと思わなくもないが、ちょっと女々しいかなと思って、そのことはいっていない。代わりに正樹を誘ってみたが、「俺はさ、ほら、デートがあるから」と軟派な理由で断られた。


 だが、別にいい。最初から正樹には期待しなかった。といったら嘘になるが、俺には佐藤と霞ヶ丘という心強い味方がいる……と思って余裕ぶっこいていたのに、肝心の二人も用事があるとかで来られないという。


 佐藤は図書委員の当番で24日まで不在。というのも、雫の誕生日会に誘ったから、図書委員の仕事を変えてもらったらしい。んで、霞ヶ丘は塾での個別授業の予約がしてあるらしくて7月いっぱい予定が詰まっているということだ。


 急遽あかりママにお誘いの電話をしてみたが、友達とご飯に行くとかで断られてしまい、ひとりで探しに行くしかなくなり、現在ひとりで繁華街を徘徊している。


 子供の自転車を多く扱っている店は、事前に佐藤たちがピックアップしてくれているから店選びで迷う心配はない。


 問題なのは俺のセンスのほうだ。乗れれば別にいいだろという感覚しかないものだから、雫が喜んでくれるか自信がないのだ。


 一番いいのは雫に選ばせることだが、それではサプライズにならない。もっと大きくなったら直接選んでもらったほうがいいとは思うのだが、あっと驚くものを用意してやりたいというのが親心というものだ。



「ひとりで向かう繁華街というものは、なんとも恐ろしいものだな」



 とか、寂しさ紛らわせにつぶやいてみる。


 と、そのときに見つけてしまった。大学生らしき二人組にナンパされている。殿方たちはこの近くにある私立大学の学生だろう。


 俺の心に余裕と潤いを与えてくれたのは、無論のこと、彼らではない。ナンパされている天女様のほうだ。照りつける太陽にストレートの黒髪が輝いている。うるさそうに殿方たちを見ているが、そんな視線などおかまいなしでナンパ者たちは俺にとっての天女様を悪の道に誘っている。


 まあ、大学生と見間違うのは仕方がないが、そいつはまだ高校1年だ。手を出したら犯罪だぞ、お兄さん方。



「アヤブキさん。おまたせ」



 手を振り振り川瀬弘美に近づいた。佐藤の友達の女ヤンキーだ。細身のジーパンに無地の身体にフィットしたTシャツ、靴はスニーカーと定番といえば定番の格好だ。ただ、これまで気にしたことはなかったが意外なことに胸はあるらしい。


 男どもに混ざって、川瀬が驚いた顔を見せた。



「連れに何か用ですか」

「ちっ。野郎連れかよ」



 男のひとりがほざいた。軽薄そうなやつらだとは思ったが、近くで見たら顔立ちもいかにも軽薄そうだった。

 行こうぜ、といって舌打ち交じりに去っていった。



「アヤブキって誰だよ」



 川瀬がいった。佐藤の友達の女ヤンキーだ。



「実名はあれかなと思ってな。それより、ひとりか?」

「……ひとりで悪りかよ」


 顔を逸らして、ツンと答えた。


「全然。というかラッキーだ。ちょっと付き合えよ」

「はあ?」


 川瀬はしかめた顔を向けてきた。


「なんであたしが付き合わなきゃなんねえんだよ」

「まあ、いいじゃないか。妹のプレゼント選びなんだよ。自転車を買おうと思ってるんだが、ちょっと自信がなくてな」

「つゆみを誘えばいいだろ」

「今週は図書委員の仕事があるんだってさ」

「だったら霞ヶ丘を誘えよ」

「彼女は塾らしい」

「赤羽は━━」

「あいつはダメだ。二度も誘ったのに断りやがった」

「なら飯塚を━━」

「全員アウトだ。そして俺の中ではもう川瀬で決定している。俺が諦めるとは思わないことだ」

「なっ……」



 川瀬が目を見開き絶句した。だが知らん。もう決めているんだ。



「なあ、頼むよ。昼飯おごるからさ。もし買い物があるんなら荷物持ちくらいはやるぞ」

「へ、へえ。じゃあ家具でも買おうかな」


 川瀬が小馬鹿にしたように笑った。


「それは勘弁してくれ。頼む。一緒に選んでくれって」


 手を合わせて拝んだ。


「ったく。しょうがねえな」


 川瀬が諦めたように首を振った。


「わかったよ。付き合ってやる。でもこのことは誰にもいうなよ。特につゆみには絶対にいうな」

「別に隠すようなことじゃないだろ?」

「いいから約束しろ。いいな?」

「なんかわからんけど、わかった。いわない。なんなら指切りでもするか?」

「誰がするかよ」



 相変わらずツン全開で拒否しやがった。らしいといえばらしいのだろう。

 まあ、なんでもいいや。これでプレゼント選びも万事オーケーだな。



「んじゃ、行こうぜ」



 繁華街の奥に向かって進んだ。さっき川瀬を軟派していた二人組が、二人組の女性に声をかけていた。大学生だろうか。相手も満更ではなさそうだ。



「よく声かけられるのか」



 ナンパ男たちを見ながら川瀬に訊いた。川瀬がつまらなそうに男たちを見た。



「まあな」

「そっか。でも川瀬って、大人びてるというか色気があるからしょうがないのかもな」

「はあ? あたしに色気だあ? あんたの目がおかしいだけだろ」



 自嘲するような口調だった。


 俺は本気でいっているのだが、どういえば伝わるのだろうか。ふうむと悩み、ど真ん中の直球で勝負することにした。



「十分に色っぽいだろ。私服だと一割増しだな。一緒に歩いているだけで俺まで大人になった気分になるし。川瀬なら大学生といっても疑うやつはいないだろう。まあ、あれだ。川瀬は可愛いというより、綺麗という言葉が似あうな」

「ばかが。うるせえよ」



 おっと、照れてるでござるよ。こういうところも川瀬らしいといえばらしいな。


 もっといってやりたいところだが、プレゼントを選んでもらうまで放すわけにはいかない。かといって謝るのも違うような気がして、「はいはい」と流した。



「で、川瀬は何してたんだ?」

「なんだっていいだろ」

「まあそれはそうなんだが、川瀬が普段何をしているのか想像つかないんだよなあ。趣味とかあるのか?」

「そんなもん別にねえよ」



 今日も今日とてツンケンしている。いつもどおりだな。


 どうやらチャラい兄ちゃんたちはナンパに成功したらしい。来た道を引き返していく。すれ違う際に兄ちゃん二人と目が合った。こっそりと親指を立ててグッジョブとエールを送った。


 兄ちゃんたちは驚いたように表情を固めたが、直後にニヤリとして、女性陣から手を隠すように胸の前で親指を立て返してきた。なんだか、わかり合った気分になった。



「あ、ここだ」



 目的の自転車屋に来た。店舗は路地を挟んで二つに分かれている。しかも横に長い。


 手前にはマウンテンバイクやタイヤの細いロードバイクが多数展示されており、一方通行の路地の向こう側にはマウンテンバイクが飾られてある。


 中に入ってみたら、想像していたよりもかなり奥行きがあった。床にずらりと自転車が並んでおり、壁にも飾られている。それだけでなく宙に吊るされている自転車まである。


 客も結構いるようだ。場所が場所だけに、客が全員その道に通じている人に見えて、自分が場違いに思えた。



「あんたが買いたいのはああいうやつなのか」



 川瀬が壁側に並べられているマウンテンバイクを指さした。子供用といえば子供用なのだが、お値段的にどう考えても競技用としか思えない。



「普通の自転車を探してるんだけど……こっちじゃなさそうだな」


 川瀬がため息をついた。


「表から見てわからなかったのかよ」

「まあ、何となくそうかなとは思ってたけど、面白そうだったから、つい」

「見るだけなら後からでもできるだろ? ほら、行くぞ」

「せっかくだし、見てみようぜ」

「なんであんたと」


 川瀬は目をそらした。


「どうしてもってんなら付き合ってやらないこともないけど……先に自転車を選んでからのほうがゆっくり見て回れるし」

「それもそうだな」

「わかったんならさっさと行くぞ」



 なにをそんなにせかせかしてるのかは知らんが、さっさと進む川瀬を追いかけて、路地を挟んだ向こうの店に入った。


 うん。絶対にこっちだ。ママチャリの間を縫って、子供用の自転車の置かれてあるコーナーに向かった。


 子供用といっても、大きさも形も色だっていろいろある。ひとつ確かなことは、お値段がお高いということだ。俺の乗ってる自転車とほとんど変わらない値段だ。まあそれはいいんだけど、ひとりで来ていたら間違いなく死んでいた。川瀬を拾った幸運をひとり噛みしめたときに川瀬が唐突に質問してきた。



「そういえば、あんたのところの妹って小学二年っていってたね」

「まあな。それがどうかしたのか」

「それって遅くないか」



 ふむ。いつかは聞かれるであろうことは覚悟していた。とはいえ、そんな大層な理由はない。



「まあ遅いよな。ただ、俺の時もそうだったんだが、妹の通っている小学校では自転車に乗っていいのは小学二年からという謎の決まりがあるんだよ」

「なに、それ?」

「あるんだよ、そういう決まりが。まあ親と一緒なら乗っていいんだが、友達だけで出かけるのは違反だ。子供ってのはすぐにチクるからな。子供だけで自転車に乗っているところは見たことないな」

「あんたもそうだったの?」

「いや。そもそも自転車を持ってなかったからな」



 というよりも、家に自転車がなかった。父親とか俺を産んだあの人が自転車に乗っているところを見た記憶もない。ただ、祖母が死んで聖和の家と自分の家を往復しているときに、歩くのが面倒で自分で自転車を買ったことは覚えている。


 たぶん俺が最初に自転車に乗ったのはそのときだと思うが、それも定かではない。紅葉おばさんなら何か知っているかもしれないが、そんなことを知っても意味はないし、わざわざ確認するほどのことでもないから放置している。



「川瀬は何歳から乗ってたんだ?」


 反対に質問した。


「さあ? 覚えてないな。ただ、兄貴のおさがりの自転車に乗ってたことは覚えてるけど」


 難しい顔で川瀬はそう答えた。


「川瀬って、たしか5人兄弟の末っ子だったよな? 上4人が兄だったか」

「だからいつもおさがりだった。服もそうだ。それがいやでいやで……本当はこういう自転車が欲しかったんだけどさあ」



 川瀬がほっそりとした指先で、愛おしそうに自転車のサドルを撫でた。ピンク色のかわいらしい感じの自転車だ。


 川瀬らしくない色だと思ったが、同時に、こいつらしいとも思った。



「川瀬っていいお母さんになりそうだよな」



 うっかりだったのだ。そんな気がして、言葉が口を衝いただけなのに、見よ、この川瀬の慌てふためきようを。



「なっ、何いってんだよ、てめえは」



 これが、正真正銘の“あたふた”だ。手を上下させて、視線を小刻みにあちこちに投げている。ただし、お顔の色はニホンザルのお尻だ。



「まあ落ち着け」

「うるさい。何なんだよてめえは、さっきから」

「まあまあ」肩を叩いて落ち着かせた。「よし。じゃあ、これにするか」



 ピンク色の自転車のハンドルを掴んだ。川瀬が荒ぶる息をそのままに、睨んできた。



「そんな簡単に決めていいのかよ」

「川瀬はこういう自転車がよかったんだろ?」

「そうだけど、それはあたしの話だから」

「川瀬が欲しかったのなら間違いないさ」



 なんたって、心に乙女を飼っている少女だもの。間違いないと俺の勘がいっている。プレゼント選びのセンスは皆無だと自負しているが、こういった勘には多少自信がある。



「俺は川瀬の美的センスを信じる。というか、川瀬なら信頼できる」

「おまえは……」


 川瀬がふいっと横を向いた。


「後から文句いうなよ」

「いわねえよ。その代わりといっちゃなんなんだけど、俺が選んだということにしてもいいか。この礼はちゃんとするからさ」

「好きにしろ。だいたいあたしは、あんたとここにいなかったことになってんだからさ」

「そうだったな。すまん」

「あんたが覚えていてくれたら、あたしはそれで……」


 川瀬はごにょごにょと言葉尻を濁らせた。


「ん?」

「なんでもねえよ」



 絶対に何でもないことはないだろうと思うような強い口調で川瀬はいった。相手が佐藤や霞ヶ丘ならある程度予測も立てられるが、川瀬は何を考えているのかわからないところがあるから、どうにも何をいいたいのか読めない。


 となれば、考えるだけ無駄だな。


 しかし、いつ見ても綺麗な髪だ。艶やかな流れは店内の明かりを反射しており、一本たりとも絡まることなく真っ直ぐに垂れているように見える。もしかしたら伸縮性もあるのではなかろうかと疑ったほどだ。


 やっぱり俺は髪フェチかもしれない。そんな気がした。触りたい衝動を、ぐっとこらえて、ピンク色の自転車の横にしゃがみこんだ。



「24インチか。22インチのほうがいいんだけど、あるかな」


 辺りを見回した。


「聞いてきてやるよ」

「いや……」



 止める前に、川瀬は歩き去った。一直線に店員のところに向かっている。度胸がいいというかなんというか。


 もしかしたら俺と一緒にいたくないのだろうか。だとしたら、申し訳ないというしかない。


 ただ、そうなると、次にどう動くのがベストとなるのかが疑問だ。川瀬が俺と一緒にいるのが嫌だとすれば、無理に買い物に付き合うのは気を使わせるだけだ。かといって、ここで別れるのでは俺の気が済まない。だいたいそれでは礼儀に欠けるだろう。


 だが、俺といたくないのだとしたら、ここで別れるのが礼儀となるのかもしれないとも思う。


 佐藤とか霞ヶ丘とかみたいに意思を言葉にしてくれると助かるんだが、川瀬はよくわからん。


 ようするに、川瀬のことを理解しきれていない証拠だな。せっかくだし、嫌かもしれないが付き合ってもらうとするか。


 川瀬がいくらか年を重ねた店員を連れて戻ってきた。いかにも自転車歴の長そうな顔をしている。無論、俺の偏見だ。

 店員さんは訳知り顔で頷いた。



「娘さんへのプレゼントですか。あいにくと、こちらの自転車は22インチと24インチのサイズしか製造していないんです」

「ちょっと待ってください」



 手を突き出して、店員さんの暴走を制した。欲しい情報は得たが、前提を正さないことにはどうにも気持ち悪い。



「娘ではなく、妹のプレゼントです」


 店員さんがちらりと川瀬の表情を伺った。


「彼女はアドバイザー兼同級生で、奥さんではありません。というか、結婚してません。というか、俺も彼女も高校生です。ご理解いただけましたでしょうか」

「高校生?」



 目を剥いて驚かれてしまった。まあ、川瀬に関しては驚くのも無理はないと思うが、俺は違うだろう。



「そんなにおかしいですか?」


 いやあ、といいながら店員さんは頭をかいた。


「お二人から家庭的な雰囲気を感じたからてっきりそうだとばかり。申し訳ありません」

「いえ、まあいいんですけど」



 それはありえないだろうと思ったが、店員さんがそう感じたのならそういうことなのだろう。他人の感覚を否定しても意味はないと俺なんかは思うのだが、川瀬は横を向き、照れているような拗ねたような、そんな気配を振りまいている。高校一年で子持ちと思われたら、誰でもこういう反応をするだろう。


 ただ、意外だったのは、川瀬が怒っていないことだ。そういった雰囲気はまとっていない。



「夫婦に見えますか?」



 物は試しで尋ねてみた。店員さんは我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。



「しっかりものの若奥様と、奥様に任せきりの旦那様といった感じですよね。あ、いえ、決してお兄さんが頼りないという意味ではありませんよ」

「……俺ってば、どこでも誰にでもそう見えるんですね。意外だなあ」

「いえいえ。たいていの家庭はそうなんです。お兄さんが特別というわけではないんです」



 店員さんが早口で答えた。焦りが表情に見えている。完璧に取り繕っていやがる。


 なぜに初対面の人に、そんなことをいわれなければならないのだろうか。反抗して、じーっと店員さんの目を見つめってやったら、店員さんはお口にチャックをして、店内を見回すように首を回した。それでもなお店員さんを見ていると、ふと、誰かに見られている気がして横を見た。


 川瀬が包むような笑みを向けてきていた。俺でさえも、本当に子供を産んでいるのではないかと疑ってしまうような母性的な笑みだった。


 やはり、川瀬はいいお母さんになるだろうと確信した。心配なのは、川瀬が徹底的に誉められ慣れしていないことだ。


 俺の父親みたいなどうしようもない口だけ男に褒められたらどうなるかと想像したら、ぞっとした。


 まあ、俺の父親は典型的な遊び人ではあったが、川瀬や佐藤のようなタイプの女性をうちに連れてきたことはない。唯一の例外は静音さんだ。


 もっとも、静音さんと父親は偽装結婚というか、実態の伴わない書類上の結婚だった。父親がその気になればたいていの女性は落ちただろうが、金で付き合い、金で別れる。そういう関係が気楽でよかったのだろう。


 ただ、父親がもし川瀬のような女性にちょっかいを出していたとしたら、俺の人生も変わっていただろうと思う。そして、その女性の人生は悲惨なものになったはずだ。


 そう考えると、川瀬のことがとてつもなく心配になった。優しい言葉にほろりとほだされて、不幸の縁に自ら飛び込んでいきそうな、そんな危うさを感じる。


 川瀬の未来を見た思いがして、いたたまれずに彼女の名前を呼ぼうとしたときだった。



「夫婦ということにしてもらえたら2割引きにさせてもらいますよ」

「なんですと?」



 いやはや、現金なやつだと我ながら思う。だが、主婦は割引という言葉に弱いのだ。そういう生き物なのだ。


 店員さんを見た。頷き、店員さんはピースサインを送ってきた。



「2割引きです」

「2割ですか」


 ピースを返していうと、再び店員さんは頷いた。


「そうです。夫婦で子供のプレゼントを買いに来られたお客様には、全員2割引きでご提供させていただいております」



 じゃあシングルマザーとかシングルファーザーはどうすんだよと反感を持ったが、店員さんとて心得ていたらしい。



「もちろん夫婦でなくとも結構です。友達や弟さんとご一緒に買いに来られる方もいらっしゃれば、明らかに夜のお客様といった品のいいおじさまを連れてこられる方いらっしゃいました」



 夜のお客様ね。ようするに同伴出勤前に立ち寄ったというわけか。ありそうな話ではあるが、理解してしまった自分がなんか嫌だった。


 はあ、と曖昧に答えたが、店員は気にすることなく続けた。



「ですが一番多いのは、身内の誰かを連れて来られる方ですね」

「もはや夫婦は関係ないんじゃ……」

「いえいえ、以前は違ったんですよ。これも時代でしょうね。今では男女ペアで子供のプレゼントを買いに来られたお客様には、2割引きでご提供させていただいております」

「つまり、体裁さえ整えればいいと?」

「大きな声ではいえませんが、そういうことです」



 店員さんは比較的大きな声でそういった。知らなかった人がちらほらといるようで、その人たちは一様にスマートフォンを取り出している。きっと奥様や旦那や、あるいは愛人なんかに連絡を取っているのかもしれない。


 そういうことであればこちらに否やはない。さっと川瀬に近づいて、その腕をがっちりと脇にホールドした。



「店員さんのご慧眼に感服しました。まさしく、俺たちは夫婦です」

「ちょ、ちょっと。何を勝手に」



 川瀬が異様なほど驚いているが、後から煮るなり焼くなり好きにしてくれとささやき、夫婦のふりをしてもらった。



「というわけで、22インチの自転車をください」

「お買い上げ、ありがとうございます。では夫婦である誓いをお願いします」

「……はい?」

「ええ、ですから、ほら、ね。お兄さんもわかるでしょう?」



 わかってたまるか。そんな話、聞いてねえぞ。っていうか、絶対嘘だろ。どう見てもこの人笑ってるし、ほかの店員さんもおかしそうに笑っている。


 められた感がすごい。



「あのですね、わかるでしょうといわれましても、先ほど話した通り、彼女と俺はただの同級生で、決してそういう関係ではないんですけど」

「ではこの場でそういう関係になってみてはいかがでしょう」



 なぜ、突然そんな爆弾を放り込んできやがったんだ。いったい何がしたいんだよ、この人は。川瀬が暴れても俺は責任取らねえからな。


 とか心配していたのに、ことのほか川瀬はおとなしかった。というよりも、こういった話に対する免疫がないらしい。長い髪を前に落として赤い顔を伏せている。


 もはや、考えるまでもないな。繁華街で出会ったのが尾堂先生だったらこの話に乗ったかもしれないが、川瀬だし仕方があるまい。


 だが、2割引きは魅力的だ。



「ちなみに、どこまでやれば認めてもらえるんですか」

「さすがにここで最後までというのは勘弁してもらいたいところなのですが」

「あたりまえでしょうが」



 尾堂先生ならいわれる前にやりかねないが、俺にはちゃんと羞恥心というものを持っている。最後までできるかってんだ。



「そうですねえ」


 店員さんが悪い顔をした。


「キスでいかがでしょうか」

「腕組みではどうでしょうか」



 速攻で店員さんの提案を潰した。腕組みなら今やっている。これで勘弁してくれと目で訴えかけたが、どうやら通じなかったらしい。店員さんはやたらと真面目な顔を横に振った。



「じゃあ、手をつなぐ」



 腕組を解除して、川瀬の指の間に自分の指を入れて握った。しかし、店員さんはこれにも首を振った。



「手の甲に口づけ。これで手を打ちませんか」

「足りません」



 何がだよ。


 間違いない。この人はドSだ。俺と川瀬の反応を見て楽しんでいるとしか思えない。割引なんざどうでもいい。そう思うのだが、しかし、こういった手合いを前にすると、どうしてもだめだ。むくむくと反抗心が湧いてきた。


 今は、ただただ店員さんをぎゃふんといわせたいと、その一念しかない。



「相談してきますので少々お待ちを」


 店員さんに断り、川瀬とつないだ手を引いて、壁側に向かった。


「川瀬、俺を見ろ」



 前に立ち、その顎をあげさせるつもりで、そっと両頬に指を添えた。川瀬の瞳が動いた。


 そこにいたのは、勝気な川瀬ではなく、乙女の川瀬だった。純情さを穢したような背徳的な罪悪感が芽生えてきた。


 しかし、ここで引くわけにはいかないのだ。それだけは断じて許されないのだ。



「川瀬はここには存在していない。そういったな?」

「う、うん。いったけど」

「つまり存在していない川瀬とキスをしても、幻覚に過ぎないということになるよな」

「なるわけないだろっ」

「いいや、そういうことになる。川瀬はここには存在していないんだ。俺と何をしたとしても、何らの影響もないということだ。そういうことになる」

「あれは、つゆみに対するポーズで、あたしはここにいるんだ。キスなんて……できるわけないじゃない」

「キスではなく、ちゅーだ」

「一緒だろうが」

「全然違う。俺なんて妹たちと毎日のようにちゅっちゅしてるぞ」

「……子供と一緒にされても困るんだけど」

「まあ、聞け。俺は別に2割引きが惜しくてこんなことをいってるわけじゃないんだ。ただ、あの店員が気に入らないだけだ。あそこまでいわれて川瀬は引けるのか? 俺は無理だ。あいつをぎゃふんといわせるまでここを出るわけにはいかない」

「気持ちはわかるけどさ……だったら、つゆみが来るまで待てば?」



 そういって、川瀬は視線を俺からそらした。照れか、怒りかはさておき、店内のライトに照らされた黒髪が目の前にある。何とはなしにサラサラヘアーを手櫛で梳(す)いた。やっぱり、サラサラだった。


 川瀬が驚いたように身体を引いた。



「あんた、どさくさでなにやってんのよ」

「あっ。すまん、つい」

「ついって……」


 川瀬がきつかった目元を、呆れに変えた。


「あんた、前にあたしの髪を褒めてくれたでしょ?」

「ああ。いつ見ても綺麗な髪だよな」



 もう一度、今度はしっかりと堪能させてもらいたいのだが、いえる雰囲気ではなさそうだ。


 空気の読める男、それが俺だ。どうにか衝動を堪えた。

 川瀬は自分の髪先を手に乗せて、上目で俺を見ると、すぐに視線を外した。



「だからさ、その……知りたがってたでしょ。それを教えようと思ってさ」

「マジか。いいのか」

「あんたが教えてくれっていったんでしょ。あたしは別にどっちでもいいんだよ。必要ないなら帰るから」

「いやいや。待ってくれ」


 帰ろうとした川瀬の肩を掴んで前に回った。


「教えてくれ」

「わかったから、離れろよ」

「あ、すまん」



 そもそもは話も聞かずに帰ろうとした川瀬が悪いのだ。が、それをいったらヘソを曲げそうだから言葉を呑み込んだ。


 店員さんと髪のお手入れ。どちらを取るかなんて決まっている。



「そういうことなら是非もない。店員にぎゃふんといわせるのはまた今度だ。さっさと注文して行こうぜ」

「それは無理だ」


 店員さんの元に戻ろうとしたときに、川瀬がいった。


「いわれっ放しはあたしも嫌なんだよ」



 川瀬が俺好みの意地悪な笑みを浮かべた。たぶん、俺も同じ顔をしていると思う。



「やるか?」


 確認を取ると、川瀬は頷いた。


「もちろんさ」



 そうと決まれば実行あるのみだ。ただし、このまま戻ってチューをしたところで、さして驚きはないだろう。そこで一芝居打つことにした。


 あくまでも川瀬には恥じらいを持ちつつ、頬にチューをしてもらう。そうしたら店員さんはしてやったりとばかりにほくそ笑むだろう。


 だが、次は俺が川瀬にチューをする。そして、そのままイチャつく。焚きつけたことを店員さんが後悔するほどに寄り添ってイチャイチャするのだ。


 ただし、当たり前だが一線は引く。口と口でのキッスはナシの方向で行く。あくまでもフリだ。


 時間があれば入念に仕込むところだが、今回は即興で演じるしかない。

 あくまでも演技だと川瀬に念を押して、軽く段取りを話し合った。


 基本は俺がリードする。川瀬には合わせてくれとだけ伝えて、彼女の腰に手を回し、寄り添い歩いて店員の元に戻った。


 川瀬は恥ずかしそうに俯く演技をしている。



「店員さんのおかげでこういうことになりました。ありがとうございます」



 爽やかにお礼をいった。軽いジャブだ。


 どうやら効いているらしい。店員さんの眉がピクリと跳ねた。が、それでも強気で返してきた。



「では、見せてもらいましょうか」

「えっと、それは……」



 遠慮がちに川瀬を見た。


 これは既定路線であり、打ち合わせ通りだ。ここで堂々とチューをしてもつまらないから、あえて焦らす。


 川瀬も上目使いで俺を見て、本当に付き合い始めのカップルのように、恥じらいつつ自然に視線を逸らした。知らなければ、俺でさえも騙されそうになるぐらいに巧みな演技だった。


 俺をキュンキュンさせてどうすんだって話なんだが、俺が勝手にキュンキュンしただけだなのだからどうしようもない。



「やっぱり、こういうところでそういうことはちょっと……」



 店員さんにそれとなく事情を察しろとアピールする。ここから店員さんの反応によって、俺と川瀬のどちらからチューをするかが変わる。


 もしも、なおもチューを要望するのであれば、俺が先に川瀬の頬にチューをして許しを請う。そして、店員さんが何かをいう前に川瀬がチューを返してきて、俺もチューで返す。後はイチャイチャのお時間だ。


 で、店員さんが俺と川瀬の関係を認めた場合は……。



「しょうがないなあ。特別に認めてあげるよ」



 よしきた。


 この後のシナリオはこうだ。

 店員さんに笑みを向けて、お礼をいう。そして川瀬に「よかったな」という。すると、川瀬が恥じらいつつチューをしてくる。後は同様の流れで、店員さんが止めるまでイチャイチャラブラブの芝居を続けることになっている。



「ありがとうございます」



 シナリオどおりに頭を下げた。にやにやが止まらない。いたずら心に刺激された気持ちをそのままに顔に乗せて、しっかりと店員さんを見た後で、川瀬のほうに顔を動かした。


 しまった、と思ったときには遅かった。川瀬弘美の顔が眼前にあった。


 俺が振り向くタイミングが早かったのか、川瀬のチューをするタイミングが早かったのか、どちらかはわからないが、そんなことはどうでもいい。


 大事なことは、チューではなく、キスになってしまったということだ。

 川瀬が驚いたように目を開けた。超至近距離から見つめ合った。


 瞬間、殴られることを覚悟した。

 で、殴られた。


 お約束いえばお約束だが、なぜにグーで殴る。そこは平手だろうが。納得がいかない。

 数歩よろけたがまだ大丈夫。



「いいもんもってるじゃねえか」



 ジンジンと痛む頬を押さえながら真っ赤なご尊顔を見つめた。川瀬が、あっ、という顔をして近づいてきた。



「ごめん。大丈夫?」

「おまえの拳なら世界を取れるぞ」

「……大丈夫みたいだね」



 結構本気でいったのに、川瀬は冗談と捉えたらしい。一人で勝手に胸をなでおろしているらしい。


 許すまじ。と思っているときに、店員さんが笑いながら割って入ってきた。



「盛り上がっているところを恐れ入ります」



 空気読めや、と、今の気持ちを余すことなく瞳に注ぎ込み、店員さんを睨みつけた。

 店員さんは愛想笑いを顔に張り付けてわざとらしい咳をした。



「申し訳ございません、お客様。店内でそういったプレイはちょっと……ご遠慮いただきたいのですが」

「どんなプレイだよ」



 猛抗議した。俺はちっとも悪くない。事故でキスをして、殴られただけだ。甚(はなは)だ納得がいかない。



「ま、まあ、とにかくお二人の関係は理解しました。これで終わりということで、はい」



 客の目があるせいか、自分は関係ないとばかりに他人行儀な接客をする心優しい店員さんが伸ばしてくれたその手を、力いっぱい握り返してやった。店員さんの手の平にはタコがあった。


 だが、さすがは自転車乗りだった。握力の違いは歴然で、力いっぱい握り返されて、片膝をつき敗北を喫した。


 俺は、いつかこの店員さんに復讐する。そう心に誓った。


 すったもんだの末に、雫のプレゼントの発送手続きを行った。届け先は聖和の自宅にしている。聖和一家の了承はもらっているから恐れることはない。百合が口を滑らさないかだけが心配だが、雫に会わせさえしなければ問題はないだろう。




 川瀬を誘って大人な雰囲気のあるイタリアンレストランに入り、少しお高めのランチを食べてから、川瀬の行きつけというオーガニック素材を扱った化粧品売り場に行った。美容に関する話を聞きながら川瀬が使っているというものを購入してルンルン気分で帰宅すると、リビングのソファーにお父さん化した聖和が居座っていた。


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