第49話 俺と事件
節子さんに住み込み家政婦のリョウさんを紹介された。つまり、節子さんの用はそれだけだったのだ。んなもん、後からでいいじゃねえかと思ったのは、ただの八つ当たりだ。
海だというのに、節子さんは和装で日傘をさしている。らしいといえばらしいのだろうが、浜辺では完全に浮いている。
『浅野井』から借りてきたシートを敷き、ビーチパラソルを立て、2人を連れて海に入った。節子さんは荷物番だ。
快晴ということもあり、家族連れが多い。雫と邦志を浮輪に乗せて押す。
邦志は初めての海だ。怖がるかと思ったがちっともそんな素振りは見せず、波が来るたびにきゃっきゃと騒ぎ、楽しんでいた。雫にしても、今日ばかりは子供に戻っていた。
しばらく遊び、浜辺に戻って、今度は砂遊びだ。そのへんにいた子供も誘い、しばらく様子を見たが問題なさそうだから、途中から子供だけに任せて、少し離れたところで座り見守った。
「楽しまれているようですね」
節子さんが日傘片手にやってきた。海水浴客が変な人を見る目で節子さんを見ているが、本人はまったく気にした様子はない。
「久しぶりの海ですからね。でも、いつもこんなに人が多いんですか?」
節子さんを見上げながら訊いた。
「どうなのでしょうか。ここに来るのはずいぶんと久しぶりですから」
「そうですか」
そりゃそうだって感じだ。雫たちに目を戻した。
邦志くらいの子たちも加わり、みんなでせっせと山を作っている。山の次はトンネルを作るのだろう。俺も聖和と作ったことがある。遠い昔のことだ。
「いつの時代でも、子供だけは変わりませんね。すぐに仲良くなれるのですから」
節子さんが何を想っているのかはわからない。ただ、その声は少し寂しそうだった。どんな表情をしているのか見てみたい気もしたがやめておいた。
その代わりといったらあれだが、訊きたかったことを尋ねた。
「あの人もそうだったんですか」
「アレはいつも中心にいました」
その口調は冷めていた。
「思い返してみますと思いあたることはあるのです。他人の意見を聞きながら、最後には自分の意見を通す。そういうしたたかさを持った子だったのです。もっと早くに気づくべきだったのかもしれません。仁さんには本当に申し訳なく思っております」
「別に誰のせいでもないでしょう。あの人はそういう人だったというだけのことです。もし親の育て方が悪かったというのなら、俺はどうなるんですか。自分でいうのもなんですけど、しっかりしているほうだと思いますよ」
「そうですね。そうかもしれません」
「いや、そう素直に肯定されても困るんですけど……。いえ、いいんですけどね。ただ、親は親、子供は子供ってことがいいたかっただけです。どんなに大事に育てても子供が思い通りに育つわけでなし、あの人はそうなるべくしてなったということじゃないですか」
節子さんは何も答えなかった。ただ、横にたたずんでいた。
浜辺はこんなにも暑いのに、しんみりとした空気になった。よしと気合を入れて立ち上がった。
「屋台に行ってみませんか?」
節子さんが何を考えているのかわからない顔を向けてきた。
「もしかしたら、食べたことないんじゃないかなと思って」
「ずいぶん昔にお祭りで食べたことはありますが……」
「だったら行きましょうよ。━━雫、邦志、屋台に行くぞ」
二人とも砂まみれだ。
雫が振り返り、大きく頷いた。邦志の手を引きかけてくる。その前に海に連れていき砂を落とさせた。
「さあ、行きましょうか」
節子さんを誘い、歩いた。さすがに
「雫、邦志を連れて先に行ってろ。好きなのを頼んでいいぞ」
「うん」
目をらんらんと輝かせて、邦志の手を取り駆け出していった。邦志が引き連られるようにして走っているが、食い気が先に立っているようでさして気にした様子はない。
雫にしてもそうだ。色気より食い気らしい。なんだか安心した。
周りの視線もなんのその。しずしずと歩く節子さんの歩速に合わせて横を歩いた。昼を大きく回っているためか、比較的屋台は空いていた。
雫と邦志はかき氷を頼んでいたらしい。今は出来るのを待っているところのようだ。先にかき氷の代金を支払い、店内に入り、テーブルについてから改めて屋台のメニューに目をやった。
手書きのようだが、汚れ方に年季が入っている。
「何にしますか」
節子さんに尋ねた。節子さんは店内を見回し、小さく首を横に振った。
「仁さんにお任せします」
「任せられました。やっぱりまずは焼きそばと焼きイカでしょう」
ということで、かき氷を美味しそうに食べている雫と邦志の世話をしつつ、タレたっぷりのえきイカを2つと、焼きそばを3人前頼んだ。
テントの席は比較的空いているが、俺たちの後からも結構な人が注文している。
「節子さん、すみませんけど、二人を連れて先に座っててくれませんか」
節子さんはテントの中を見回して、目を戻してきた。
「こちらでいただくのですか」
「ですね。荷物を置いている場所に戻ってもいいんですけど、ゴミを捨てにまた来ないといけませんし、それに……暑いですよね」
節子さんにとっては着物が私服なのだろうが、見慣れない者から見ると、見ているだけで汗が出てくる。というわけで、節子さんに席取りを任せて、一人残り、まず先にできた焼きイカを持って席に向かい、続けて焼きそばを取りに行って、また席に向かった。
雫と邦志は節子さんの向かいでカキ氷をおいしそうに食べている。気になるのは、邦志がシロップのかかったところを重点的に食べていることだ。このまま行くと、シロップのなくなった、ただの氷を食べることになりそうだが、なんでも経験ということで、あえて声はかけずに置いた。
「お待たせしました」
祭りの屋台でも使われる透明の容器にこれでもかとばかりに入れられた焼きそばをテーブルに置き、雫と邦志の間に座った。そうして、店の人にもらった紙皿に雫と邦志の分として分けた。
「では」
軽く手を打ち、合唱した。雫と邦志はすでにカキ氷を食べているが、俺を見て手を止め、合唱した。
「いただきます」
二人も続いていただきますをして、再びカキ氷に手を伸ばした。焼きそばよりカキ氷のほうがいいらしい。いや、カキ氷というかシロップがおいしいのだろう。俺には甘いだけの砂糖水という感じしかないのだが……。左右を見て、こっそりと肩を落とした。
ふと、節子さんと目が合った。
もしかして、微笑んでいなかったか……。そんな気がしたのだが、今は愛想のない顔を向けてきている。
「あの、なにか?」
「いえ」
節子さんはそっと視線を外すと、紙皿に乗っていた焼きイカに手を伸ばした。
「懐かしいですね。イカ焼きを食べるのは本当に久しぶりです」
「いつ以来なんですか?」
尋ねながら焼きイカに手を伸ばした。串がまだ熱い。持ち上げると液状に近い黒い宝石のような照りのある濃厚なタレが滴った。節子さんはタレ受けで紙皿をも持ち、しばらく黙った後でいった。
「アレが小学校4年生のときが最後でしたか」
「じゃあ30年くらい前ですね。ってことは、節子さんが、今のあの人と同じくらいの年齢のときじゃないですか?」
「そうですね」
節子さんはあまり感慨なさそうに答えて、イカの足の一本を上品に噛んだ。着物を汚さないように、ちゃんと紙皿で滴っているタレを受けている。それを見ながら俺もイカの足を嚙みちぎった。
じゅわりとタレの甘辛さが鼻腔に入り込んできた。そして次に、ん、と感じた。
なんだろう。タレの甘辛さはいいとして、なんか生臭い。節子さんも記憶と比較して違和感があったのだろう。首をかしげている。
どうやら、ここの焼きイカは外れだったようだ。
「ちょっとあれですけど、これも屋台の醍醐味ですよ」
多少の生臭さは無視して、さらにもう一本かじった。
そうかもしれませんね、なんてことをいいながら節子さんも海辺に似合わぬ上品さで食べている。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
雫を見たら、雫はあれを見ろといわんばかりに邦志を見た。
器用に焼きそばに紛れ込んでいたニンジンを避けて食べている。ある意味、すごい執念だ。ちょっと感心してしまったが、この忍耐と器用さをほめるわけにはいかない。
「邦志。めっ」
「んー……お姉ちゃんのばかあ」
「ちゃんと食べない邦志が悪いの」
「ばかあ」
「邦志なんて知らない」
雫はぷいっと反対側を向き、頬を膨らませて怒っている。邦志が焼きそばを睨んだまま、またもや、うーと唸った。
ほんとに、仲が良いのやら悪いのやら……。最近思うのだが、雫もストレスが溜まっているのだろうか。その反動で邦志の至らないところが気になる、なんてことはないと思いたい。
「もういいから、邦志は好きに食べろ。でも今回だけだぞ。雫も機嫌を直せって」
雫の頭を撫でて、どうにか食事を再開させた。
食事中にガミガミいわれて食べておいしくない。あの人がいるときの俺がそうだった。たいていはコンビニの弁当だったが、あの人の機嫌が悪い時はよくぶたれていたから、邦志の気持ちは少しだけわかる。それに俺自身、そういうことはあまりしたくないと思っている。
こういうことは一度いってできることではないし、邦志が大人になって、自立するまでにできるようになっていればいいと思っている。
とはいっても、もちろん、限度はある。不注意でこぼしたり、注意を引くためにわざとこぼしたときはちゃんと叱るようにしている。それ以外でも注意はするが、基本的に後は好きに食べさせる。それが静音さん直伝の、そして今では俺の教育方針となっている。
「仁さんは、いつもそのようにお二人と接しておられるのですか」
節子さんが尋ねてきた。声と表情から感情は読めない。何を考えているのやら相変わらずさっぱりわからないが、裏は感じない。純粋な興味だろうと思うのだが、はてさてどうだろうか。ええまあと答えて、生臭さのあるイカ焼きにかじりついた。節子さんの目元を一瞬切なげな色が抜けていった。そのときに、不思議とこの人は俺の肉親なのだと再認識させられた。
節子さんと向かい合っていることが恥ずかしくなり、目を逸らした。どうしてなのかは考えたくない。ただ、腹の奥から全身に広がっていくぬくもりを感じている。それが憎くもあり嬉しくもある。変な感じをかみしめながら、おいしくないイカ焼きを咀嚼した。
俺がそんな調子だったからだろう。節子さんもそれ以上のことはいわず、黙ってイカ焼きを上品に食べている。
そうしてまた海辺に戻った。
雫と邦志は、先ほどまでやっていた砂遊びに戻り、節子さんは荷物番に戻った。俺はもちろん、雫と邦志についている。
しっかりと夕方まで遊ばせた。芋洗いの海水浴客たちも引き上げつつあり、道路のほうは大渋滞だ。しかも、そこに救急車が割り込んできている。大渋滞は混乱に陥りつつある。血気盛んな若者が喧嘩でもしたのだろう。そのうちパトカーも来るのではなかろうか。まあ、こっちは徒歩だからどれだけ混乱しようと関係はない。
大事なことは、これで雫と邦志は朝までぐっすり寝るだろうということだ。警戒すべきは邦志のおねしょだな。
「おーい、そろそろ……」
二人に声をかけたながら立ち上がったときだった。体内の血が失せたような気がした。
立ち眩みのような感覚だが、大きく違うのは、大いなる吐き気に襲われたことだ。どうにも
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
この感覚はなんだろう。臓腑が燃えるように熱い。吐き気が止まらない。
怖い。今まで感じたことがない怖さだ。寒気がする。
死ぬかもしれない……。本能に訴えかけるような恐怖に襲われた。
「お兄ちゃん!」
雫の声がした。砂を蹴る音が近づいてくる。にじむ視界に駆け寄ってくる雫の姿が映った。
二人を残して死ねるかっ━━。生まれたてのラクダのごとく、立ち上がった。砂浜だけに……。言ってる場合か。
んがーっと気力一発、背筋を伸ばした。
胃が裏返ったような気がした。四つん這いになり、こみ上げてくるものを吐き出した。
雫が立ち止まった。
「お、にいちゃん」
涙声だ。どうしていいのかわからず、立ちすくんでいる。雫も怖いのだろう。
邦志の泣き声も近づいてきている。それに、サイレンもいくつも聞こえる。
いったい、なんだ。俺の躰はどうなっている。何が起こっているんだ。わけがわからない。
「大丈夫だ」
やっとの思いでそういった。だが雫と邦志は恐怖に引きつった顔で泣きながら心配そうに俺を見ている。
節子さんは……?
口をぬぐい、顔を後ろに向けた。
人気の薄れた砂浜に着物を着た人が倒れていた。近くにいた人が携帯片手に介抱してくれている。
これは、まさか……。
マズイ。
「大丈夫かい」
子連れのお父さんが声をかけて来た。子供のほうに見覚えがある。雫たちと一緒に砂遊びをしていた子供だ。
「携帯を」
頭はそれでいっぱいだった。砂浜を這い進んだ。
「じっとしてなさい」
「携帯……連絡しないと……」
「わかった。わかったからじっとしてなさい。━━いったい、何が起こってるんだ」
お父さんも異常事態に気づいたようだ。
「俺の携帯を」
「どこだ。持ってきてあげるから待っていなさい」
「あそこに」
節子さんを指さした。
わかった、といってお父さんが駆けていった。雫と邦志はワンワン泣いて、お父さんが連れていた子供もワンワン泣いて、異常を察した人々が水着姿で集まってくる。その中を懸命に這い進んだ。
俺が進むたびに野次馬も進んでいるような気もするが、そんなことに構っている暇はない。まずは節子さんだ。節子さんを助けないと。それから聖和に連絡して……あいつなら全部やってくれる。
後のことは、覚えてはいない。気づいたら病室で寝ていた。
ふと横を見ると、ベッド脇に新聞が置いてあった。
『海水浴場の悲劇! 集団食中毒発生! 原因はイカかっ!?』
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