第6話 俺と大人の時間

 

 リビングで適当にチャンネルを回したが見たいものはなかった。テレビを消して、CDラックを覘いた。俺には音楽を聴く趣味はないが、聖和が妹たちのために置いて行ったものだ。正確には聖和の母親の紅葉おばさんが持たせたものだ。とはいっても、誰も聞かないからリビングの飾りに成り果てている。


 CDはクラシックがメインとなっている。ピアノだけで構成されたCDを選び、ステレオシステムに挿入した。リストとかいう作曲家の曲を収納したものだ。


 ピアノの音色を聞きながら台所で作業にかかった。まず明日の朝食の準備だ。それから動物園で食べる弁当の準備もしなければならない。主夫というより主婦と自負している。


 下ごしらえだけをして、冷蔵庫に突っ込んでからコーヒーを持ちリビングに出た。佐藤が現れた。目をシパシパさせている。



「ごめんなさい。寝ちゃってたみたい」

「別にいいって。こっちこそごめんな」


 いったんソファーに向かいコーヒーをソファーの前のテーブルに置いた。


「何か飲むか」

「自分でやるからいいよお」

「いいからいいから。これくらいのことはさせてくれ」


 強引にソファーに座らせた。


「紅茶もあるけど、何がいい?」

「じゃあ、わたしもコーヒーをお願いしてもいいかな」

「了解。ちょっと待ってろよ」



 コーヒーメーカーにはまだ二杯分のコーヒーが残っている。コーヒーと来客用に用意していたスティック砂糖とミルクを持って戻った。


 佐藤は礼をいって受け取り、スティック砂糖を一つ入れて、ミルクを入れた。どうやらそこまでの甘党ではないらしい。その様子を眺めながらブラックのままコーヒーを飲んだ。時刻は0時を回ろうとしている。



「今日は本当にごめんな。助かったよ。ありがとう。お礼にマッサージをさせてもらうからさ」

「それは……ちょっと。でもわたしも楽しかったから、全然気にしなくていいよ」



 そういっておいしそうにコーヒーに口をつけた。ほうっと息をついた。



「なんだか、落ち着くね」

「そうか? ああ、音楽のせいかもな」

「うーん、そういうことじゃないと思うんだけど、いつも聴いてるわけじゃないの?」

「普段は無音だな」

「無音かあ」


 佐藤が俺を見ておかしそうに相好を崩した。


「何かおかしなこといったか」

「無音なんて日常会話で聞いたことがないから、ちょっとおかしな感じだなあって」

「……いわれてみれば聞かないな」

「でしょう?」

「まあいいじゃねえか。それよりどうする? 泊ってくか」

「えっとね、誘い方はともかくとしても、泊まるというのはちょっとどうかなあって思うんだけど。でももう泊ってるようなものなのかな」



 佐藤は壁にかかっている時計を見て、首を傾げた。釣られて時計を見た。わずかではあるがすでに昨日から今日になっていた。時間だけでいえば日をまたいでいるから泊ったといえなくもない。



「客間は空いてるから気にせず使ってくれていいぞ。問題は下着だが」

「ちょっと待ってね」


 佐藤がコップを置き、わざとらしく咳をして、背筋を伸ばした。


「わたしが泊まることになってるのはいいとしてね、ねえ黒尾くん? わたしたちって同級生なんだよ?」

「……今さら何をいってんだよ」

「うん。わかってたことだけどね、たぶん黒尾くんはわかっていないと思うからあえていうね」

「何いってんだ?」

「うん。男の子なら同じ年ごろの女の子の下着を気にするということはあると思うの。そのことは理解してるのね」

「ほほう。さすがの佐藤さんも男の目は気になるのか」

「黒尾くんがわたしをどう見ているのかはわかったよ。だからね、ちょっと黙ってようね?」

「…………」



 笑顔の威圧を受けて、無言で頷いてしまった。

 佐藤って、ふわふわしてておとなしい感じがするけど、実はとんでもなく怖いのかもしれない。そんな気がした。



「わたしがいいたいのはそういうことじゃなくてね、女の子の下着の心配をする同年代の男の子というのはちょっとどうなのかなあ、ということなんだよ?」

「なんだ、そんなことか」

「なんだってことはないと思うんだけど」

「気にすんな。そんな気はないから」

「それはそれで女の子としてはちょっと複雑なんだけど、黒尾くんがそういう人でないことは理解したよ。でもだからってわたしも相応に年頃の女の子たちと同じくらいの羞恥心というのかな、そういうのはあるのね」

「まあ、わかる」

「だったらわかるよね? 下着の心配をされるというのはやっぱり恥ずかしいというかね、だからってやましい想像をしてもらいたいわけではないんだよ? そこは勘違いしないでもらいたいんだけど、それはそれでやっぱりなんだよね」

「そっか。なんかわからんが、すまん……ということで風呂に入ってこいよ。今から干せば明日の朝には乾くだろ? 別に洗濯機に放り込んでくれててもいいけど、でもブラジャーは別に避けといてくれよ。後で網に入れて洗濯するから。うっかりそのまま洗っちゃうとたまにえらいことになるんだよな。前にブラのフックが靴下に絡まったことがあるんだけどさ、あのときなんて靴下の糸がほつれてすげえ大変だったんだ」

「……黒尾くんって、本当にいろいろと残念だよね」

「なぜ俺の話になる。残念なのはブラジャーを隔離せずに洗ったときだ。そういう話をしてるんだよ、俺は」

「あーそうだねえ」



 佐藤はため息をついて、コップに手を伸ばした。おいしそうに飲んでいるその姿を見ていると、なんだか佐藤がとんでもない不思議な存在に思えてきた。


 別に俺だって鈍いつもりはない。佐藤のいわんとすることは理解している。たしかに、身にまとっているのが下着だけだとして、そんなところを見られたら恥ずかしいだろう。俺でもパンツ一丁で佐藤の前に立つ勇気はない。


 だが、下着単体ならどうってことはないだろう、と思う。たとえばマネキンが下着をつけているところを見て欲情するか。探せばそんなフェチを抱えたやつもいるかもしれんが、俺にそんな趣味はない。パンツだろうがブラジャーだろうが、身体から離れたらそれはただの物だ。洗うべき対象でしかない。ちょっと佐藤は過剰すぎやしないかとも思う。


 あ、なるほど。そういうことか。



「ごめん。やっぱり俺が間違えていたようだ」



 これは猛省だな。佐藤がコップを両手で包むように持ったまま、目を上げた。



「わかってくれたの?」

「ああ、わかった。ようするに佐藤さんがいいたいのはあれだろ。使用済みパンツを見られるのが恥ずかしいといってるんだろ?」

「…………」

「やはりか。だが安心しろ。これは客をもてなす上で、家主が最低限注意を払うべきことなんだよ。歯ブラシはどうする。着替えはどうする。それと同じだ。たとえば佐藤さんが生理だったとしよう。もし生理痛が辛ければ俺は生理痛に効く薬を出すぞ。生理用品がないのならば俺はナプキンを用意する。もしかしてタンポン派だったら対応できないが、事前にいってくれたら用意しておく」

「えーっとね、黒尾くん?」

「まあ聞け」


 手を突き出して、心持ち胸を張った。


「つまりだ。下着の替えを心配したのもそれらと同列の話ということだ。デリケートゾーンを守るものだからな。できるだけ綺麗なものを着用したほうがいい。女の子は特にだ。だから何も恥ずかしがる必要はない」

「普通に恥ずかしいよ」


 佐藤さんは赤らめ顔を無理に笑みで覆った。


「もうね、今の会話でいっぱいいっぱいだなんだよ?」

「……なぜだ」

「なぜって、黒尾くんはわたしが女の子ということをわかってるのかなあ」

「佐藤さんが男だったら尊敬するけど、ちゃんとわかってる。だからこうしていってるわけで」

「うん。どうしてわたしが男の子だったら尊敬するのかは訊かないけど、この際だからいっちゃうね。答えは全部黒尾くんがいってるよ」

「やはりか」



 俺の考えは当たっていた。間違えていなかった。俺は女心に一歩近づいたということだ。



「ならば気にすることはないといっておこう。たとえ佐藤さんが大を漏らしていたとしても、心配するな。きっちり仕上げて朝一番で渡そう」

「本当にいい加減にしないとわたしも怒るよ?」



 その瞬間、佐藤の笑みに恐怖を感じた。さっきとどこがどう変わっているのかはわからないが、とてつもない威圧感がある。



「いや、なんで……。大丈夫だって。笑ったりしないし、漂白も布を傷めないようにちゃんとやる。慣れてるから俺に任せて欲しい」

「ごめんね。黒尾くんは慣れてても、わたしは慣れてないの」

「…………」

「何かなあ、その目は。面倒くさいって思ってるよね?」



 思ってる。すげえ思ってる。だって超面倒くせえんだもん。


 人間なんだから糞もすればしょんべんもする。あたりまえのことだ。だから下着を穿いてるんじゃねえのかよ。なぜ恥ずかしがるのか理解不能だ。



「女の子のこと、もっと知っておかないとそのうちに雫ちゃんに嫌われちゃうよ?」

「……マジかッ」


 佐藤がびくりと肩を上げた。


「予想以上の反応にびっくりしちゃった」



 雫ちゃん効果は大きいね、とかなんかいってるが、そんなことはどうでもいい。



「それは本当なのか。冗談じゃないのか。本当にダメなのか。雫は嫌うのだろうか」

「うん。今のままだと間違いなく、嫌われるよ?」



 冗談だろ。本当に女子の普通ってのは佐藤と同じ感覚を持っているのかよ。だとしたら矯正すべきは俺の感覚のほうということになるのだが……。雫が中学生とか高校生とかになったら、やっぱり佐藤みたいに思うのだろうか。


 だが、ばあちゃんは……あれは介護だからどうでもいいとしても、静音さんは何とも思っていないようだったが、まあ静音さんも例外か。でも聖和の妹は気にした様子はなかったな。


 わからん。どうにも想像ができない。しかし、佐藤がここまでいうのだ。反抗期で嫌われるのなら覚悟しているけど、そういうことで嫌われるのはものすごく嫌だ。



「確認なんだけど、使用済みがダメなんだよな。新品ならいいんだよな」

「わたしから何を聞き出そうとしているのかなあ」

「頼む。恥を忍んで訊いてるんだ」

「じゃあわたしは恥を忍んで教えないといけないのかなあ」

「…………」

「何かな、その目は」

「なんでもありません」



 ちくしょう。それは笑みとはいわんぞ。脅しというんだよ。わかってんのかよ、佐藤つゆみ。



「黒尾くん? 心の声が全部顔に出ちゃってるよ?」



 チッ。なんて勘の鋭いやつだ。優雅にコーヒーなんぞ飲みやがて。



「あのお、佐藤さん? 俺はどうしたらいいんでしょうか」



 姿勢を正してお伺いを立てた。佐藤はそれはもうじーっと俺を見て、にこりと微笑んだ。



「まずお母さん感覚から離れようね?」

「だが、それは」

「雫ちゃんに嫌われちゃうよ?」

「……努力させてもらいます」

「うん。それから女の子にとって男の子に知られたくないことも口にしちゃだめだよ」

「えっと、それはたとえば……?」

「黒尾くん?」



 笑顔で凄まれた。されて、ついうっかり背筋が伸びたような気がする。


 佐藤はダメだ。使えねえ。

 まあいいや。まだ時間ある。詳しくは今度野獣先生に訊けばいいだろう。ふん、バカめ。持久戦で俺に勝てると思わないことだ。


 佐藤に合わせて、俺もコーヒーで口を潤した。



「そういえば明日動物園に行くんだよね?」



 佐藤が何事もなかったように尋ねてきた。もう下着の話はしたくないってことだろうか。俺としては情報は多いほうがいいし、もっと聞いておきたいんだけど……どうやら話を戻したら怒られそうだ。微笑みつつもそんなオーラを佐藤は全身から発している。



「知ってたのか」

「雫ちゃんが楽しそうに話していたから」

「楽しそう、か」


想像したら笑いがこみ上げてきた。


「いやあ、思いつきでいってみたらことほか乗り気になってさ、引くに引けなくなったんだよ。ほんと、参っちゃうよな。それでさっきまで弁当の下準備をしてたんだけどさあ」

「お弁当かあ。いいなあ」

「そういえば佐藤さんはいつも学校の昼はどうしてんの? 食堂?」

「だいたいは食堂ですませるかな。購買でパンを買うときもあるよ。黒尾くんはいつもお弁当だよねえ」

「といっても晩飯の残りだけど……。それにしてもよく俺が弁当だって知ってるな」

「まあ、クラスメートだからそれなりかなあ」

「ほかのやつらのことも知ってるの?」

「……ん?」

「クラスメートのことだよ。昼休みに何をしているとか、そういうことを知ってるのかなあって」



 佐藤は「うーん」といいながら斜め上を見た。



「知ってる人もいるけど知らない人もいるよね」

「たとえばどんなこと?」

「黒尾くんがよく赤羽くんと一緒にいるとか、赤羽くんが女の子によく告白されててそのたびにフッているとか、フラれたのが黒尾くんのせいだって噂が流れていることとか━━」

「ちょい待て。そんな噂があんのかよ」

「あるよ?」

「冗談じゃねえぞ。あいつが付き合わないのと俺は関係ないからな」

「わたしにいわれても困るんだけどなあ」

「いやいや、ちょっと待てって」



 持っていたコップをテーブルに置いた。

 本当に冗談じゃない。



「たしかに俺とあいつは仲はいいのかもしれない。だけどそれは俺とあいつが従兄弟いとこで昔から一緒だったからだ。つまり、あいつが彼女を作らないのと俺は関係ない」

「え? 従兄弟なの?」

「え、うん。あれ、知らなかった?」

「知らないよお。たぶんほかの人も知らないんじゃないかなあ」



 なぜだ。おかしい。中学では周知の事実だったから誰かが話しているものと思っていた。

 どういうことだ?



「すまん。ちょっと待っててくれ」



 台所とリビングを隔てているカウンターに置いていたスマホを手にしたちょうどそのとき、スマホが振動した。聖和から電話だった。



「ちょうどよかった。おまえに聞きたいことがあったんだ」



 開口一番そういったら、聖和がいぶかしげに「どんなことだ?」と訊いてきた。

 さっき佐藤から聞いた話をして、なぜ誰も知らないのか尋ねてみた。



「そのことか」

「やっぱ知ってんだな。どうなってんだよ」

「あいつらはどうなるか観察しているだけだ。ただの興味本位だ。気にするな」

「だからどういうことなんだよ」

「僕と仁が従兄弟であることを隠して周囲の反応を見ようという、まあそういう遊びだ」

「ちょい待て。どうしてそれが遊びになる。そのせいで俺がおまえの邪魔をしてるみたいな噂が立ってるんだぞ」

「実害がないうちは放っておけばいい。それより利樹としきさんのことわかったぞ」

「いやいや。利樹さんなんてどうでもいいって。今は俺に対する不当な噂をどう消すかのほうが大事なんだって」

「どうせもうすぐゴールデンウィークだ。それが終われば夏休みだからな。放っておけ。━━それで利樹さんだが、やっぱり本命はいないようだ。見合いの話も持ち上がっているらしい。今がチャンスだ」

「…………」



 本当に今は利樹さんのことはどうでもいいんだけど……。ため息をついてソファーに座った。向かいで佐藤が興味深そうに俺を見ている。


 スマホの液晶を佐藤に見せて、すぐに耳にあてた。佐藤が頷き、声を発せず口だけを動かした。


 お風呂借りるね━━。そういった。

 スマホの口の部分を手で押さえた。



「タオルは勝手に使ってくれていいからな。下着は━━」



 佐藤は立ち上がる途中で動きを止めて、むっと睨んできた。



「雫のパンツでも穿いてろ」


 笑ってやったら、佐藤が深いため息をついた。


「もう。黒尾くん? 本当にいい加減にしてね?」

「すまんすまん。俺も後から入るから湯は抜かなくていいから。俺のパジャマが脱衣所の外の棚にあるから使ってくれ。どれでもいいからさ」

「うん。じゃあ借りるね」

「トイレは風呂場の近くにあるからな」

「うん」

「おい、仁、誰かいるのか」


 聖和がいった。スマホの口から手をどけた。


「いや。ちょっとな」



 佐藤のことを話そうかと思ったが、やめておいた。もしも佐藤が聖和のことが好きなのだとしたら、後々話がこじれそうな気がしたからだ。

 佐藤の声も多少は聞こえていたはずだが、ここは流させてもらう。



「それで利樹さんは見合いを受ける気なのか」

「のらりくらりとかわしているようだが、利樹さんの両親とか母さんたちが勝手に進めようとしているところらしい。というわけで、僕のほうから尾堂先生を推薦しておいた」

「仕事が早いな」

「そういうタイミングだと思ったまでだ」



 本当にやる気になったときの聖和は手が早い。



「それで手ごたえはどうなんだ? いきなり学校の先生を推薦したらおばさんも不思議に思ったんじゃないのか」

「その点は抜かりない。仁の担任というだけで納得してくれた」

「おい。なんでだよ」

「仁に親身で、今日なんか心配して家まで様子を見に来てくれたといったら父さんも母さんもも落ちたよ」

「ちょっと待て。おまえは何をいっているんだ」

「心配するな。あの人たちは深く詮索するようなことはしない。仁のことは特にな」

「そういう話じゃなくて、なぜ俺の心配をしたってだけでそうなるのかということを聞いてるんだが」

「それはだって、おまえが家に上げたってことは、少なくない好意を持っているってことだろ? なんだかんだといっても、母さんたちもおまえを信じてるってことさ」

「信用してもらえて何よりだが、尾堂先生は担任なんだから好意は関係ないだろ。だいたい今日はおまえが連れてきたんだし」

「まあそういうな。とにかく見合いは尾堂先生で進める。連絡先は知らないから仁から先生にいっておいてくれ」

「俺かよ。そういう話って苦手なんだよな。それにどうやら俺は女心というやつがわからないらしいんだよ」

「ふうん。おまえもようやく自分のことに興味を持ったんだな。いいことだ」

「やかましいわ」



 まあ俺が興味を持ったのは雫に嫌われる可能性についてなのだが、これはいわなくてもいいだろう。



「なるほど。そうだな。わかった」


聖和が何かを勝手に納得した。


「なら月曜に俺からいっておく。ただ見合いの前にそれとなく2人を知り合わせておこうと思うんだが、明日の午後は時間あるか」

「すまん。明日は雫たちを動物園に連れて行くって約束してんだ」

「……明日? 聞いてないが」


不満そうな声だった。


「夕方に決めたんだよ。ほら昼飯のとき雫がパンダっていっただろ? あれでピンと来てな。ゴールデンウィークに入ったら混むだろうし、今のうちに連れていこうかなと思ったんだよ」

「なるほどな」


どうやら納得してくれたらしい。


「ということは上野動物園だな。遠いな。朝早くていいのなら父さんに車出してもらうが、どうする?」

「いや。そろそろ雫に電車の乗り方とかを教えておかなきゃなと思っていたところだ。観光がてらのんびり行くよ」

「そうか。僕もついて行きたいところなんだけど、あいにく明日は午前中に荷物が届くらしくて家にいないといけないんだよ」

紅葉もみじおばさんはいないのか」

「明日は一日友達と遊ぶ予定らしい。父さんはゴルフ。妹は部活だ」

「そうか。俺としても聖和についてきてもらえたら助かったんだが、まあ気にするな。久しぶりにのんびりしたらどうだ?」

「今回はどうしようもなさそうだからな、そうさせてもらう」

「そうしろ。じゃ、またな」

「ああ。誰かは知らないがそこにいる人にもよろしくいっといてくれ」

「いや、ちょっと━━」



 プツンと電話が切れた。しかも最後の聖和の声が、異様に弾んでいたような気がする。誰かまではわからなかったようだが、女性であることはわかっていると思ったほうがいい。


 これは要警戒だな。まあ俺が口を滑らせない限りバレはしないだろうけどさ。


 佐藤が風呂からあがるのを待っている間に、客間のベッドにシーツをかぶせてタオルケットを用意した。普段使うことのない部屋だが掃除だけは二日おきにしている。風も入れているから埃っぽさはない。準備を整えてリビングでくつろいでいると、佐藤が戻ってきた。



「お先にいただきました」



 おう、と答えて顔を上げると、佐藤はほとんど別人だった。元から化粧をしていたわけではないからそういう意味での別人ということではない。


 白かった肌を桜色に染めて、ストレートの黒い髪はほんのりと湿っている。青みがかった無地のパジャマは少し大きく、ズボンの裾を折っており、薄手のシャツもだぼっとしているが、それがまたいい感じに作用している。制服姿とは打って変わって、女性特有のしなやかさを感じずにいられなかった。



「なんか、すげえいい。色っぽい」

「……え、あ、そう、かなあ」

「…………」

「…………」



 やばい。死にたい。さすがにこれは行きすぎた発言だった。

 佐藤が恥ずかしそうにえりをいじくった。



「なんかすまん」

「ほんとに黒尾くんってあれだよね。どうしようもないよね」

「……まあとにかくだ、客間に案内しておくよ。こっちだ」



 真面に佐藤の顔が見られなかった。横を通るときに佐藤がすっと身を引いた。少しショックだったが、まあいいさ。


 客間に案内して、念のために俺の部屋も教えておいた。部屋はほかにもあるが、その中で佐藤が好みそうな部屋に案内した。

 ドアを開けて電気をつけると、佐藤がぱーっと目を輝かせた。



「うわあ。本がいっぱいだね」

「俺専用の書庫だ。もう亡くなってるけど祖父が出版社の編集をしてたみたいでな、本だけはあるんだよ。といっても昭和に発刊された本ばかりなんだけどさ。それでも俺がちょくちょく買いためているから現代の小説もあるぞ」

「入ってもいいかな」

「どうぞどうぞ。心ゆくまで堪能してくれ。そのために案内したんだからさ」



 佐藤が恐る恐るといった感じで部屋に入り、部屋いっぱいに並べられた本を指先で撫でた。


 狭いながらも本棚が二列で縦に並んでいる。本棚に収まらなかった本は、壁際に並べた薄いラックに収納してある。

 ひと通り見て回り、佐藤がこちらを見た。



「おじいさんは、もしかして講春社こうしゅんしゃに勤めてたのかな?」

「なんでそう思う?」

「講春社の本が多いからもしかしたらって思ったんだけど……」

「なかなかの推理力だ。うん、正解。編集長もやっていたそうだけど、昔の話だ。そういった事情もあって講春社に関する本はほとんど初版だよ。ただ旧字で書かれてあるのは読みにくくて俺はあまり好きじゃないんだけどさ」


 へえ、といって佐藤は再び徘徊した。


「そんじゃ俺は風呂に入ってくるから自由に堪能してくれ。歯ブラシは出しとくな。眠たくなったら寝ろよ」

「うん。ありがとう」



 扉を半分開けた状態にして、脱衣場に向かった。


 脱衣場にはまだ熱気がこもっていた。別に自分のことを変態だとは思わない。少なくともそのつもりはないが、さっきまで佐藤がいたのかと思うとドギマギした。ついでに佐藤がシャワーを浴びているところを想像してしまい、そわそわした気持ちを抱えて、風呂場に入った。


 もう考えるまい。シャワーで汗を流し、先に湯に浸かってから水を抜き、浴槽を洗った。今度は石鹸で体を洗い、泡を流した。


 廊下に出た。書庫から明かりが漏れていた。



「佐藤さん?」



 ひょいっと覘くも佐藤はおらず、中に入った。すぐ横で気配がした。佐藤はドアの横の壁にもたれて座り込み、本を開いたまま寝ていた。


 眠たくなったら寝ろとはいったが、ちゃんと客間で寝て欲しいものだ。


 佐藤が開いていた本を手に取った。推理小説を日本に広めた第一人者といってもいい大御所の書いた推理小説だった。旧字で書かれた本だが、ツウの人にいわせると旧字だからこそ当時の息吹を感じることができておもしろいらしい。


 俺も本は好きだが、比喩がどうとか、表現がどうとか、そんなことは知ったこっちゃないと思っている。文学というカテゴリーに興味はなく、それより娯楽の意味合いの強い小説のほうが好きだ。


 だからだろう。旧字で書かれてある本は読みづらいだけでちっとも面白いと思わない。まあそれでもせっかくあるんだからと思って、うちにある本はすべて読んだけどさ。読んだだけで内容を覚えていないという惨状には目をつぶるとして、面白いと思った本は新字に直されている本を買って書庫に置いてある。

 本を棚に戻した。



「おーい、風邪ひくぞぉ。起きろー」



 軽く肩を揺すったが起きる気配はない。

 子供じゃなし、放置するか。ここに布団を敷いて寝かせるのもありか。でもこの部屋って冷えるんだよな。だから書庫にしてるんだ。風邪でもひかれたら雫たちにうつりかねない。



「疲れてるんなら無理するなよ」



 その無理をさせたのは俺か。


 お姫様抱っこで持ち上げた。思いのほか軽い。それこそ拍子抜けするほど軽かった。男子をお姫様抱っこした経験がないから比較のしようはないが、中学の組体操のときに感じた重さとは比較にならない軽さだ。


 これが女子なのか。そういえば静音しずねさんも軽かったな。なんだか懐かしい。あのときはよく酔っ払った静音さんを寝室まで運んだものだ。


 懐かしさを堪能しつつ佐藤を起こさない運び、客間のベッドに寝かせた。

 すやすやと気持ちよさそうに寝ている。こんなにも無防備な姿を見せられると、いたずらをする気も湧かないな。まあ、最初からそんな気はないけど。



「疲れてたんだよな。ごめんな。ありがとう、佐藤さん。本当に助かった」


 小声でいい、タオルケットをかけて部屋を出た。


「おやすみ」



 扉を閉じようとしたときに、「おやすみなさい」と空耳に近い声が聞こえたような気がした。ん、と思い、閉じる寸前の扉を軽く開けてみたが、佐藤は寝かせたままの状態で寝ていた。とすると、静音さんだろうか。会いたいような会いたくないような……。


「おやすみ」


 もう一度いってから扉を閉めた。次は声は聞こえなかった。

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