日陰の白

白神護

第1話

 教室は、春の陽気で満ちている。ともすれば、ついつい眠気を催すほどに。午後の、特段に、国語の授業ともなれば、よりなおさら。

 辺りをそれとなく見渡せば、もう、何人かは机に臥せている。睡魔というクリーチャーが、無差別に生徒を襲撃して回っているように、私は想う。

 そして、その被害者の中に彼女は居る。窓際の陽光を一身に浴び、ちょっとだらしないくらいの安らかさで、ぽかぽかすやすやと寝息を立てている。

 ああ、かわいいな。という感情が、ぽんと胸中に出現する。けれども、私はそれを表層に晒したりはしない。頬は緩んだりしないし、目尻が下がったりもしない。私は毅然とした態度で、彼女の寝顔を盗み見て、脳裏に焼き付ける努力をする。

 彼女は非常に愛らしく、私は彼女に惚れている。けれども人目があるところでは、彼女に対して微塵も興味がないような素振りを、私は心がけている。

 そういった、私の涙ぐましい努力によって、私と彼女の日陰の逢瀬は、どうにかこうにか守られている。


                ◇ ◇ ◇


 放課後をしらせるチャイムが鳴り、終礼の挨拶を済ますと、彼女はいそいそと帰り支度をし、教室を後にする。けれども、すぐさま校門をくぐるということはない。彼女は吹奏楽部に所属しているので、まず、音楽室に向かう。

 私は生徒会会計の雑務をこなすため、生徒会室に向かう。校舎は、真上から見下ろすと『コ』の字の形をしているのだが、生徒会室はその下辺部の最上階――つまりは三階――の一番端っこに置かれている。職務上、生徒会室を基点に校内を歩き回ることが多いので、この点に置いて、生徒会室の立地は非常にクソと言わざるを得ない。

 そんなこんなで生徒会室へやってくると、中には、まだ、誰も居ない。今日は水曜日、定例の会議の日だ。他の役員はそちらへ出席しているのだろう。

 とりあえず、私はPCの電源ボタンを押した。冷却ファンの回る音が、静かな部屋に大きく響く。OSが立ち上がるまでの合間に、片端から窓を開けていく。そして、幾枚かの窓を開けたところで、ふと、彼女の影を見つける。

 改めて、校舎は(上から見て)コの字の形をしている。生徒会室からは、コの上辺の部分が真正面に見てとれる。その、最上階の端。音楽室の入り口付近に、彼女の後ろ姿はあった。吹奏楽部の中でも特段に仲の良い、篠崎さんと歓談している。楽しげに肩を振るわせたり、軽く小突きあったりしている。私は風に当たる体で、その様子をぼうっと眺め続けてみる。

 遠くでOSの起動音がしたり、準備体操を始めた運動部の声が聞こえたりしたけれど、それよりも、私の耳には、聞こえないはずの彼女の声ばかりが、彼女の微細な動きに合わせて、はっきりと聞こえるようだった。

 会議を終えて役員が姿を現すまで、私は仕事に手をつけず、そんなことをして時間を過ごした。


                ◇ ◇ ◇


「佐藤くん」

 生徒会の活動を始めて暫く。名前を呼ばれて、顔をあげた。生徒会長の声だ。きっと、さっき提出した予算案の一次資料に関することだろう。

「とりあえず、これでいいから、先生に出してきてもらえる?」

 私は資料を受け取って、了承の答えを返した。先生というのは生徒会顧問の安田先生のことを指して言っているのだろう。今頃の時間帯ならば職員室に居る可能性が高い。

 会計用の事務机から幾つかの予備資料を回収すると、私はすぐに、生徒会室を後にした。


                ◇ ◇ ◇


 生徒会室を出て廊下を歩く。ちらりと音楽室の方を窺うが、既に彼女の姿はない。各教室に別れて、パート練習でもしているのだろう。校舎のあちこちから、色々な楽器の音がしている。

 私は一番近くの階段で一階まで降りて、職員室に向かって歩いた。幾つかの教室の前を通るたび、雑多だった音たちの内の一種類だけが浮き立って聞こえ、通り過ぎると、少しずつ紛れて雑多に戻る。

 ある教室の前に差し掛かったとき、フルートの音色が一気に音量を増した。彼女の担当も、フルートだったはずだ。

 視線だけを、ちらりと教室の中に滑り込ませると、五人ほどのフルート担当らしき人たちが一ヶ所に集まっている。ただ、実際に演奏しているのはその内の一人だけで、彼以外の人たちは、給水したり、何事かを譜面に書き込んだり、お互いの楽譜を確かめ合って、各々の意見を述べたりしている。

 その集団の中に、彼女の姿はない。

 私は疑問に思いつつ、かといって足を止めるわけにもいかない。私が彼女にご執心であるという事実を、彼女以外の学生諸氏に知られてはならないのだ。

 そうこうしている間に、教室の前を通り過ぎた。私は心の内だけに疑問符を浮かべながら、廊下を歩いた。職員室は、もうすぐそこだ。私はかちりと心のスイッチを切り替えて、職員室に入ってからのことをシミュレーションする。頻繁に出入りの機会があっても、やはり、あの場に慣れることはない。

 入室の挨拶。用向きを言い、安田先生の名前を呼ぶ。先生が居れば、資料を渡して二言三言の会話の後に退室できる。だが、居なければ更に手間が増える。手の空いていそうな人に声をかけ、安田先生の行き先を聞かねばならない。私は、普段あまり関わりのない大人と会話するのが、なんだか、苦手だ。

 そんな風に考えて溜息を吐いたとき、唐突に、彼女が、目の前に現れた。

「あ」

 ぶつかりそうになって、彼女が嘆声を漏らした。私は、捕食者を茂みに空目した草食動物のように体を跳ねさせ、石像のように身を凍らせた。

 彼女はハンカチを手にしている。思えば、職員室の手前にはお手洗いが置かれている。彼女は今まさに、そこから出て来たらしかった。

 私は何か、気の利いた辞世の句でも述べるべきかと思案した。(やあ。トイレ?)――けれども、彼女には私と会話する気など更々なかったらしく、まごつく私の脇を抜けて、とことこと、フルート担当の教室へと戻っていった。後ろ髪を引かせる隙すらも与えない、見事な去りっぷりであった。お陰で、私もほうけて振り返ったりせずに済んだ。実にありがたい限りである。

 それから、私もすぐに歩き出し、職員室の戸を叩いた。脳内予習の甲斐はなく、一声目で盛大に舌を噛んだ私は、先生方の注目と失笑を頂戴し、大変、いたたまれない思いをした。


                ◇ ◇ ◇


 安田先生は、職員室の主任席でぱちぱちとキーボードを叩いていた。資料を渡すと、数枚めくってから簡単に頷き、会長へのことづけを預けて、私を解放した。

 職員室を出ると、私は大きく溜息を吐いた。鳩尾の辺りが、少しだけすうっとした。

 生徒会室へ戻る途中、再度、フルート担当の教室の前を通る。歩調を乱さず背筋を伸ばして、視線だけで、室内を窺う。今度は、数人で合わせて演奏をしている。当然、私の視線は彼女の元へ集中する。

 廊下からだと、彼女のやや斜め後ろから、真剣そうな横顔を拝むことができる。普段の、ゆったり、のんびり、のほほん、といった様子とはまた違う、真摯な魅力を、演奏中の彼女は纏っている。

 教室の前を通り過ぎるまで、たったの十数歩。間違っても、彼女と視線が交わったりすることは、ない。日中、私は一方的に彼女を盗み見たりしている。彼女がその事に気付いているのかは、定かではない。訊いてみたい気もするが、勿論、実行には移さない。彼女から問いだたされるならまだしも、自白のような真似は、気恥かしくてできない。変なところで、私は見栄っ張りだ。


                ◇ ◇ ◇


 五時になると、校内にチャイムの音が鳴り響く。部活動に励む大体の生徒は、このチャイムを皮切りにして、帰り支度をし始める。吹奏楽部も、その大体に含まれる。

「城ヶ崎くん」

 会長の声が、副会長の名前を呼んだ。私は液晶から視線を外して、それとなく二人のやりとりに聞き耳を立てる。

「どう? 終わりそう?」

 男子生徒の中でも長身な方の会長が、身をかがめるようにして、副会長の手元を覗き込む。副会長は、部活動関連の資料整理をしている。もう、大体は片付いているように見える。

「はい、もうすぐ終わります」

 しとりと、梅雨の雨音のようなしんとした声で、副会長が答えを返す。書記の子が、空気を読んで帰り支度をし始めて、数分もせずに、挨拶を残して生徒会室を去っていく。それから少しして、会長と副会長も席を立つ。

「佐藤くんは、まだ、残るの?」

 傍らに副会長を侍らせて、会長が言った。

「はい、もう少し」

 美男と美女が、並んで私の手元を覗き込む。彼らが交際しているというのは有名な話で、私はとても居心地が悪い。なので、つい、先に帰るよう進言してしまう。

「そうか……。じゃあ、鍵はよろしく」

 別段、気に留めていない様子で、会長は言う。副会長とも幾つか言葉を交わして、最後にお別れの挨拶をする。楽しそうに肩を並べて、生徒会室を後にする。そんな彼らの背中を眺めて、私は密かに溜息をついた。


                ◇ ◇ ◇


 五時のチャイムが鳴っても、一部の運動部は残っていたり、いなかったりする。ただ、水曜日は、残っていないことが多い気がする。実際、今日の校庭は既に空っぽで、体育館の方の灯りも既に落とされている。窓を開けてあっても、ファンの音がくっきりと際立って聞こえる程度には、辺りは静かだ。

 時刻は五時半。西日が雲で陰りはじめて、そろそろ帰るか、或いは電気をつけなければと考え出したころ、不意に、生徒会室のドアが開いた。

「失礼します」

 ――彼女だ。茜色の廊下を背景バックに、彼女がそこに立っている。

「安田先生から、資料を届けるように頼まれて来ました」

 かしこまって、彼女は言った。片手には鞄。その反対の手には資料の束を携えている。

 そのまま彼女は室内に入って、からからと後ろ手でドアを閉めた。そしてその場で資料を差し出す。

 私は席を立ち、彼女の元へと歩み寄る。一歩、二歩、三歩。彼女との距離を一メートルほどにまで詰めて立ち止まり、私は資料へと手を伸ばす。そして、端を、つまむ。


                ◇ ◇ ◇


 くいと、手を引く。資料の束が、僅かにこちらへと移動する。けれども、彼女が手を離さない。

 更に、手を引く。彼女がくつくつと無邪気に笑う。からかわれている。私は嬉しくなって、手を引いたり、押したりしだす。彼女も私の真似をする。資料が二人の間を、行ったり来たりする。妙に充足した時間が流れる。心に、黄色い感情が満ちていく。

「ねえ、みっちゃん」

 彼女が私の名前を呼んだ。人前では、決してこんなことはしない。人前では、私たちは袖すら振れ合わない、まったくの他人だ。

「なあに?」

 私と彼女はほとんど変わらないくらいの身長で、目線がまっすぐぶつかり合う。彼女の瞳は宝石のように綺麗に澄んで、西日で赤々と輝いている。綺麗だなあと、ふと思う。

「私のこと、見てた」

 確信に満ちた声色で、ふんわりと、いさめるように彼女は言う。どうしようもなく、私は肯く。

「どうして?」

 試すように、彼女は言う。

「……好き、だから?」

 言葉尻は薄弱に、私は、答える。

 途端、彼女の身体がふわりと跳ねる。セミロングの黒髪が、ほんの一時、膨らみを持つ。そしてそのまま、彼女はすっぽりと私の腕の中へ納まって、ただ、勢いがあったので、私たちは、ぱたりと床に倒れ込んだ。

 フローリングがひんやりとしている。熱を冷ますのにはちょうどいいかもしれない。

 私たちはどちらともなく絡み合って、倒れたまま、只々、じっとしている。見つめ合う、視線だけが、ちろちろと揺れ動く。

 私たちは、キスすらしたことがない。ただ絡み合って、お互いの体温を移し合う。なんだかそれだけで、私たちのお腹は一杯になる。――まだ、子供だからだろうか。

 もしかしたら、その内、私たちはもっともっと深い関係になるのかもしれない。キスや、その先や、いつだって隣で繋がり合っていたいと、思うようになるのかもしれない。ただ、でも、きっと、私たちは、会長たちのように、公で交際したりするようなことには、ならないだろうと、私は思う。


 真っ暗な日陰にあればこそ、私たちの情愛は、より燦然さんぜんと、とうとく、輝く。

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日陰の白 白神護 @shirakami

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