3.弊害

「お前さ、最近居眠り多くね? もう休み時間だぜ」


 机に突っ伏していた俺に中島は心配そうな口調で話しかけてきた。


「ふあああ。そう?」

「いやいや、あくびしてんじゃん」


 体を起こすと、声が出るくらいの大きなあくびが出た。


「寝不足かよ。もしかして、徹夜でソシャゲでもしてんのか?」

「いや、そうじゃないよ」


 ちらりと時計を見ると、すでに二時間目が終わっていた。古典の授業の記憶は全くない。丸々寝てしまったようだ。古語辞典を枕に熟睡していた。古語辞典のカバーはよだれで少ししみになっていた。俺は中島にバレないように手でそれを拭き取った。


 気がつくと、柚華が夜な夜な俺の家を訪れるようになってから一ヶ月が過ぎた。


 今夜もお願いね、というメッセージを合図に柚華は俺の部屋に来るのは相変わらずだったが、その頻度はさらに増えていた。週に二回程度がだんだん増えて、今では週に四回は来る。俺が慢性的な寝不足になるのは当然のことで、その睡眠不足は居眠りで賄うしかなかった。


「じゃあさ、夜な夜な何してんだよ」

「なんでもないよ」

「あー、もしかして……エロい動画でも見てんのか? 興奮して寝れないとか笑えるわ。なあ、オススメがあるなら俺に教えてくれよ~」

「ち、違うってば。エロいことなんてしてないし、オススメもない」


 まあ、ある種興奮して寝れないのは確かなんだけどさ。


 俺の後ろで女の子が寝ているんだぜ? 興奮しないわけが無い。いや、別にペンを突き立てられてることに興奮しているんじゃない。そんな趣味はない。


 「ほらよ、ロクにノートも取ってないんだろ? 貸してやるよ」


 中島が古典のノートを差し出してきた。受け取って開くと、事細かに授業の内容が書き記されていた。中島は勤勉家で、予備校にも通っているし、ノートも先生の一言までメモするくらい真面目な奴だ。


「サンキュー! 助かるよ」

「原因は追求しないけどさ、高二の今って大事なんだぜ? 居眠りなんかしているとあっという間に授業で置いてきぼり食らうぜ」

「おう、わかったよ」


 うんうん頷くと、中島は自分の席に戻っていった。


 中島の言うとおりだ。寝不足だとまともに授業を受けることが出来ない。もともと勉強はそんなにできる方じゃないのに、このままだと成績が下がってしまう。


 そうだな……柚華に言おう。


 目を擦って外を見ると、雨が降っていた。強くはないが、この調子だと夜まで降り続けそうな雨だ。衣替えしたばかりでワイシャツが肌寒く感じた。



 その夜も柚華は俺の部屋に来た。


 今日は睡眠量を稼ぐために早めに寝ていたが、開いた窓からざあざあと雨音が聞こえてきて目が覚めた。


 ペタリペタリと足音がする。その中にポタリポタリと水滴が落ちる音がした。


 もしかして――


 がばっと掛け布団を起き上がり電気をつけた。柚華は驚いたらしく、声を出すまいと両手で口を抑えていた。


「と、突然びっくりするじゃない」

「夜な夜な部屋に侵入する奴が何言ってんだよ。俺は毎回びっくりしてるわ。てか、傘差してこなかったのかよ」


 柚華は雨で髪が濡れていて、やはりぽたりぽたりと滴が床に落ちていた。パジャマもところどころ濡れている。そのせいで体のラインが、とくに胸元が際立っていた。

俺は目を逸した。


「近いから平気かなーって思ったんだけど、思った以上に雨が強くてね」

「あーもう。タオル貸すわ」

「ありがと」


 クローゼットからタオルを出してなるべく胸元を見ないように柚華に渡した。柚華は撫でるようにして雨を拭き取る。昔のやんちゃな柚華と違って、その姿は妙に色気があって、大人の女性っぽい。胸がドキドキして心臓に悪い。


「柚華。もしもだけどさ、俺がこの状況で勢い余って襲いかかったとしたらどうすんの?」

「なに? 急に」


 俺が寝ている背後で柚華は横になっていて、相変わらず俺にボールペンを突き立てている。


「いや、俺も一応男なわけじゃん。で、柚華も一応女の子なわけで……」


 それとなく遠回しに、夜な夜な彼氏でもない男の部屋に来て添い寝するのは止めたほうがいいんじゃないかと言ってみた。まあ、濡れた柚華の姿を見て、くっきりと浮き出て見えた女性らしい体格に俺は少なからず興奮して動揺を覚えていたのもあるが、これ以上夜中に俺のところへ来られたら睡眠不足で色々なところに支障をきたすのだ。


「ふうん」


 柚華はカチリとペン先を出して、そのまま俺にグリグリと突き刺しだした。


 痛え、痛えと俺は喚いて、今のは冗談だと許しを請うと柚華はペン先を収めた。


 そして、柚華は弱々しい声で呟いた。


「あんたに私を襲うなんて度胸ないでしょ。それに、りょー君にそんな度胸があったらさ――」

「えっ、度胸?」

「いいや、別に気にしないで。……はあ、疲れた。私、今日は歩き回って疲れてんの。早く寝かせて」

「お、おう」


 それっきり、柚華は何も言うことなく、すぐに寝息が聞こえてきた。


 俺はといえば、柚華が来る前に寝ていたこともあったし、なによりさっきの一言が耳に引っかかって目が覚めてしまっていた。


 柚華の寝息と、冷蔵庫の駆動音、そして、今夜は外から雨音がかすかに聞こえてくる。夏が近づいてきて夜も気温が高いせいで、部屋が蒸し暑く感じた。


 度胸、か。

 

 確かに俺は度胸がなかったのかもしれない。


 柚華と知り合ってから何年も経っていた。そして、何回も告白するタイミングはあったのだ。

 

 でも、断られるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて俺は告白したいのに何も言わずにいた。きっと現状に甘んじていたんだ。幼馴染という立ち位置が心地よくて、このままの関係がずっと続くんだと思っていた。


 勇気がなかった。


 度胸がなかった。


 好きだ、って言葉が喉元にあったのにそれを隠していた。


 だから、柚華に彼氏ができたと知ったときは明日世界が終わるくらい絶望して後悔した。


 後悔は手遅れになってからやっと気がつく。そしてその思いを今も抱え続けている。


 不発弾みたいだ。爆発させてしまえばいいのに、未練タラタラの俺はまだそいつを持ち続けている。


 ふと、ペンを突き立てる柚華の力が緩んだ。今夜は本当に疲れているようで熟睡しているようだ。


 俺は起こさないように、何か言われたとしても寝返りを打ったとい言い訳できるくらい自然に体ごと柚華の方を向いた。


 俺と柚華の間にあるのはボールペンだけ。それは僅か15センチほどの長さで手を伸ばせば容易く届いてしまう距離だった。


 柚華は少し切なそうな寝顔をしていた。陶器みたいに艶やかな額には濡れた髪が張り付いている。柚華の寝息が俺の鼻に当たってむず痒い。


 柚華の寝顔を見つめていると、たまたま柚華の目元に涙の粒があるのを見つけた。


 別に、涙を拭うくらい許されるだろう。


 俺は手を伸ばした。いやらしい気持ちではない。これは偶然だ。偶然で仕方がなくやるだけである。


 生唾を飲んで柚華の肌に触れた。柚華に触るのはいつぶりだろう。こんなにひんやりして柔らかいのか。


 柚華が鼻をすすった。泣いているのか? 怖い夢でも見ているんじゃないか? 


 俺は柚華の頭を撫でてみる。そうすると、柚華の寝顔がいくらか安らいだように見えた。


「…………」


 柚華がもぞもぞと寝言を言い始めた。なにを言っているんだろう。俺は彼女の口元に耳を近づけた。


「…………しんや君」


 囁く声は柔らかい。そして、俺の血の気を引かせるには充分すぎた。


 我に返った俺は手を引っ込めて、柚華に背を向ける元通りの体勢に戻った。冷蔵庫の音と柚華の寝息と雨音が聞こえる。やけにその音が大きく感じた。俺は寒くもないのに震えていた。


 柚華が寝言で別の男の名前を言っていた。俺の好きな幼馴染は別の男に恋しているのだ。



「なあ、これっきりにしよう」


 柚華が立ち上がるのを見計らって、俺はそう言った。


 空は薄い青色でそろそろ太陽が登る頃だった。


 横になっている俺を見下ろす柚華は、最初こそ「私の寝相悪かった?」なんて冗談半分に言っていたが、俺が真面目に話していると分かると、手ぐしで髪をすいて「どうして?」と首を傾げた。


「柚華が背後にいたら寝れねえよ。それにこんなの間違ってる」


「いいじゃん。幼馴染の私と添い寝できるなんて彼女が居ないりょー君にとっては役得じゃん。私は睡眠できて、りょー君は女の子と一緒に寝れるんだし」


「ちげえよ。こんなん……ただの生殺しだ。それに柚華だっていいのかよ……彼氏居るくせに。これって、浮――」


「言わないで!」


 拒絶するように柚華は首を横に振った。


「……そんな酷いこと言わないでよ」


「いや、そういうことだろ。寝るときにさ、俺にペンを突き立ててるのだって、彼氏に申し訳ないと心の何処かで思っているからだろ。……あのさあ、俺じゃなくて彼氏を頼れよ。彼女が夜な夜な別の男の家に行って寝ているって知ったら彼氏はどう思うんだ? 悲しむに決まってるだろ。今ならまだ色々間に合うだろうからさ、早く帰れ。そして俺の家には来るな」


 俺は矢継ぎ早に感情の赴くまま言いたいことをぶち撒けた。怒りは湧いていない。ただ、柚華はもう別の男の彼女だって事実が歯痒かった。


 柚華は動かずに俺を見ていた。その瞳からは感情は読み取れない。


 やがて、目を閉じて柚華はふるふると首を振った。


「……うん、そうだね」


 柚華はいつも通りの嬉々とした声色で、顔に作り笑いを浮かべた。デパートの受付嬢みたいな笑みだった。


「ごめんね。色々と、じゃあ、帰る。ありがと」


 他人行儀の言い方で、表情で、俺と彼女の距離が幼馴染から他人にまで広がったように思えた。


 カラカラと掃き出し窓を開けて柚華は自分の家に帰っていった。


 部屋に吹き込む風は、夏が近いせいか早朝でも暑く感じた。


 俺は布団を被った。ところどころ濡れていて、柑橘系の匂いが鼻について、少しむせた。

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