第22話 桜(1)
いつだって、大丈夫よ、と言うのが、彼女の口癖だった。
確かに、彼女にとっては、どんなことも大丈夫だったのだろう。
嫌な空気の漂うダンジョンも、手強く恐ろしいモンスターも、彼女は何一つ恐れていなかった。
大丈夫よ、とシオンにはことさら、そう言った。
それは彼女の、強い使命感からきたものだ。血の繋がらない亜人の弟を、自分が守ってやらなければと、彼女は自らも幼いときに、自分に誓いを立てたのだ。
彼女は、ずっと強かった。
でも、弱いところも、シオンは知っていた。
生まれた場所を故郷というのなら、その記憶は無い。
だがそれを忘れがたい、懐かしい場所のことを言うのなら、シオンの故郷とは、家族と過ごしたあの家のことだ。
古ぼけた一軒家ばかりが並ぶ住宅街に、ひときわ古い和風の家屋があった。
それが、シオンが育った小野原の家だ。
築三十年という歴史を持った家は、驚くほど安く手に入れられたが、そのぶんボロボロだった。何年も手入れをされず、放置されていた廃屋を、近くのアパートに暮らしながら、父は毎日通って、自分の手で少しずつ直した。
人が住めるくらいになると、一家は引っ越した。
どうしても庭のある一軒家に住みたかったのだと、父は言っていた。庭のある家で、子育てをしたかったのだと。
せっかく息子がいるんだから、小さな庭でもあれば楽しいだろう、優しくロマンチストな父はそう考えたが、現実の子育ては、そんな夢をあっさりぶち壊した。
ワーキャットの男の子は、幼児であっても足腰が強く、わけも分からず人間の姉にじゃれつき、引っかいたり嚙んだりして、泣かせた。
庭を駆け回り、父が丹精込めて育てた花を踏み荒らし、土を掘り返したり、虫を咥えて家に戻ってくる。
人間社会で生きるワーキャットの親は、わが子が人間と一緒に生きられるよう、赤子のうちからかなり厳しくしつける。幼児期に、生まれ持った野生を殺してしまうのだ。
が、人間の父は、かえってのびのびと育て過ぎてしまった。
紫苑と名づけた男の子は、兄弟のワーキャットにそうするように、人間の子供である姉に、本能のままじゃれつき、鋭い爪で背中に大きな傷を与えてしまった。
耳と尻尾以外はほとんど人間だからと、娘のときと同じように考えた、父親の甘さだった。
人間に似ていても、ワーキャットの爪は硬く頑丈で、子供であっても専用の爪きりを使って、まめに手入れをしなければ、すぐに鋭く伸びてしまう。ワーキャットの親ならそれを知っているが、あまりにも人間の子供のようだったので、父は自分の知っている知識で育てようとしてしまった。男親のおおらかさもあっただろう。
可哀相な姉の背中には、のちのちまでうっすらと赤く爪の痕が残ってしまった。
男一人で忙しく二人の子育てをした時間は、毎日が嵐、というのさえ生ぬるい日々だったというのに、「あとから思い返すと、本当にかけがえのない素晴らしい日々だったとしか、思えないんだね。そんなものだよ」と父は目を細めた。
小学生のとき、『自分の小さいころ』をテーマに、家族に話を訊いて作文を書きなさいという宿題を持ち帰ったシオンに、父はそんなふうに、にこにこと話をした。
庭を眺められる雰囲気の良い縁側があり、夏にはそこに風鈴が飾られ、「ここに並んでスイカが食べたかったんだよ。家族でね」と父は言いながら、二人で並んで、あまり甘くないスイカを齧った。
隣の家の庭には、秋にはキンモクセイが咲き、強い芳香が鼻の良いシオンを辟易させた。
自分の家の庭には、父が好きな紫苑の花がいっぱいに咲く。自分の名前の由来であろうその花を父が植えていることが、嬉しくもあったが、気恥ずかしくもあった。
庭付きの家も、紫苑の花も、父が本当に自分を愛してくれようとしたのだと、子供心にも、痛いほどに分かった。
父の竜胆は、子供のときから冒険者になるのが夢だったという。
鍛錬し、勉強し、冒険者になると、叶えた夢は生活を支える糧に変わった。
頼りになる仲間とともに、さまざまなダンジョンを探索した。パーティーには人間も亜人もいたが、みんな気の良い、頼もしい仲間だった。
結婚し、子が出来ても、冒険にのめり込んだ。それは楽しさからではなく、家族を守るための手段になっていた。妻も冒険者で、結婚前は気の合う夫婦だったようだが、慣れない育児の疲れから夫から心を離し、娘を置いて出て行った。
共に生きてきた相棒を失った。それでも彼に冒険は辞められなかった。どのみち生活費は必要なのだ。九州に住む老いた両親に娘を預け、自分のために、金のために、娘のために、ダンジョンに潜った。
それほど情熱をかけた父の冒険は、唐突に終わった。怪我をしたわけでも、病気になったわけでもない。
あるダンジョンで亜人の子を拾った父は、その子を連れ、両親と娘の住む故郷に顔を出すと、「もう充分に金は貯まったから」と両親に告げた。そして、預けっぱなしだった幼い娘と、息子にすると言った亜人の赤子とともに、また関東に戻った。
両親はやんわりと、こっちじゃ亜人の子は向こうほど珍しくないから、男手だけで育てるよりはいっそ戻ってきたらどうか、と息子に勧めたが、彼は自分だけで育てると、がんとして聞かなかった。
自分で買って出た苦労のぶん、子供が無事とはいえないまでもなんとか成長していく様は、感動的という言葉さえも陳腐に思えるほどだった。
昼夜問わない赤子の泣き声に眠れない日々も、背中に怪我を負った娘と、自分のしたことも分からず暴れる息子を、前と後ろに抱えて夜中病院へ走ったことも、病気になった息子をつい獣医に連れて行ってしまい追い返されたことも、正直辛く、何度もくじけかけたが、あとになれば不思議と良い思い出ばかりになった。
さまざまなクエストをこなしてきた青春時代には、こんな輝くような時はもう一生訪れないだろうと思っていた。若く逞しく、エネルギーに溢れ、それに相応しく充足した時を過ごした。
あの日々を超えるものなんてないと、そう思っていたのに、そんなものをあっさり吹き飛ばすような怒涛の毎日は、どんなダンジョンに潜るより大変だった。
でも、冒険では見つけられない宝を、父はたしかに見つけ、はぐくんだのだ。
彼の宝とは結局、子供たちであり、家族だった。
亜人の子育ては、父一人で奮闘したわけではない。
いささか甘い父に代わって、野生的な弟を制したのは、姉だった。
姉は当初、力と運動能力では劣ったが、人間らしく知恵を付けるのは早かった。
あらゆる手段を使って、獣のような弟を叩きのめし、痛めつけ、荒っぽい姉とのコミュニケーションの中で、シオンも痛みと加減を覚えていった。
人間にやってはいけないこと、嫌がることや、怒られること、そして自身も人間らしい振る舞いが出来るようにと、たった二つ上の姉との本気の遊びとケンカの中で、厳しく教えられていった。
姉でありながら、兄のようでもあり、母のようでもあった。
そして、姉の荒々しい男勝りな性格は、元々の性質もあったかもしれないが、半分は幼少期にシオンが作ってしまったようなものだ。
やがて弟が人を傷付けるどころか、人の中でさえやや内向的な少年に育っても、彼女はますます豪胆に、逞しく育った。
穏やかな父と、大人しい弟にとって、やかましく元気な姉の存在は、彼女にとって彼らがそうであるように、いつもそこにあって当たり前のものだった。彼女の輝くような生命力が、そう簡単に失われるなんて、考えられるわけもなかった。
「ねえ、いいもの見せたげる」
と、彼女が耳打ちした。
「きっと、シオンも欲しいもの」
縁側で、何をするでもなく庭を眺めていたシオンの隣に、桜は寄り添うようにして座った。
姉弟なのだから、肩が触れ合うほど近くに居ても、不自然というほどではない。
だが、いくら仲が良くても、血の繋がらない姉弟でもある。
姉の桜は高校に入ったばかりで、シオンは中学二年になっていた。
この年頃でこうもベタベタしていては、いくら優しくておおらかな父も、心配するのではないか。シオンはひそかに思うようになっていた。
キャミソールから覗く桜の白い肩が、Tシャツ越しに自分の肩に触れるのを、避けたと思われないよう、自然な動作でそっと離した。
薄着の姉の背中に、うっすらと赤い傷痕が見える。
右肩から左下にまで向かって、斜めに裂かれた痕。
自分でも覚えていない赤ん坊のころに、爪で傷付けてしまったのだと聞いた。
近所にヒーラーはおらず、普通の医者に診せて縫ってもらったが、痕が残ってしまった。いまからでも腕の良いヒーラーに診てもらえば、治るだろうが、彼女は治すつもりはないようだった。
その傷を見るのが、シオンには辛かった。
けれど桜は、「子供なんてそんなもんよ」と、あっけらかんと言った。
「あたしだって、アンタの頭、タンコブでボコボコにしたしね」と。
だから桜は傷を少しも隠さない。シオンが付けた傷を。
「……なんだよ、いいものって」
一応そう答えると、その反応がいまいち面白くないのか、桜は眉をしかめた。
「なんか、メンドくさそうね?」
「そんなことないけど」
実際のところ、まったく興味が無いというわけではない。しかし、とても興味があるというわけでもない。ただ、姉は何かにつけてもったいぶるところがある。それにいつも付き合っていると、いい加減反応も冷めるというものだ。
「あんた、最近そっけないわね。泣きべそかいてお姉ちゃんのあとばっかついてきてたのに」
そしてすぐに昔の話を持ち出す。
幼いころの自分が、臆病で泣き虫だったことは否定しない。
近所の悪ガキに亜人であることをからわれ、尻尾を引っ張られて泣かされ、怒った桜が悪ガキを追いかけ回すうちに、結局一番のガキ大将になっていた。
いつしか、桜を恐れてシオンを苛める子供は、近所のどこにもいなくなった。
そんなふうに守ってもらっていたのも、事実だし感謝している。が、同時に一番小突き回して泣かせていたのも、彼女だったのだが。
「別に、そっけなくねーよ」
「そうかしら」
姉が眉間に深く皺を入れる。美人と言っていい顔立ちなのに、どうしてこう恐ろしい顔をするのだろう。シオンは小さくため息をついた。
「もったいつけるなよ。何がいいものかも分かんねーのに、どう反応すりゃいいんだよ」
「手ぇ上げて、すごく見たいですって言いなさいよ」
「言うか」
呆れるシオンに、桜は大げさにふうと息を吐き出してみせた。
「あんたねー。最近、暗いわよ? 毎日毎日、庭ばっか見て。背中からものすごい老人臭してたけど」
「別に庭ばっか見てるわけでも……ヒマなんだからそれくらいやれって、掃除も洗濯も買出しもゴミ出しもサクラが当番全部押し付けるから、けっこう忙しいけど」
「うるさいわね。事実でしょ。たまにしか学校行ってないんだから、毎日ヒマでしょ。それくらいやんなさいよ。ご飯は作ってあげてるでしょ」
「そうだな。焼いたやつは焦げてるし、煮たやつは半生だし、米は硬いけど」
「あんたを焼いてやろうか」
物騒なことを言う。冗談ではなく、彼女は多少だが魔力がある。本当にやりかねない破天荒さもある。
しかし焼かれるのではなく、両頬をぎゅっとつねられた。
「……イテーんだけど」
「顔が暗いから、思考も暗くなるし、陰険な物言いをするのよ」
「イテテテテ」
きゅっとつねるくらいなら可愛いが、加減を知らない姉は、頬の肉を思いきり掴んでひねり上げてくる。痛みを訴えるかのように、尻尾がバタンバタンと暴れる。
「頬、えぐれる……」
「大げさねー」
けらけらと笑い、相変わらず弱虫だと言いたげに、姉が笑う。離してもらった頬が、信じられないくらい熱く火照っていた。全然大げさじゃないのだが。
「……別に、陰険な物言いでもねーだろ。サクラのメシが不味いのは事実……イテテテテ」
やっと解放された頬を、今度こそ本当にねじ切られるかというほど、つねられた。
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