第15話 紅子(2)
「浅羽が謝るようなことじゃねーよ。それに一年のときじゃなくて、二年のときの話だから。オレこそ、悪いな。なんか、変なこと言ったみたいで」
「ううん……私、何にも知らなくて。小野原くんと、一年のとき同じクラスだったってだけなのに」
シオンが二年のときに突然学校を辞めた、その理由に彼女は思い当たったのだろう。
その頃、彼女は他のクラスで、何も知らずに穏やかに過ごしていたのだ。
それはそれで良いことだ。
しかし、場は一気に暗くなった。シオンは気にしていないが、紅子のほうは思いきり気にしている。
「オイ、空気悪いぞー」
「ボウズ、なんか言ってやれ!」
周囲で盗み聞きしていた冒険者まで、口を挟み始めた。
「バカ、そこで慰めるんだよ」
「肩抱くチャンスだろ」
「キスしろー」
何でだ。
好き勝手にはやし立てる大人どもを無視して、シオンは紅子に声をかけた。
肩は抱かないが。
「浅羽。別に、気にしなくていいから。一年のときは、そういえば楽しかった気がする。なんか忘れてたけど」
そう言うと、紅子は少し顔を上げた。
だが、屈託ない笑顔はすっかり陰をひそめ、太陽を隠されたひまわりのように悲しげだ。
「……ごめんなさい」
「いいよ。いいことも思い出したから」
「でも」
「お世辞じゃねーよ。オレも、二年のときのことばっか憶えてたから。でも、今日もし浅羽に会わなかったら、一年はそんなに悪くなかったってことも、忘れてたと思うし」
「……うん」
「だから、気にすんなよ。もう、昔のことだしな」
紅子はしばらく黙っていたが、やがて、こくんと小さく頷いた。
「小野原くんは、すごいね。やっぱり、すごく大人だなあ」
「そうでもねーけど」
「でも、やっぱり変わってないね。前から、優しかったもん。イジワルとか絶対しなくて、言わなくて、真面目で」
「普通だろ」
「でも、普通のことって、けっこう出来ないと思う」
ようやく、紅子は少し笑った。
「だから、小野原くんはすごいなあって思ってた」
彼女が笑うと、花が咲いたようだ。
表情が豊かなのは、彼女の心も豊かなのだろう。
シオンは安堵したが、周囲で見ていた冒険者からブーイングが起こった。
「なんだよ、それで終わりかよー」
「これだからガキは」
「キスしろよ」
するわけない。
とりあえず無視して、シオンは紅子の顔を見た。
「そういや、お前は、少し変わったよな」
「え?」
紅子がくりっとした目を丸くする。
さらさらと流れる、真っ直ぐな長い黒髪。
彼女のことをすぐに思い出せなかったのは、その印象が違うからだ。
あの頃は、二つに分けてきっちり結んだ三つ編みで、前髪もきっちり止めていた。今も別に派手というわけではないが。
じっと顔を見ていると、紅子は少し頬を赤くした。
「あ、そだね。私、あのときニキビすごかったもんね……」
「そだっけ?」
「うん」
「それは憶えてねーけど……」
そういえば口の悪い男子に、そんなことでからかわれていた気もする。
人間の中で育ったからか、シオンの感性はそれなりに人間寄りだ。少なくとも、自分ではそう思っている。目の前にいる紅子のことも、人間から見て可愛い顔立ちだというのは分かる。当時は、わりと地味な印象だったということも。
といっても、そこまで容姿にこだわりはない。いくら顔が可愛らしくても、亜人というだけで汚い獣を見るような目をする女なら、近づきたいとも思わない。
顔の造形の良し悪しなど、さして重要ではない。当時も、容姿のことで異性をからかうという感覚が分からなかった。
「あ、あの、小野原くん?」
じっと相手の顔を見るシオンに、紅子の白い頬がみるみる赤くなっていく。
成長したからか、紅子の顔にはニキビは見当たらない。そもそもあったかどうかも憶えていないのだが。
「ああ、そっか。その目。憶えてる」
「目?」
「目は変わらないだろ」
子供の頃、人の顔が憶えられないなら、目の印象を憶えるといいと父に言われたことを、シオンはずっと実践している。
二重のくっきりとした大きな瞳。ニキビが多かったかは憶えていないが、目が綺麗だった。大きな黒目が柔らかい印象を与えた。睫毛が長くて、目尻がくっきりしていて、笑うと三日月の形になる。
「お、おにょ、はらくん……?」
一方、人前で、じっと見つめられているほうは堪ったものではない。
そのうえ、紅子にとってはかつて憧れた少年だ。
紅子は水面に顔を出した魚のように、口をぱくぱくさせた。
紅子の心情など露知らず、シオンはワーキャットの悲しい習性で、つい鼻をひくつかせてしまう。
香水とか化粧とかの人工的な匂いではない。彼女はそういったものはつけていなかったし、そんなものをつけなくても、人間の若い女からはとても良い匂いがする。
ある程度離れていても、鼻の良いシオンには、少女の首筋から芳しい匂いがするのが分かる。それは、蜜蜂が花に惹かれるように、たまらなく魅力的な匂いだ。
うらはらに、紅子が悲壮な声を上げた。
「……ま、まさか、私、なんか臭いの……?」
「え?」
「へ、変な臭いでも、するの……? ま、まさか、昨日食べたギョーザが……?」
情けない声を出し、ふるふると震える紅子に、はっとシオンは我に返った。
しまった。やってしまった。
人間に拾われ育てられたシオンは、人間の家庭で、人間と同じように暮らし、人間の常識もそれなりに身につけたつもりではあるが、見た目だけでなく匂いまで駆使して個体識別しようとするのは、嗅覚の発達した種族にとっては、梅干を見たら唾液が出るような、抗えない習性なのだ。
(でもこれ、人間の、特に女の子にやったら、変態だからね)
姉の忠告が脳裏に響く。
その通りだ。しかしもう遅い。
あまり他人の匂いを嗅ぐな、特に女性に対してはと、厳しく躾けられたというのに。そんなことを忘れ、本能丸出しで思いきり嗅いでしまった。最近は人間と会う機会も少なかったので、油断していた。
「仕方ねーよ、ワーキャットの兄ちゃん」
「だって、猫だもの」
「もうキスしろ、キス」
いつの間にかギャラリーも戻って来ている。
なんの申し開きも出来ない。
謝るしかないと、シオンは頭を下げた。
「ごめん。悪かった。別に、変な臭いがするとかじゃねーから」
「え? ほ、ほんと? う、うん……なら、良かった」
逆に失礼に取られかねない謝罪だったが、泣きそうな顔から一転、紅子は安堵したような笑みを向けた。
「臭かったら、どうしようかと思った。昨日の晩御飯、ギョーザだったから……」
「いや、大丈夫。それは分からなかった」
「良かったあ」
紅子は胸に手を当て、ほっと息をついた。
どちらかというとあまりに良い匂いだったから、つい本能剥き出しで嗅いでいたなんて、言えるわけもない。
「なんだよ、キスしねーのかよ」
「オレならギョーザごと愛するぜ」
「むしろギョーザになりたい」
耳が良過ぎるのも考えものだとシオンは思ったが、紅子は気にしていないのか聴こえていないのか、まったく意に介していない様子だ。
「ワーキャットのわりにカタいな、アイツ」
「これはもう、姉ちゃんのほうから攻めたほうがいいな」
「お嬢ちゃん、ワーキャットは耳の裏だぞー」
下品な声援に、シオンは顔を引きつらせた。紅子もとうとうギャラリーの温かいアドバイスに気付き、目をしばたたかせた。
「え? なに? 耳の裏?」
「聴かなくていい。……ここじゃ話しにくいし、もう出ないか」
おおっ、と周囲がどよめいた。
そして、温かい拍手と口笛が起こった。
「え? え?」
「出よう」
シオンは耐え切れず、紅子の手を掴んで、外に出た。
「がんばれよー」
「男見せろよ」
背中に嫌な声援を受けながら、シオンは紅子を引っ張るようにして、センターを出た。
紅子は大人しくついてきてくれたが、状況がまったく掴めていないらしく、きょとんとした顔で、シオンの背中に向かって尋ねた。
「耳の裏って?」
「忘れろ」
シオンはもうすっかり、紅子のことを思い出していた。
あまり思い出したくなかった、中学時代の記憶。
子供の残酷さや陰湿さとはまるで無縁のところで、少女が微笑む。
中学に入学したての春。この前まで小学生だったシオンも、まだ幼かった。
休み時間にはいつも、小学校からの友人がシオンの机に周りに集まって、はしゃいでいた。
あの頃はまだ、人間だとか亜人だとか、あまり気にしていなかった。
隣の少女には迷惑だったかもしれない。彼女はよく俯いて、読書をしていた。本で顔を隠すように。
彼女と同じ学校だったらしい男子が時折やってきて、ニキビの多さをからかった。穏やかな彼女は反論もせず、俯いたまま笑っていた。
人間が持つ美醜へのこだわりがシオンには理解出来ず、人間とまるで違う耳や尻尾があることに比べれば、吹き出物のどこがおかしくて、悪いのかが分からない。だから彼女をからかう奴のことも、彼女が自信なさげに顔を隠す理由も、分からなかった。
それでも彼女の笑顔が優しく、朗らかなのは、知っていた。
彼女は大人しく、からかわれても黙って微笑んでいるような少女だったが、決して陰気でも卑屈でもなかった。
そうだ。思い出した。
毎朝、教室で顔を合わせると、そのときばかりはしっかり顔を上げ、おはよう、とシオンに挨拶をしてくれていた。今と同じ、天真爛漫な笑顔で。
(おはよう。小野原くん)
それはずっと、シオンが中学を辞めるまで。
クラスが変わっても、彼女はシオンとすれ違うたびに、声をかけてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます