第14話 紅子(1)

「浅羽?」

 シオンは顔をしかめた。


「うん。憶えてないかな? 中学のとき同じクラスだった、一年のときに、一学期の初めに隣の席だった、浅羽です」

 と言い、ちょこんと頭を下げる。

 長い髪が揺れ、ふわりと花のような匂いが漂う。


 中学一年のとき。一学期の初め。しかも隣の席。

 そこまで限定されれば、さすがに分かる。

 顔を上げ、にこりと屈託無く笑った少女の、その笑みを見て、ようやく思い出した。

「あー……」

「憶えてた?」

 嬉しそうに少女が言う。

 黒目の大きな瞳がきゅっと細くなって、目尻が優しく下がった。

 白い頬はちょっとしたことでも赤くなるのだろう、うっすら桃色になっている。

 その笑顔だけで、彼女が表情で見せる感情表現がとても豊かだということが分かる。

 本当に、心から嬉しい! というような顔だった。


 シオンは昔の同級生の顔を、実はあまり憶えていない。

 そもそも中学に通っていたのは、二年の途中までだ。夏休みに入る前に退学した。一年半にも満たない学校生活で、知っている同級生なんていくらも居ない。

 それに、在学時代のことは、なるべく思い残さないようにつとめてもいたのだ。

 それでも浅羽紅子と名乗った女子のことは、言われてからだが、思い出せた。

「たしか、出席番号が……」

「そうそう!」

 言い終わらないうちに、紅子が元気よく頷いた。

「私が女子の二番で、小野原くんは男子の二番だったよね! 懐かしいなあ。出席番号が早かったから、入学してすぐ日直して、プリントが色々いっぱいあって、でも小野原くんが、職員室から全部運んでくれたの」

「……そうだっけ?」

 あったかもしれないが、些細なこと過ぎて憶えていない。

「ごめん。あんまり憶えてない」

 正直に答えたシオンに、紅子は気に障る様子もなく、にこにこと頷いた。

「うん、だよね。でも、そういうちょっとしたとこが、小野原くん優しかったから、私はすっごく憶えてるなあ。あの頃って、小野原くんみたいな男の子、あんまりいなかったから」

「それは、まあ、そうかもしれないけど」

 亜人的な意味でかと思ったら、紅子ははっと慌てたような顔をした。

「あ、大人っぽかったってことだよ! 私ね、男の子ってちょっと苦手だったけど、隣が小野原くんで良かったなあって思ってたの」

 それは、勝気な姉にレディーファーストという名目で、言うことを何でも聞くように叩き込まれていたからだ。

 おかげで他の女子に対しても、意地悪をしてやろうとか、スカートをめくってやろうなんて考えたこともない。

「一緒に日直したときも、掃除とか黒板消しとか、ふざけないで、ちゃんと黙々とやってて、いい人だなあって」

「そう……ありがとう」

 中学の同級生から、こんなに真っ直ぐ褒められたことはなかったので、シオンは少し返答に困ったが、一応、礼を言った。



「――番号札、二十六番の方、おられませんか?」

「あ」

 受付嬢の機械的な声に、シオンは顔を上げた。

 手許の番号札を見やる。

「では、お次の二十七番の番号札をお持ちの方、ご案内いたします」

 ポーン、と無情な電子音が響く。

「しまった。抜かされた」

「あ、ごめんなさい。もしかして、呼ばれてたの?」

 紅子が窓口を振り返る。

 彼女もシオンも、一時間近く待ってようやく順番が回ってきた。このまま飛ばされては、いままで待った時間が無駄になる。

 そうしている間にも、ポーンと耳慣れた電子音が響いた。

「それでは、二十七番の番号札をお持ちの方……」

「よし、オレだ!」

 二十七番の番号札を掲げた冒険者が、喚起の声を上げる。

「センター内は走らないでください」

 もう絶対に譲らんとばかりに走って窓口に向かう冒険者を、受付嬢がマイクで嗜めている。

「ええっ! うそ! あのっ、すみません! 二十六番います!」

「いや、いいよ」

 慌てて声を上げた紅子を、シオンが引き止める。

「別に、オレは急いでねーから」

「え、でも、小野原くんの番……!」

「どうせ、大した用で来たわけじゃねーから」

「で、でも、でも、ずっと待ってたんでしょう? これ、お仕事だよね? 大事だよね?」

「そうだけど、急いでねーから。金、困ってないし」

 それは本当だ。急いでいないのも、本当だ。

 まったく急いではいないが、わざわざ混みあっているこの日に来たのには、理由がある。

 週初めの月曜日は、センターに来た仕事の依頼が更新されるのだ。

 お行儀の良い連中が多いとは言えない冒険者が、何時間も並んでまで待つのは、少しでも条件の良い仕事を先取りしたいからだ。シオンもそのつもりだった。

 先日依頼をこなしたばかりなので、今週は休んでも良いくらいだ。しかし休んだところでヒマだし、腕が鈍るような気がしたので、ブラブラと仕事を探しにきたというだけだ。

 だからいますぐに仕事を探したいわけではない、とシオンは紅子に説明した。

「こないだ、ダンジョンに潜ったばっかだから」

「へえー、すごい」

 ダンジョンと聞いてか、紅子は感嘆の声を上げた。

 素直過ぎるほどの、羨望と尊敬のまなざしを向けられる。

「いいなあ、ダンジョン」

「いいか?」

「うん。羨ましいな」

「お前、冒険者志望なのか?」

「うん……」

 頷く彼女の表情が、ふいに、ぼんやりしたものになった。

「浅羽?」

「え?」

 声をかけると、ぱちくりと目を見開き、紅子はシオンを見た。

「あ、うん。そうなの、私、冒険者になりたいんだ」

「学校は?」

「あ、えーと……」

「サボったのか?」

「えへ……」

 半笑いで目をそらす。嘘をつけない性格らしい。

 平日の昼間だというのに、学校をサボってまで冒険者になりに来るなんて、そんなエキセントリックなタイプには見えない。かつては真面目な少女だったし、今もそうだろう。


 なにか、事情でもあるのかもしれない。

 ぼんやりした彼女の表情が、いやに印象に残った。

 それまで好奇心に満ちた大きな瞳は、きらきらと輝いてみえたのに。急に光を失ったような気がしたのだ。

 気のせいかもしれないが、それがシオンの心に引っかかった。


 紅子は申し訳無さげな顔で、何度も窓口を振り返っている。

 その様子に、不審なところはない。

「ごめんなさい、小野原くん」

 シオンが向かうはずだったカウンターでは、すでに他の冒険者が仕事を探せと受付嬢に急かしていた。

「ああ、ほんとにいいんだよ。どうせ、もうちょいしたら空く。依頼は減ってるかもしんねーけど、金に切羽詰ってるわけじゃないし。こないだ、まとまった金をもらったから、しばらくでかい仕事する気はねーし」

「へえ……なんか、すごい」

 と紅子は息をついた。

「何が?」

「小野原くん、ほんとに冒険者なんだなあって」

「ああ」

「でも、小野原くんなら出来そうだね」

「そうか?」

 まあ、実際にやっているわけだが。

「うん。小野原くん、中学のときもしっかりしてたし。大人っぽかったから」

「そうだったかな」

 クラスメイトにそんなふうに思われていたとは意外だ。

「変わってないね、小野原くん。でも、背が高くなったね」

「そうかな」

 当時に比べれば、それはそうだろう。クラスの中でも小さいほうだった。

 大柄な者が多い亜人にしては、ワーキャットは小柄なほうだ。今も、人間の男子高校生と比べても平均程度だろう。しかも、細身だからか、実際より小さく見られがちだ。

 目の前の少女のほうが、当時と少し印象が違う気がする。

 少なくともあの頃は、そんなに目立った美人という印象はなかった。

 大人しい少女だった。


「浅羽か。ちょっと思い出した」

 シオンの言葉に、少女の顔がぱっと華やぐ。

 同年代の男子なら、その瞬間に彼女に恋するかもしれない。そのくらい天真爛漫な笑顔だった。

「ほんと? よかったぁ。でもほんと、一年の最初のとき、隣の席だったってくらいだもんね。私、喋るの下手だったし。ごめんね、急に声かけちゃって」

 へへ、と少し恥ずかしげに言う。

「いいよ。オレも思い出せて、良かったよ」

「そっかあ。良かった。あ、小野原くんだ! って思ったから、何も考えずに声かけちゃって。ああ、ドキドキしちゃった」

 とセーラー服の胸に手を当てた。

 中学の制服も、セーラー服だったっけ、とシオンは思い出した。


 そういえば。

 彼女と、夕暮れの教室に居た。そんなことを思い出した。

 放課後、二人で教壇を拭き、ほうきで床を掃き、黒板の日付けを書き換え、その下に明日の日直になるクラスメイトの名前を書いて、黒板消しをクリーナーにかけて、日誌を書いた。

(……次の出席番号の奴って、誰だっけ)

 チョークを手に、黒板に向かいながら、シオンはクラスメイトの少女に尋ねた。

 日誌にペンを走らせていた少女が、ぱっと顔を上げた。

(あ、えっとね、江崎さんと……佐々木くん)

 肩下まで伸びた髪をきっちり三つ編みに束ねた、見るからに真面目な女子生徒だ。

(え? 男子っていきなり小野原から佐々木まで飛ぶのか?)

(うん。確かそうだよ。うちのクラス、名字がか行の男の子、いなかったと思う)

(へー。そうだっけ……)

(小野原くん、自分の席の後ろの人、覚えてないの?)

(……まあ、まだ入学したばっかだし)

 窓から差し込む夕日に、彼女の笑顔が溶け込んだ。

(私の名前も、覚えてなかったりする?)

(浅羽だろ。今日、何回か呼んだだろ)

(そっか。そうだよね)

(もう覚えた)

(ほんと? 良かったあ)


 そうだ。大人しい奴だったけれど、あのときから、笑った顔がいやに可愛い奴だった。


「なんか、だんだん思い出してきた」

「ほんと?」

「うん。日直のこととか。最初に一緒に日直やったとき、お前、次の日直の奴の名前、間違っただろ」

「あ、あれは……!」

 紅子の顔が笑ったまま固まる。

「一人飛ばしたよな。か行で始まる男子はクラスに居ないって言って、北村のこと飛ばしただろ」

「北田くんだよ! で、でも、そもそも、同じ男子で後ろの人のこと覚えてない小野原くんも、どうかと思うんだけど……!」

「でもお前、自信満々で、か行はいないって……」

「もー、その話はいいから!」

 紅子は学生鞄の持ち手を握り締め、顔を真っ赤にして怒った。

 そんな彼女を見て、シオンも小さく笑った。

「笑わないでよー。もう、久しぶりに小野原くんと話せたのに、ヘンなこと思い出さなくていいのに……」

 ふくれ面で紅子が訴える。

「いや、面白いと思うけど」

「いいの、そんなの! もー、私は小野原くんに会えてすっごい嬉しかったのに!」

「そんなに?」

「あ、え? ……う、うん」

 勢いで口走ったことに真顔で返され、紅子は見る見る顔を赤くさせた。

「ほ、ほら。中学のときって、なんか、あるじゃない? クラスで、人気ある子って、いたでしょ?」

「いたっけ」

「いたよー。女子ならチィちゃん……近田さんとか!」

「え、誰だっけ……」

「ほら、髪とかふわふわで、細くって、ほんわりしてて……」

「……分かんねえ……」

「あとね、吉川さんとかも人気あったよー、美人で。あとユリナちゃんとか……」

 シオンは顔をしかめつつ、思い出す努力はしてみた。懸命に説明してくれる紅子には悪いが、彼女以外の女子は一人も思い出せなかった。


 思えば、可愛い女子に憧れるというような、男子としてはごく健全な思い出が一つも無い。

 姉が強烈だったからかもしれない。

 もし、好きな女子が出来たら絶対に報告しろと、常日頃から言われていて、そろそろ好きな女子は出来たのかと、三日おきに尋ねられていた。

 家庭内がそんな環境で、好きな女子を作ろうなんて、思うはずもない。


 すると紅子が、思いもよらなかったことを口にした。

「小野原くんは、女の子の間で人気あったんだよ」

「オレが?」

「私と比べたら小野原くん、目立ってたから」

「だろうな」

 と答えると、またも紅子ははっとした顔をした。

 その目線の先には、シオンの耳がある。

「あ。違うの! 耳とか尻尾のことじゃなくて! って、ああ、ごめんなさい!」

 紅子がまたぺこぺこと頭を下げた。忙しい。

 いつの間にか、周囲の冒険者も二人のやり取りに見入っている。

「じゃなくてね、小野原くんが亜人さんだからとかじゃなくて、昔から、すっごくカッコよかったから、だから!」

「ああ……うん」

 胸の前でこぶしを握り、力説する紅子にひたすら気圧されながら、シオンはとりあえず頷いた。

 亜人の自分が人間のこんな美少女に褒められても、むず痒いだけだが。

「分かった……ありがとう」

「ん? あれ? 小野原くん、信じてない?」

 今度は怪訝そうな顔になる。

「何が?」

「小野原くんがカッコよくて、クラスの女子はみんな小野原くんのこと好きだったって話」

「広がってないか?」

 それにその話だと、浅羽お前もその中に入るぞ、と思ったが、そう言えばまた慌てふためくだろうと思ったので、黙っておいた。

「分かった。ありがとう、浅羽。もういいよ」

 むう、と紅子は顔をしかめた。

「お世辞とかじゃないよ? ほんとに。小野原くんのことカッコいいって、女の子けっこう言ってたんだよ」

「女子に?」

 まったく身に憶えが無い。

「うん。私、出席番号一緒でいいなーってよく言われたもん」

「亜人は臭いって言われたことしかねーけど」

「え、なに、それ」

 紅子の顔が凍りつく。

 シオンにとっては昔の話だが、いま知った紅子は、突然頭を殴りつけられたかのように、ぽかんと口を開けたまま固まった。

「……ほんとに?」

「ああ」

 わざわざこんな嘘はつかない。

「ヒドい」

 一瞬紅子は怒ったように唇をきゅっと引き結んだが、すぐにしょんぼりとうなだれた。

「……ごめんなさい。私、はしゃいじゃって」

「いや、いいけど。昔のことだし」

 別に気にしていない。それよりもころころ変わる紅子の百面相が面白く、つい見入ってしまっていた。

 性格は全然違うが、姉を思い出した。

 姉の桜も喜怒哀楽が激しく、しかも感情表現がストレートで、有無を言わせないパワーがあった。黙っていれば可愛らしい容姿が、苛烈な性格をより際立たせた。

 でも、それが彼女の魅力だった。どうしようもなく強く、わがままで、素直で、周囲は振り回されながらも、彼女を愛した。遠慮なくその魅力を撒き散らす彼女に、誰も逆らえなかった。

 そういう女だった。


 紅子の雰囲気は、もっと柔らかい。穏やかで、優しくて、無邪気だ。

 だから今も、シオンの過去を掘り出してしまい、素直に傷ついているのだろう。

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