第10話 覚悟
美緒が目を覚ますとぼんやりとベッドの側に居る男の人の姿が見えた。
「やっ君……」
「美緒、大丈夫か?」
その声は、兄の哲也の声だった。
「お兄ちゃん、またやっちゃった。やっ君は?」
「今、別の部屋で休んでいるよ」
「えっ? どうして?」
「倒れたんだ。お前をここまで運んできた直後に」
「どうしよう、私の所為だ」
美緒がクシャクシャな顔になり泣き出した。
「彼はお前の所為だなんて思わないよ」
「で、でも……なんであんなに優しいんだろう」
「兄ちゃんには理由は判らない、でもこれだけは判る。彼は真っ直ぐなんだって不器用なくらいにな。良いのか本当に恋人ごっこで」
「う、うん。だって皆に心配かけているのに私だけ幸せにはなれない。お父さんのお店も大変なのに」
「馬鹿にするな! 家族なんだぞ! 家族だから頑張ってるんじゃないのか? お前の笑顔を、我が子の幸せを願って。違うのか?」
美緒が力なく答えると兄の哲也が声を荒げて美緒の目を見た。
「ゴメンなさい。でも大変なの判るから、家族だからこそ判るから。それにお父さん最近来てくれないし」
「それは彼のお陰で……」
「彼って、やっ君がどうかしたの? そう言えば急に仕事が決まったって、お兄ちゃん教えて」
「真っ直ぐに向き合おうとしている人間に『ごっこ』なんて言う、中途半端なままの今の美緒には何も教える必要は無い」
今まで一度も聞いた事のない様なくらい厳しい兄の声だった。
美緒の心が揺れた。
「どうして? お兄ちゃんはそんな事を言うの?」
「なぁ、美緒。何で八雲さんは会いに来てくれたんだろうな。俺ならできないとおもう。いくら付き合っていたとはいえ10年以上前に別れてさ。いきなり病気だから会ってやってくれなんて言われてだぞ。本当は来月に東京に来る予定だったらしいじゃないか。それを全てキャンセルして直ぐに会いに来てくれたんだぞ」
「そ、そんな事知らなかった……」
兄の哲也が言い聞かすように美緒に優しく話し、そして未だに戸惑っている美緒に聞いた。
「もし、もしだぞ。美緒が逆の立場だったどうする? 彼に八雲さんに時間が残されていなかったらお前は会いに行けるか? 時間が残されていない事を知っていて笑顔でいられるか? そんな彼に優しく出来るのか?」
「美緒には出来ない、美緒はそんなに強くない」
「八雲さんの覚悟は半端無いんだよ。兄ちゃんには真似できない。そんな彼にお前は恋人ごっこをしようと言ったんだぞ。覚悟を決めた筈じゃないのか?」
「怖いの、やっ君の優しさが……好きになればなるほど怖いんだよ……」
兄の哲也が優しく諭すように話を続ける。
「まるで、兄ちゃんが美緒にサーフィンを教え始めた時みたいだな」
「どうして?」
「そっくりじゃないか、波を怖がっていた頃のお前に。兄ちゃんその時なんてアドバイスしたのか覚えているか?」
「忘れないよ。波を怖がるなって、海を怖がるなって。舐めたら痛い目に合うけれど自分から飛び込めば判る筈だ……」
美緒の心の中でモヤモヤしていたものがスーッと晴れていった。
「八雲さんの事を海みたいだって言ったらしいじゃないか。海は荒れると凄く怖い、でも穏やかな時は全てを包み込んでくれる。嫌な事も辛い事も海を見ていると海と一緒に居ると忘れる事が出来るんじゃないのか?」
「良いのかな?」
「失礼だぞ。覚悟を決めた人に中途半端な気持ちじゃ、それは優しさじゃない侮辱だ」
「そうだね、車の中でやっ君泣いてた。私の為に涙を流してた」
その時、ドアをノックする音が聞こえ。
返事をすると島中が現れた。
「そろそろ、お目覚めの頃かなって思ってたら起きてたんだ。お兄さんには起きたらコールして下さいって頼んであったのに」
「すみませんでした。つい」
哲也が罰が悪そうに頭を掻いている。
「良いんですよ。みんな美緒ちゃんの事が心配でしょうがないんだもんね」
「島中さん、やっ君は?」
「大丈夫、今は別の病室で眠っているわよ。過労だろうって高柳先生が。寝れば元気になるわよ」
「本当に?」
「美緒ちゃんに嘘をついたことある?」
「無いけど」
「私、判った気がするの。八雲さんがあんなに優しく強い理由を、八雲さん子どもの頃ここに入院していたんだって。その時に仲良くなった友達ととても辛い別れをしているの」
「そう言えば子どもの頃、体が弱くって入院していたって」
「考えられる? 小学生の子が何度もそんな別れをしていたなんて、常に死が周りにあったなんて。私には耐えられない看護婦がこんな事を言うのは変かも知らないけれど」
「それが普通だと思うよ。美緒だってやっ君を失ったらどうなちゃうか判らない」
「八雲さんにとって別れってそう言うことなんだよ。一期一会だからこそ出会った人には精一杯してあげたいって、出会いは奇跡なんだっていつもブログに書いてあった」
「でも、最後だって……」
「美緒ちゃん、怒るよ本当に。言った筈だよ人生に遅いなんて事は無いの。任せなさい私達サポーターが何とかしてあげるから。ね、お兄さん」
「私達?」
美緒が兄の方を見ると照れたような顔をして頭を掻いていた。
疲れていてあれから美緒は直ぐにまた眠ってしまった。
美緒が目を覚ますと月明かりが窓から差し込んでいて夜中だと言うのに部屋の中がとても明るかった。
窓の方に目をやると青とも紫ともつかない不思議な色をした光の中で窓の外を見ている男の姿が見える。
男の横顔は深い哀しみに沈んでいる様に見えた。
「誰? やっ君なの?」
美緒が声を掛けても返事が無く体を起こして男の肩に手を置いて顔をこちらに向けようと頬に手をやる。
「痛っ!」
「えっ、ゴメンなさい」
八雲が頬に手を当てると美緒が驚いて手を離した。
「驚かせてゴメン。美緒の所為じゃないよ、妹に殴られたんだ」
「妹さんに?」
「ああ、無茶ばかりするなって。兄貴が居なくなってしまったら誰が一番悲しむんだ? 親父でもお袋でもまして私でもなく美月さんが一番悲しむんじゃないのかって。無理しても良いけど絶対に倒れるな男だろって。ゴメンな哀しい思いばかりさせてしまって」
「やっ君、それは私の為を思ってしてくれたんでしょ。体はもう大丈夫なの?」
「問題ないよ、大丈夫だ。優しさの押し売りだったのかもしれないな」
「そんな事言わないで。私……」
その時、俺の携帯がメールの着信を知らせて会話が途切れた。
「悪い、携帯の電源切ったはずなのに」
「この部屋は大丈夫だよ。看護婦さんが言ってたもん」
携帯を見ると妹からのメールで着ウタが添付され『明日、彼女としてでなく、兄貴の奥さんとして紹介しろ』とだけ書いてあった。
「無茶苦茶な事を言いやがる」
「誰から?」
「妹……」
「何て?」
「…………」
俺が答えに困っていると今度は美緒の携帯が着信を知らせ美緒が携帯を開いた。
「誰だろう、こんな時間にメールなんって。兄貴だ、花嫁さんへ? 俺からのプレゼントだ?」
美緒が枕元を見ると可愛らしい紙袋が置かれていた。
美緒が紙袋を手に取り袋をさかさまにすると美緒の足の上に純白の布のような物が出てきた。
「何だろうこれ? えっ、白いレースのベール? もしかして……」
「ふふふ、やられたよ」
「どう言うこと?」
「たぶん、こう言う事だ」
メールに添付されていた着ウタをかけると安室の『CAN YOU CELEBRATE』が流れてきた。
「それって、ウエディングソングの定番だよね」
「美緒、俺には恋人ごっこは出来ない。これが俺の覚悟だよ」
改めて覚悟を決め美緒の前にリングケースを差し出した。
「やっ君、これって?」
「指輪だよ」
「嬉しいけれど、結婚なんて考えてなかった。やっ君と一緒に居たいだけだよ」
「俺じゃ駄目か?」
「駄目じゃないけど」
美緒はまだ揺れていた。
月明かりの中、優しい音楽が微かに流れている。
まるでここが病室であることなど忘れてしまうほど幻想的だった。
美緒に優しくベールをかけると病室のドアの向こうから哲也さんの声がした。
「美緒。怖がるな、海は何も怖くない」
「お兄ちゃん、ありがとう」
それは哲也さんの優しい声だった。
哲也さんの声を聞いて美緒の瞳から迷いが消えたのが判った。
俺は美緒の手をそっと握る。
そして哲也さんはドアの外でこう続けた。
「八雲隆志。汝は美月美緒を妻とし凪の時も時化の時も妻を守る事を誓うか?」
「誓います」
俺は心の奥から言葉を紡ぎ出した。
「美月美緒。汝は八雲隆志を夫とし凪の時も時化の時も夫に添い遂げる事を誓うか?」
「うん、誓います」
美緒が涙を流しながら嬉しそうに答える。
「2人を認めよう」
俺は美緒のベールを持ち上げて優しく口付けをすると美緒が少し赤くなり俯いた。
指輪を美緒の左手の薬指にはめると美緒が俺の左手の薬指に指輪をはめてくれた。
「それでは、永遠の証をここに」
哲也さんがまだ続けた。
不思議な顔をして美緒と顔を見合わせるとドアが静かに開き、ナース姿の島中さんがロウソクと布張りの綺麗な大き目の本の様な物を持って入ってきた。
俺と美緒の前まで来るとその本の様なものを開く、すると中から婚姻届が出てきた。
「えっ? 島中さん」
美緒が驚いて島中さんの顔を見上げて声を出すと島中さんがウインクして口に人差し指をあてた。
婚姻届の証人の欄には俺の妹夫婦の署名と美緒の両親の署名があり、親切ご丁寧にも2人の印鑑も捺印されていて署名すれば直ぐに役所に出せる状態だった。
島中さんにペンを渡されてロウソクの灯りと月明かりを頼りに署名する。
美緒にペンを渡すと美緒の手が震えていた。
「大丈夫か? 美緒」
「大丈夫だよ、嬉しくって」
そう言って署名をした。
「おめでとう」
祝福の言葉を言うとロウソクを吹き消して島中さんは病室から出て行く。
島中さんと哲也さんが病室から離れていく足音だけが聞こえた。
2人の間に静かな夜が流れる。
俺は月明かりに照らされた美緒の顔を見つめていた。
「とても優しい目だね、やっ君の目は。お願いを聞いてくれる?」
「言ってごらん。美緒のお願いなら何でも」
「それじゃ、こっちに来て。前みたいにギュッて抱きしめて」
ベッドに腰掛けている美緒の横に座り優しく抱きしめると美緒がいきなりキスをして俺の体を押し倒した。
「これが美緒の覚悟だよ」
「でもな、判った。俺のお願いも1つだけ聞いてくれるか?」
「うん」
「明日の午後、一緒に行きたい所があるんだ」
「どこに行くの?」
「近くの公園だよ」
「動物園?」
「そうなるかも」
俺の言葉に同意する様に優しく美緒がキスしてきた。
俺は美緒の優しい香りに包まれた。
翌朝、いつもの時間に美緒は島中さんに起こされた。
「美緒ちゃん、朝だよ。いつまで寝ているの?」
「まだ、眠いよ」
「ほら、検温の時間だから」
「う~」
寝ぼけ眼で島中さんの顔を見た時に昨夜の月明かりの中での事が頭に浮かんできた。
「あれ? 夢だったのかなぁ」
「もう、何を寝ぼけているのかなぁ。花嫁さん」
島中さんに言われて左手を見ると薬指の指輪が光っていた。
「島中さん、ありがとう」
「どういたしまして。幸せにならないと承知しないからね」
「うん。今、すごく幸せだよ」
「早速、お惚気ですか? お兄さんが朝食の後で迎えに来るって言ってたわよ」
「えっ? 私、聞いてないよ。リハビリがあるのに」
「確かに伝えたからね」
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